なかでも、98-99シーズンは国内外のメジャータイトルを独占。イングランド・サッカー史上初の「トレブル(三冠)」という大偉業を達成するという、マンチェスター・Uにとっては輝かししいシーズンとなった。

 しかしキーンは、CLでは累積警告のために、バイエルンとの決勝には出場できず、試合終了間際の2ゴールで劇的な逆転勝利を飾った「カンプ・ノウの奇跡」を、スタンドで見届けることに。もっとも、チームは後半アディショナルタイムまでバイエルンにリードを許すなど大いに苦しみ、かえってキーンの存在感と重要性を際立たせることにもなった。

 プレーだけでなく、その旺盛な闘争心とリーダーシップを有していた彼は、97年のエリック・カントナの現役引退を受け、キャプテンに就任。若い選手たちを時に震え上がらせながらも、間違いなくチームに好影響をもたらし、勝利に導き続けた。

 激しい性格で、歯に衣着せぬ物言いから、自ら多くの対立関係を作ることはあったものの、キャリアの大部分で共闘したファーガソン監督からは「世界最高のMFであると同時に、クラブの輝かしい歴史に名を残す偉大な選手だ」と称賛されたように、味方にすれば、これほど頼りがいのある存在も他にはなかったと言えよう。
 
 マンチェスター・Uで多くの栄光に浴したキーンだが、彼のキャリアを語る上で、アイルランド代表の緑のユニホームを身に纏っての激闘を忘れることはできない。

 ただ、それは争いの歴史でもあった。各年代の代表チームを経て、U-21代表に昇格した時、彼は早くもチーム上層部の姿勢に疑問を抱き、91年にA代表への招集を受けた際、一度はこれを拒否している。

 それでも、ノッティンガム・フォレストでの活躍によって、ジャッキー・チャールトン代表監督から再びオファーを受け、91年5月22日の親善試合チリ戦でA代表デビューを飾った。

 イングランド代表として66年ワールドカップで栄光のメンバーの一員となった名将の下でも、キーンはレギュラーポジションを獲得したが、前述の招集拒否の際に「断るなら、二度と代表には呼ばない」と通達されたという経緯もあって、クラブでのような信頼関係はなかなか構築できないでいた。

 当時のアイルランドといえば、堅守を軸に、攻撃ではパワーとスピード、そして運動量で相手を凌駕し、88年EURO(初のメジャーイベントながら初戦でイングランドを下す)、90年W杯(ベスト8)と、大舞台で結果を残していたが、テクニックに秀でていたキーンは、このスタイルを好まなかったという。

 指揮官と反目し合い、アメリカ遠征ではチームメイトと飲みに出かけて宿舎への帰りが遅くなったことを咎められ、帰国を命じられたりもしたが、94年夏には再びアメリカの大地に立つ。

 初めてのW杯に出場したキーンは、中盤でハードワークを見せながら、チームで数少ない、テクニックでアクセントをつけられる存在としても期待され、本大会の初戦では優勝候補イタリア相手のジャイアントキリング達成に貢献した。

アイルランドは、次戦でメキシコに敗れるも、最終戦ではノルウェーの猛攻をしのぎ切り、2位で決勝トーナメント進出。ラウンド16のオランダ戦では、前半のうちに2点を失い、終盤に相手が疲れたところで攻勢に転じたものの、ゴールを奪うことはできずに終戦を迎えた。

キーンは4試合フル出場を果たし、高い評価を得たものの、チームが前大会の成績を上回れなかったことや、その戦いぶりに納得できなかったこともあって、全く満足できなかったという。

 その後、EUROの2大会、怪我でほとんど参加できなかった98年W杯と、続けて予選敗退を喫した後、2002年、日韓開催のW杯でアイルランドは久々に大舞台に立つ。円熟味を増していたキーンも、99年に自らの決勝ゴールでマンチェスター・Uを世界の頂点に導いた、思い出の地である日本に、キャプテンとして到来するはずだった。