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ふと魔が差して…

私たちは毎日、幾度となく、ちょっとした選択を迫られる場面に遭遇します。そんな時にみなさんはどのような基準で選択をされるでしょうか?

今回はそんな場面で、ちょっとした出来心から「ずるい選択」をしたために、大切な持ち家を失ってしまったある男性の話を紹介したいと思います。

山田隆さん(仮名、登場人物は全て仮名)は現在70才(以下で紹介する事件の際には60代)ですが、背筋がしゃんと伸びて肌ツヤも良く、髪も黒くフサフサしており、お洒落なシニアという言葉が相応しい方です。

彼は外国人観光客が急増している関西地方のある下町に若いときから住んでいます。
結婚の経験はなく、子供もいません。すでに勤めていた工場を退職。悠々自適の日々を送っていました。

「この歳になって、まさかこんなことになろうかなんて思ってもいませんでした…」

穏やかな日々を過ごしていた山田さんを予期せぬ不幸が襲ったのは、自宅に設定されていた借地権を巡るトラブルがきっかけでした。

ご存じない方に説明すると、借地権とは、建物を建てる目的で地主から土地を借りる権利のことで、土地を借りている「借地権者」(この場合は山田さん)は貸主に地代を支払います。山田さん一家(山田さんとその両親)も25坪の土地を借り、そこに自宅を建てて、長年住んできました。

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この借地権に伴う地代は、一般的には格安の場合がほとんどで、山田さんの場合も、年間の地代はわずか15万円。

「毎年末、近所に住む地主にあいさつに行く際に15万円を払っていたのですが、ほとんどあいさつの手土産といった感じだったと記憶しています」

ところがある時期以降、山田さんはこの15万円の地代すら支払わなくなってしまったのです。

もともと人付き合いが得意ではなかった山田さん、地主とは年末のあいさつを除けば、ほとんど関わりがありませんでしたし、その年末のあいさつすら、実は億劫でした。それに加えて大きかったのは、山田さんのお父さんの死後、地主が地代の支払いを求めてこなくなったことです。

「年が明けても請求が来ないのはやや気になったものの、私自身お金が余っているわけではなかったため、そのままやり過ごすことにしたのです」

突然スーツの男がやってくる

地主とばったり出会うことはほとんどありませんでしたが、別棟に住む地主の弟さんとは時折道ですれ違うことがあり、その時など「地代のことを言われないか?」とドキドキすることもありました。が、彼も事情を知らないのか特に何も言われません。

それから1年が過ぎ、さらに2年目の地代の支払い時期になっても地主からは何も言ってきませんでした。

「これはもしかしたら地主も高齢のせいで地代のことを忘れているのではないか。だとするとこれはすごいラッキーかも知れない」

山田さんはそんなことを考え始めました。

自分勝手な解釈ですが、その後も地主からの請求はなく、ついには山田さん自身、しだいに地代の支払いのことを忘れてしまったのです。

しかし、最初の「滞納」から5年が経ったある日、事態は大きく動きました。地味なスーツ姿の男が、突然自宅を訪ねてきたのです。

2階からたまたまその様子を見た山田さんは、悪い予感を覚えとっさに居留守を使うことに決めました。玄関の呼び鈴が3回くらいなったものの、諦めたのか男たちは帰って行きました。

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しかし、ほっとしたのも束の間、翌日もスーツ姿の連中がベルを鳴らします。

「これはただ事ではない。出るだけ出た方がいいのではないか?」 

迷っているうちにまた彼らは帰ってしまいました。「自分は耳が遠い。これは聞き間違いだ」と、山田さんはいつも都合のいい解釈で納得してしまいます。

さらに翌日、今度はポストに封筒が入っていました。中を明けると弁護士事務所の名刺と、「至急電話が欲しい」旨が書いてあったのです。

さすがにこれは無視できないと思った山田さん、勇気を振り絞り弁護士事務所に電話をかけることにしました。

用件はやはり地代に関することでした。電話口で弁護士はこう言いました。

「あなたは5年間にわたり、毎年年末に払うべき地代(合計80万円弱)を貸主である地主に払ってきませんでした。民法上の基本原則である信義誠実の原則(信義則)に反しており、貸主との信頼関係を破壊しました。よって借地契約を解除させていただきます」

「強制退去」を求められる

慌てた山田さんは、翌日銀行に走ろうと思いました。しかし運悪くその日から大雨が続き、出不精の山田さんは銀行へ行くのを先延ばしにしてしまったのです。ようやく銀行に行ったのはそれから3日後。預金口座から80万円を引き出し、支払う旨を弁護士事務所に連絡しようとしたところ、またしても自宅に通告書が届いたのです。そこに書かれていたのは先日、電話で言われたものと同様の内容です。

すぐに弁護士事務所に電話をかけたものの相手はけんもほろろで「自宅を出て行け」というばかりです。

これはもう自分の手に負えない。そう思った山田さんは区の無料相談で知り合った弁護士に相談しました。するとその弁護士はこともなげにこう言いました。

「自宅は出ていかなくて大丈夫。支払う意思を見せているので安泰ですよ」

安心した山田さんはその後の交渉をこの弁護士に依頼しようとしましたが、ここでもお金の話になりました。山田さんの弁護士からは「着手金として30万円支払ってほしい」という内容でした。

しかし、そんなお金はもったいないと思った山田さん、本来は弁護士を通して交渉するべきなのでしょうが、またも彼の自分に都合のいい解釈が炸裂。

「もともと弁護士が大丈夫だって言ってたし、お金もったいないし、なんといってもこちらはお金を払う用意があるのだから問題ないだろうから自分で相手の弁護士とやりあってみよう」

しかし、それは希望的観測に過ぎません。その翌週、地主側の弁護士から今度は「強制退去」を求める内容の文書が届いたではありませんか。

さすがに慌てた山田さん、当初相談した弁護士に電話したものの、返ってきた言葉は、信じがたいものでした。「強制退去になった以上、着手金をいただけなければ、弁護士としてこれ以上の仕事は受けられません」

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山田さんは弁護士費用ももったいないし、どうせ退去になるくらいなら地代を支払うのももったいないというということで、そのまま先方弁護士とやり取りを続けることになり、結局その後若干の紆余曲折があったものの、最終的には退去に応じざるを得なくなってしまいました。

ふとした出来心から地代を滞納した結果、それが積み重なり、地主との信頼関係を破壊してしまい、たった80万円弱の地代の支払いを「まあ、いいか」としぶったために、リーズナブルな地代で暮らすことが出来た自宅を失ってしまったのです。

さて、この連載のテーマは争続なのに、争続の話が出てこないではないか。そう思っている読者もいるかも知れません。

相続問題は、思わぬところからやってくる

実はこの話の裏で、地主側に相続の問題が起きていたのです。

この地元一帯の地主だった近藤さんには4人の兄弟がいました。土地の所有者は長男でしたが、山田さんに地代の督促が来た数か月前に死亡していたのです。

長男が亡くなったあと、次男、三男、四男が相続人として長男の土地を引き継ぐことになりました。当初は3人も相続税が多額になると思わなかったため、次男と三男は、「山田さんの借地権は、そのままにしてもいいではないか?」と考えていました。きちんと地代だけ払ってもらえればいいだろうという雰囲気だったそうです。

ところが事態が急展開。実際の相続税を見ると、7000万円と予想外に高額だったのです。次男、三男、四男は決してお金に困っていたわけではありませんが、これだけの現金はすぐに準備は出来ません。

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一方で、相続税の支払い期限の10か月がどんどん迫ってきます。法定相続人である3者の意見をまとめないと相続税が支払えませんし、自分たちの相続税で自分の家を売るわけにもいきません。再び今後について話し合いをすることになり、そこでは山田さんの処遇についても話し合われました。散々もめた兄弟でしたが、ついに山田さんに出て行ってもらうことで意見がまとまったのです。

こうして、相続税のために山田さんに出て行ってもらった土地は納税資金として消えていきました。ちなみに山田さんは、退去条件を交渉した結果、80万円弱の地代は支払わずに済み、新居(といっても風呂なしトイレ共同の家賃2万円の木造アパートですが)の敷金・礼金を近藤さん遺族に負担してもらって出て行ったのです。

山田さんは力なくこういいます。

「こんなことになるのなら、最初からケチらずに地代をきちんと支払っておくべきでした。決してお金がないわけではなかったのです。また自分でもなんでもいやなことを億劫がらずにきちんと対応すべきでした。とはいっても今更こんな自分の性格を変える気もないですし、変えることができるなんてことも思っていませんがね…」

一方、近藤家の次男は後にこう言っていました。

「山田さんは親の代からの付き合いですからね、我々としても無理に出て行けとは言いたくありませんでした。しかし、調べてみると5年も地代を支払っていない上に、何度話し合いの場を設けようとしても居留守を使って逃げる。これはさすがにまずいだろう、ということになったのです」

相続税や争続など自分には関係ない。そう思っている人も多いことでしょう。しかし、他人の争続の流れ弾はいつあなたにとんでくるかわかりません。お互い、妙な下心など持たず、真面目に暮らしたいものですね。