2017年11月18日、クリミア半島のヤルタ郊外に作られた、ロシア皇帝アレクサンドル3世像の除幕式で演説するプーチン・ロシア大統領(写真=Mikhail Svetlov/gettyimages)

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7月の米ロ首脳会談で、トランプ米大統領を手玉に取ったプーチン・ロシア大統領。米大統領選への介入疑惑やクリミア半島の併合など、突っ込まれるところはいくらでもあったのに、最終的にはトランプに一方的な譲歩をさせて終わった。まさに向かうところ敵なしのプーチンだが、著述家の宇山卓栄氏によれば、そんな彼が師と仰ぎ、銅像まで建てた、日本人が知らないロシア皇帝がいるという――。

■トランプが「ロシアのため」に動く理由

7月に開かれた米ロ首脳会談の後、トランプ米大統領とロシアのプーチン大統領は共同記者会見を開きました。米大統領選(2016年)へのロシアの干渉について、トランプ大統領は「なかった」と述べ、プーチン大統領の主張を受け入れました。この発言について、身内の共和党からも「利敵行為だ」などと批判が上がっています。

ロシアによるクリミア半島併合(2014年)についても言及せず、核軍縮についても、プーチン大統領が「アメリカの核戦力は極めて危険」と指摘したのに対し、トランプ大統領は反論しませんでした。結局、首脳会談では何の合意もできませんでした。

6月の米朝首脳会談と同様に、米ロ首脳会談でもトランプ大統領は譲歩するばかりで、具体的な成果はありませんでした。日本でも、当初トランプ大統領を支持していた人たちでさえ「どうもおかしい」と疑問を呈しています。トランプ大統領の外交が一般に言われているように、秋の米中間選挙向けのパフォーマンスであるならば、由々しきことでしょう。

パフォーマンスなら、まだマシかもしれません。トランプ大統領が「利敵行為」をとるのはロシアに操られているからだ、と明言する人もいます。その1人が、元中央情報局(CIA)諜報員のグレン・カール氏です。

カール氏は去る5月に来日し、東京の日本記者クラブで会見しました。2016年の大統領選挙の際、ロシアの諜報機関がトランプ陣営に何百回も接触し、クリントン陣営に対する選挙妨害などをはじめ、トランプ陣営に有利になるよう図ったとされる「ロシアゲート事件」は、カール氏によると「明らかに存在する」とのことです。

■ロシアのナショナリストたちの「聖人」

超大国アメリカを手玉に取るロシアのプーチン大統領が、おそらくお手本としているであろう人物がいます。19世紀末のロシア皇帝、アレクサンドル3世です。

「ロシアには友人はいない。2人の同盟者だけがおり、それはロシアの陸軍と海軍である」。アレクサンドル3世の言葉です。プーチン大統領はこの皇帝を称賛し、クリミアに銅像を建立し、台座にこの言葉を刻みました。

2014年のウクライナ騒乱において、ロシアは火事場泥棒のごとくクリミアに進出しました。クリミアはもともと旧ソ連の一部でしたが、ソ連崩壊後、独立したウクライナに編入されていました。ウクライナ騒乱でロシア系住民の独立機運が高まったのを機に、プーチン大統領は軍を送り込んで住民投票を実施し、クリミアをロシアに編入しました。

そして、このクリミアの地にアレクサンドル3世の像を建てたわけですが、これには重要な意味があります。歴代のロシア皇帝の中で、アレクサンドル3世は決して有名な人物とはいえません。父のアレクサンドル2世は農奴解放令を発布した皇帝として有名ですが、アレクサンドル3世の方は、日本の教科書や概説書でもほとんど扱われません。

しかし、保守派のロシア人にとって、特にプーチン大統領のように「かつてのロシア帝国の栄光を取り戻す」という信念を持った政治家にとって、アレクサンドル3世は「聖人」のような存在なのです。

■自ら志願してロシア・トルコ戦争に従軍

アレクサンドル3世は、祖父のニコライ1世を尊敬していました。ニコライ1世は黒海に突き出たクリミア半島を要塞(ようさい)化し、ここを拠点にロシア海軍を黒海に展開させていました。ロシアは黒海からバルカン半島に対し、大きな影響力を及ぼしました。ニコライ1世は海軍を黒海から地中海へ、さらには大西洋からインド洋へ進出するための世界戦略(南下政策)を描いていました。

しかし、イギリスがこれに反発し、クリミア戦争(1853〜56年)が勃発します。装備や編成の近代化が遅れていたロシア軍は次第に劣勢に陥り、ニコライ1世は戦争の途中、1855年3月に病死します(死因は風邪をこじらせての肺炎ですが、自殺説もあります)。

ニコライ1世の死後、アレクサンドル2世が帝位を引き継ぎ、クリミア戦争を終結させます。アレクサンドル2世は平和主義者で、自由主義的な考えを持っていました。アレクサンドル3世は父のリベラルな態度が気に入らず、たびたび父帝と衝突しました。

アレクサンドル3世は、無念の死を遂げた祖父ニコライ1世の復讐(ふくしゅう)を遂げようと執念を燃やしていました。温和でつつましい物腰の内側に、保守反動の強い野心を秘めていたのです。皇太子時代には自ら志願してロシア・トルコ戦争に従軍。オスマン帝国に攻め入り、イスタンブールまで進撃して、1878年、同国を降伏させています。

アレクサンドル3世は、軍事力の増強こそがロシア帝国の急務であり、そのためには祖父のニコライ1世が行った専制政治を復活させるべきだと考えました。1881年、アレクサンドル2世が反体制派のテロで暗殺され、その後を継いで皇帝に即位すると、父のリベラル路線を否定し、保守反動の政治を行い、拡張主義のもと、中央アジアへの南下政策を進めます。

プーチン大統領は、こうしたアレクサンドル3世に自らの姿を投影しているのでしょう。そして、アレクサンドル3世ら過去のロシア皇帝の意志を引き継ぎ、ロシアの過去の栄光を取り戻すことを、自らの使命と考えているはずです。

■ロシアにとってのクリミア併合の意味

プーチン大統領は2018年の3月の大統領選挙で圧勝し、再選されました。敵対勢力を政治的に抹殺し、独裁権を確立しています。プーチン大統領こそは、現代版ロシア皇帝です。

ロシアにとって、クリミア併合は「覇権の再確立」への一歩です。クリミアは小さな半島ですが、かつてのロシア帝国の世界戦略の本拠地でした。ロシアの覇権にとって、クリミアは欠かすことのできない存在です。黒海・地中海エリアから中東やヨーロッパにつながる地政学上の要衝を、今日のロシアが奪い取ったことは、他国にとって大きな脅威であることは言うまでもありません。

これほど重要なことを、米ロ首脳会談でトランプが取り上げなかったというのは、ロシアの一方的な領土併合を認めるに等しい行為です。

■日本もますます難しい局面に

前述のカール氏は会見で、ロシアの目標を以下のように指摘しています。「(ロシアの手で)アメリカ国民が政府や政治制度に対して不満を持つように仕向けること。アメリカを欧州連合(EU)をはじめとする世界の同盟国から分離すること。第2次大戦後につくられたパックス・アメリカーナの国際的規範を損なわせ、逆にロシアの影響圏を拡大していくこと」。カール氏によると、こうしたロシアの狙いは現在、全て成功しており、これこそ、ロシアがトランプ政権を操っている証拠だと言うのです。

この話を聞いた当初、私は「元CIA諜報員がこんなことを公の場で発言するとは。低次元な陰謀論の類いではないのか」と疑いました。しかし、今となっては、そのように切り捨てることは誰にもできないでしょう。

カール氏の言う「第2次大戦後のパックス・アメリカーナの国際的規範」などは、既にオバマ民主党政権の時から損なわれていますが、トランプ政権下でさらに損なわれる可能性も考えておかねばなりません。日本の安全保障もますます、難しい局面に入っています。

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宇山卓栄(うやま・たくえい)
著作家
1975年、大阪生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。おもな著書に、『世界一おもしろい世界史の授業』(KADOKAWA)、『経済を読み解くための宗教史』(KADOKAWA)、『世界史は99%、経済でつくられる』(育鵬社)、『「民族」で読み解く世界史』(日本実業出版社)などがある。

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(著作家 宇山 卓栄 写真=gettyimages)