『プラダを着た悪魔2』©2026 20th Century Studios. All Rights Reserved.

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 多くの人々が憧れるファッション雑誌の内幕を描き、長く愛されてきた映画作品『プラダを着た悪魔』が約20年もの時を経て、続編『プラダを着た悪魔2』として帰ってきた。メリル・ストリープ、アン・ハサウェイ、エミリー・ブラント、スタンリー・トゥッチという、いまや呼ぶのがさらに難しくなった俳優たち、そしてデヴィッド・フランケル監督、脚本のアライン・ブロッシュ・マッケンナらが奇跡的に再集結した。

参考:『プラダを着た悪魔2』、前作から20年後の「メガヒット」の必然

 早くも前作の興行成績を上回り、世界で大ヒットを遂げている本作『プラダを着た悪魔2』だが、第1作が広い世代からの支持を受け、年々伝説化していった作品だっただけに、その反応はさまざまであるようだ。しかし、この続編は蛇足であるどころか、前作で描かれた要素がきれいに着地しながら、現代のさまざまな問題を扱った、テーマ性の強いものに仕上がっている。ここでは、そんな本作の本質に迫り、この映画が何を描き、何を照らし出そうとしているのかを明らかにしていきたい。

※本記事では、映画『プラダを着た悪魔2』のストーリーの核心部分に触れています

 物語の幕開けは、前作から20年後のニューヨークだ。ファッション業界を代表する『ランウェイ』誌の編集長ミランダ(メリル・ストリープ)の秘書になりながら、前作で報道の業界に移籍を果たしたアンディ(アン・ハサウェイ)は、ジャーナリストとして賞を受賞するまでに成長していた。だが、授賞式の最中に編集部全員が、テキストメッセージ一通で解雇されるという事態に直面する。一方、現役で君臨し続けてきたミランダもまた、工場の従業員を酷使するブランドを称賛したことで“炎上”するという危機に瀕していた。

 ミランダのモデルと噂されているのが、アメリカ版『ヴォーグ』の編集長を約37年間勤め、2025年に退任したアナ・ウィンターである。彼女もまた、アレキサンダー・マックイーンやジョン・ガリアーノという、才能がありながら倫理的な事柄で問題になった有名デザイナーを擁護した過去があるなど、特徴が今回のミランダの人物像に反映されているように感じられる。また、アナ・ウィンターは本作の撮影現場やプロモーションにも呼ばれ、劇中に登場する「ディオール(Dior)」の店舗には白い花しか飾られないことを指摘するなど、現場でも存在感を示していたという。

 炎上問題を解決すべく、古巣に呼ばれ懐かしい編集部に駆けつけたアンディだったが、ブランドものに身を包んだ悪魔に見えていたミランダが、以前ほど威張り散らさなくなったことに気づく。言葉遣いも以前よりは穏やかになり、かつて部下に投げつけていた上着を、自分でハンガーにかけてすらいるのだ。悪魔であっても、いまやコンプライアンスの波には勝てないのか。

 『ランウェイ』はその直後、深刻な問題に直面することとなる。経営者の死去により、出版社の経営権が息子に移ったのである。新社長はファッションに興味もリスペクトもなく、外部コンサルを入れて大幅なリストラを計画する。本作は中盤からミラノ・ファッションウィークが舞台となるが、なんとあのミランダが経費削減の煽りを受け、エコノミークラスでイタリアに向かうこととなる。かつて、その横暴な振る舞いにうんざりしていたアンディだったが、彼女のしょぼくれた姿を目の前にすると、「ここまでされて、やり返さないのか」とフラストレーションを募らせる。

 レオナルド・ダ・ヴィンチの壁画「最後の晩餐」が描かれた、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の食堂を、本作はセットに再現している。この壁画が象徴するのは、まさにキリストが死地へと向かう直前のように、雑誌業界も“風前の灯”となっているという状況である。その場所でミランダは、会社を買収しようとするベンジー(ジャスティン・セロー)に対して、少しでも『ランウェイ』の伝統を残してほしいと、恥を忍んで頼み込む。しかし彼は、そんなことは保証できないと言う。短期間でAIに席巻されるような世の中、その流れなんて誰にも分からず、粛々と対応するだけなのだと。

 いよいよ『ランウェイ』の落日を目の前に、ミランダはフラフラと中心部のアーケード街「ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリア」にたどり着く。ここは信仰の象徴である「ドゥオーモ」と、芸術の聖域たる「スカラ座」を南北に繋ぐ十字路。ミランダがその中心で、「ディオール」、「プラダ(PRADA)」、「ルイ・ヴィトン(Louis Vuitton)」の店舗に囲まれた広場に立つということは、彼女自身がかつて絶対的な権力で芸術を司った“ファッション界の教皇”であったことを視覚的に示している。

 こういった画面設計は、同様に、ローマやナポリの都市の光景を、歴史や寓話を下敷きに象徴的に撮りあげた、パオロ・ソレンティーノ監督の演出に近いといえる。ここは本作のショットのなかでも最も美学的に印象深いシーンであり、一つの文化の終焉を見るような痛切さを味わわせるという意味で、舞台をミラノにした意義を感じられる、深みのある描写となっている。

 しかし、そんな叙情的な演出で寂しく消えていくミランダではない。前作同様、ひとしきり落ち込んだ後に、悪魔のような大逆転を目論み始めるのである。前作では、その冷酷さに戦慄させられたアンディであったが、今度は「待ってました!」とばかりに、ニンマリとして逆襲に加担するところが微笑ましい。

 ここで事態を打開する鍵となる、ある人物の登場には、否定的な意見もあるようだ。ここまでリアルに業界の苦境を描いておきながら、資本家が大きな力で一気に解決を与える展開を用意するというのは、都合が良過ぎると言うのである。しかし、その指摘には異論がある。

 ミランダの右腕であるアートディレクター、ナイジェル(スタンリー・トゥッチ)の姿を思い出してほしい。アンディが『ランウェイ』の窮状を知らせたとき、彼は仕事の手を止めず、写真やスタイリングについて考え続けているだけだった。そんな愚直な職人性を発揮したところで、編集部のピンチには、一見何の役にも立たなそうに見える。しかしそれこそが、AIなどを背景にした現代の効率化の波に、唯一抗うことのできる行為だったのではないか。

 アンディは前作では、あまりファッションに興味がない若者として登場した。着るもののことばかり考えている人物は外見ばかりで中身がないのだと、内心軽蔑していたのだ。ミランダは、そんなアンディの心を見透かしたように反撃する。アンディの着ているセーターの色、セルリアンブルーについて、どれだけそこに背景があるかを説明することで、ファッションに注がれた先人たちの情熱と狂気の一端を垣間見せるのである。

 こうしたミランダのプロフェッショナルな態度は、本作におけるエミリーとのやり取りでも理解できる。エミリーは、もともと第一秘書としてミランダを支える存在だったが、ミランダからの勧めによって、彼女は「ディオール」アメリカ旗艦店の責任者に就任していたのだ。そしてそれは、雑誌の編集者としての才能を欠いていたからだと明かすのであった。

 その所業は一見、やはり悪魔のようであるが、ことさらエミリーを侮辱したいためではないだろう。ミランダは、彼女の資質を小売業に適任と見抜き、成功できる最善の道を用意したのではないのか。一方、記事の質によって雑誌の評判を上げているアンディには、一定の評価を与えている。こういった対応は、あらゆる資質を見極める編集長としてのミランダの能力の高さと、部下への秘めた愛情を示しているのだ。

 事態を収束する展開については、物語に突如として絶対的な存在が現れ、問題を解決するといった、ギリシア演劇の手法「デウス・エクス・マキナ」だと指摘する声もある。だが先述したように、本作の結末はそうした強引なものではなく、ミランダやナイジェル、アンディたちのそれぞれの情熱と確かな技術があってこそ、新たな経営者の信頼を獲得することができたと考えるべきだ。

 そもそもミランダがこれまで絶対的な存在でいられたのは、彼女が世界のファッション界のトレンドを生み出す源泉の一つであったからだ。長らくファッションの流行は、有力なメゾンとデザイナーがパリやミラノなどで新作を華々しく発表し、それを編集者や批評家が評価し、バイヤーやトレンド予想企業が市場の動きを読んで、スタイリストやインフルエンサーがアイテムを利用することで、メインストリームが生み出されてきた。

 近年、そうした枠組みが崩されてきているのは確かだ。業界の売り上げトップであるファストファッション企業の「ZARA」は、これまでメゾンがコレクションを発表し、雑誌がその試みを解釈、百貨店が仕入れて半年後に一般流通されるといった枠組みを越え、名だたるメゾンのコレクションが生み出すトレンド性をいち早く参考にしてデザインに起こし、小ロットで安価に商品化するといった手法を確立させ、ファッションを大幅に大衆化した。この構造を省略化したビジネスにより、雑誌以降のトレンドリーダーの影響力は弱まることになったといえる。

 現在、台風の目となっている「SHEIN」は、さらに一歩進んでいる。どのような商品が売れるのかを、販売データや検索データ、SNSでの注目度などをアルゴリズムとして判断して生産につなげるのである。ここでは、もはや職人的なデザインやバイヤーの判断よりも、インターネットに露出された即時的な感覚とデータの正確な利用が優先されることになる。

 つまり、トレンドの直接的な源泉部分に、小売が手をかけている状態といえるのだ。今後、そこにAIが導入されることで、テクノロジーの進化と効率化のなかでデザイナーすら不要とされる状況が訪れるのかもしれない。そうした事態はファッション業界だけではない。現在、利益の最大化を求めて、さまざまな業界のクリエイティブな業種が危機を迎えているのだ。

 そしてそれは、これまで文化を盛り上げてきた職人たちの文化、例えば本作の『ランウェイ』が体現する、職人的な情熱と狂気といった、人間たちの魂が継承されなくなることを意味しているのではないか。AIは、既存のプロダクトを参考にしているに過ぎない。ミランダやナイジェルのような知識やセンスの積み上げを人間が担当しなくなれば、誰が新たな息吹を業界に与えるというのか。

 新経営者は温情ではなく、そうした人間の力にこそ対価を払うべきであり、人間同士の文化の継承にこそ未来があると判断したのではないだろうか。以前よりもさまざまな人種や個性、新世代が加わった『ランウェイ』編集部が、それぞれに自分の仕事に没頭する本作のラストシーンは、まさに職人讃歌であり、ファッションの歴史の讃歌だといえるだろう。そこには先の未来ではなく、その先の先の未来を見越した、普遍的な希望が存在するのである。

 そんなラストシーンでアンディが着ていたのは、セルリアンブルーのニットベストだった。長らくファッション業界から離れていた彼女は、それでも自分なりにファッションの魅力に目覚め、地方で「メゾンマルジェラ(Maison Margiela)」のアイテムを安価に手に入れて楽しむなど、彼女自身のライフスタイルに、職人的な魂を組み込んでいたことが、冒頭で示される。

 前作で「ダサい」と言われていた服の色を、アンディが再びラストシーンで採り入れているのは、彼女が当初持っていた本来の感性と、その後に手に入れたファッション知識の裏付けとが、幸福に手を結んだことを表現している。つまり、アンディは紆余曲折を経て、自分の能力をファッション業界で活かす道を見つけたということを、このファッションに象徴させてあるのである。そう考えれば、前作で仕事を途中で放り投げてしまった経験までもが、本作で大きな実を結んだことになる。

 長い間のブランクを経た続編企画といえば、作品自体が同窓会のような内容に終始してしまうことが少なくない。しかし本作は、いままさに激動の時を迎え、かつての憧れの職が危機と対峙しなければならないという、現実の困難な状況を描きつつ、その問題への誠実かつ感動的な解答までをも導き出した、優れた一作となっている。その挑戦心と奥深さには、前作を凌駕するものがあるのではないだろうか。だとすれば、『プラダを着た悪魔2』は、続編映画はこのようにあってほしいという、一つの理想を体現した映画に仕上がっているといえるのだ。

(文=小野寺系(k.onodera))