いつも明るい妻。「僕のコンプレックスなんてまったく気づいていなかった」と信克さんはいう

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 恋愛感情が相手と自分との間で五分五分になることはまずない。多くの場合、どちらかがどちらかをより好きだという力関係が生じ、やはり「惚れたが負け」になりやすい。惚れた限りはどうしても弱気になり、相手の言いなりになりがちだからだ。

 海老名信克さん(45歳・仮名=以下同)は、全精力を傾けた恋に破れた今、毎日、朝から晩までため息をついている。もう一度、やり直すことはできないのか、どうしたら元の鞘に収まることができるのか。そればかり考えていると信克さんは少し涙目になりながら言った。

いつも明るい妻。「僕のコンプレックスなんてまったく気づいていなかった」と信克さんはいう

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「僕はとある地方の小さな商店の次男として育ちました。兄は勉強ができたので、地元の高校を出ると東京の大学へ進学したんです。3つ違いの僕はスポーツ分野で、東京のある大学へ推薦入学しました。ただ、2年生のときにケガをして競技ができなくなり、絶望とともに中退してしまいました」

 その後はフリーターとしてアルバイトをしながら、自分のやりたいことを探す日々が続いた。生きている気力さえ失った。ふと気づいたら、何時間も橋の上から川を見下ろしていたこともあったという。

「心配してくれたのが、大学在籍時の部のマネージャーだった1つ年上の瑛美子です。僕が借りていたアパートへ足繁く来てくれ、生きる気力を与えてくれた。瑛美子がいたから、僕は他の大学へ編入してなんとか卒業することができたんです」

有名企業の彼女と、中堅企業の僕

 ふたりは自然とつきあうようになった。彼女は一足先に就職、かなり有名な企業からぜひにと請われての入社だった。一方、1年遅れて就職した彼は、知名度のない中堅企業だった。

「会社の名前なんてどうでもいいじゃない、あなたが気持ちよく働けるのがいちばんよと瑛美子は言ってくれたけど、あの頃から僕は心のどこかで彼女へのコンプレックスをもっていたんだと思います」

 彼が就職して3年目、瑛美子さんが妊娠した。彼女は仕事を続けながら産むと言い張った。それなら結婚しなければと、彼は踏ん切りをつけた。職場でもそれほど期待されているわけでもないと感じていたから、私生活を充実させたほうがいいかもしれないという思いもあった。

「瑛美子は『産休なんかとらずに戻ってきてほしい。それほどの人材だ』と上司が冗談交じりに言ったそうです。彼女自身はそんなことは僕に言わない。共通の知人が、たまたま瑛美子の勤務先にいたので、彼女の状況が逐一、耳に入ってくるんです。あんな会社に勤めている夫とバランスがとれるのかと言っている人もいると聞きました。僕がケガをして競技をやめた大学時代のことも、瑛美子の友だちの間では噂になったらしい。それだけあなたが注目されているということよと瑛美子は笑ったけど、そうじゃない。彼女自身が注目を浴びる存在だったんです。思えば大学時代からそうだった……」

 双方の親には「妊娠したので」と告げ、ふたりは結婚を決めた。だが、本当は瑛美子さんの両親、特に母親が「あんな人で大丈夫なの」と心配していたらしい。26歳の新婦と25歳の新郎は、ふたりきりで婚姻届を書いて提出した。

「いずれみんな応援してくれるわよと瑛美子はポジティブでした。彼女はいつでも明るくて前向きなんです。そして誰もがそうだと思ってる。僕のコンプレックスなんてまったく気づいていなかった。いや、あのころはそれでよかったんです。僕がこの先、どうなるんだろう、子どもなんて育てていけるのかとマイナス思考に陥っているときも、彼女は『ねえ、ベビーベッド、どこかからもらえないかしら。何年も使うものじゃないしね』と明るく打ち砕いてくれる。こちらを配慮してというわけではなくて、根っから明るい。だから大学の体育会でも名マネージャーとして慕われていたんでしょうね」

 根っからのマネージャー体質だったんだろうと彼は言う。世話焼きで、でもしつこくなくて、からりと明るい。そんな瑛美子さんとだったら、家庭生活も何とかなると彼は信じた。

突然の悲劇が…

 ところが人生というものは、いつどこで何があるかわからない。娘が産まれ、彼女は保育園の入園時期もあって、育休半ばで仕事に復帰した。彼も必死で子育てをしながらがんばっていたが、ある日突然、会社が倒産した。

「いつものように会社に入ろうとしたら、入り口が封鎖されていたんです。誰も入ってはいけないって。社員たちは青ざめて様子を見守っていたけど、結局、そのまま倒産です。退職金ももらえなかった」

 しばらく家事と子育て、お願いと瑛美子さんは明るく言った。あなたが悪いわけじゃない、今は運が悪いだけとも言った。瑛美子さんとしては慰めたつもりなのだろうが、信克さんは「おれはきっと一生、運が悪いんだよ。運を引き込めない人生なんだ」といじける気持ちを止められなかった。

「先は長いんだから、がんばっていこうよと瑛美子は言う。僕のみじめな気持ちは、たぶん彼女にはわからないんだろうなと思いました」

酒が手放せなく

 娘を保育園に連れていき、帰宅して家事をすべきか就職活動をすべきかと悩んでいるうちに、ついつい酒に手が伸びる。もともと酒には弱かったのに、いつしか酒のグラスを手放せなくなっていた。

「半年もしないうちに、瑛美子と友人たちがやってきて病院に連れて行かれました。そのときの記憶があまりはっきりしていないんですが、医者に『助けてほしい』と言ったのだけは覚えています。もうそのころは朝から飲んで、娘を保育園にも連れていかない日もありましたから」

 すぐに専門病院への入院が決まった。瑛美子さんのところには実家の母親が手伝いに来ていた。およそ半年くらいで、信克さんはようやく我を取り戻した。

「自分がどうしてそんなふうになってしまったのか、なかなか理解ができなかった。でも病院と瑛美子のおかげで徐々に回復していきました。もともと酒なんか好きでもなかったのに、自分の弱さがそうさせた」

 彼は瑛美子さんに離婚を申し出た。こんな自分とは別れたほうが妻と娘のためだと思ったのだ。だが瑛美子さんは頑なに「親子3人でがんばっていこう」と彼を励まし続けた。

「退院してから一時期、僕は実家に戻っていたんです。両親が田舎でゆっくりしたほうがいいと言ってくれて。月に1、2回、瑛美子は娘を連れて来てくれた。自己崩壊するのは簡単だったけど、立ち直るにはものすごく時間がかかりました。30代前半になって、ようやく自分が元に戻ってきた感覚があった。それなのにそこでまた不運が……」

こんな自分とは別れたほうが

 父が突然、病死したのだ。心労もあったのかもしれない。アルコールに逃げたい気持ちになったが、信克さんはなんとか自分の足でしっかり立っていた。ただ、そこへ兄一家が入り込んできた。

「兄は東京で就職して結婚、子どももいたんですが、職場の人間関係がうまくいかずに退職した。もともと優秀な人だったのに、それを鼻にかけるところがあったから人とうまくやっていけなかったんでしょう。東京なんか捨てて実家に戻る、実家の商店を大きくすると決めたと母に訴えた。母は気弱になっていたし、病み上がりの僕より兄のほうが頼りになると思ったんでしょうね。兄一家を迎えることにしたと母に告げられました。もちろん、あんたもいていいんだからと言われたけど、僕は昔から兄が苦手で……」

戻ろうとした家には、もう別の風景が

 自宅に帰ろう、瑛美子と娘と3人でがんばっていこうと決断したそのとき、瑛美子さんから離婚を切り出された。

「瑛美子、そのころつきあっている人がいたみたいです。そりゃそうですよね。瑛美子なら男が放ってはおかない。ただ、その人が娘をかわいがってくれるのかどうかだけが心配だった。すると瑛美子は、僕を彼に会わせたんです。娘もすでに『おじちゃん』と懐いていました。数年の間に、こんなふうにあらゆる風景が変わってしまうのかと愕然としました。でも僕には何も言う権利もないと思った」

 黙って離婚届にサインした。相手の男性は「僕は父親の代わりにはなれても、血のつながりはない。あなたはもちろん、いつでも娘に会ってくれていいから」と言ってくれた。ありがたいと思う半面、その言葉にみじめさが増した。

 ***

 不運の連続のはてに、独り身になった信克さん。記事後編では、そんな彼にさらなる“不幸”が降りかかる。

亀山早苗(かめやま・さなえ)
フリーライター。男女関係、特に不倫について20年以上取材を続け、『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』『人はなぜ不倫をするのか』『復讐手帖─愛が狂気に変わるとき─』など著書多数。

デイリー新潮編集部