「殿下」と呼ばれていたのに…86年に台湾で客死した「異端の元皇族」 京大卒「賀陽家の長男」の人生を変えた「臣籍降下」の衝撃
【写真】礼服の着こなしはさすがのもの…賀陽邦寿氏、最初の結婚写真
昭和22年に25歳で「庶民」に
1986年4月16日、台湾・台北で“異端の元皇族”と呼ばれた日本人男性が急死した。賀陽宮(かやのみや)家の三代目当主・賀陽邦寿(くになが)氏、享年63。名刺に「母 敏子・天皇の従妹、父 恒憲・皇后の従兄、皇太子とはまた従兄」と書かれていた通り、世が世なら大変なお方である。だが、昭和22年に25歳で臣籍降下(皇籍離脱)。“庶民”となったこのときから、その人生は方向転換を余儀なくされた。
真面目な性格で将来を嘱望され、「賀陽家の長男にふさわしい」と称されていた邦寿氏。台湾で客死するまでの激動人生を、「週刊新潮」のバックナンバーで振り返る。

(全2回の第1回:以下「週刊新潮」1986年5月1日号「宸襟(しんきん)を悩まし続けた元皇族『賀陽邦寿』の死」を再編集しました。文中の年齢、肩書き等は掲載当時のものです)
***
死因は心筋梗塞
賀陽邦寿氏の死は昭和61(1986)年4月16日の午前10時半ごろ、台北市内の高級ホテルの一室で発見された。
「ふだんなら6時半頃には目を覚ます賀陽さんがなかなか起きて来ない。同行していた人が8時頃に一度様子を見に行ったのですが、部屋には鍵がかかっていて、ノックしても返事がないので、まだ眠っているのかと思って引き返したのです」
と現地の邦人記者。
「しかし、出発予定の10時を過ぎてもまだ姿を現さないので『これはおかしい』と、ボーイに頼んで部屋を開けてもらったところ、ベッドの上で、寝巻姿で亡くなっているのが発見されたのです。直ちに、市内の栄民総合病院に救急車で運ばれましたが、病院に着いたときは、もう手の施しようがなかったそうです。死因は心筋梗塞でした」
邦寿氏の台北入りは13日。台湾の退役軍人会の大会に出席するのが目的だった。退役した上級軍人によって組織された会だが、単なる親睦団体ではなく、台湾で最大のコングロマリット。年1回の大会は日本や米国からゲストを迎える盛大なものなのだそうだ。
台湾政財界の300人が葬儀参列
今回も日本からは、自民党の堀江正夫・参院議員を団長に代表団が派遣され、邦寿氏はその副団長。15日には4000名近い参会者を集めて盛大に開会式を行ったばかりだった。
「賀陽さんは台湾には馴染みの深い人でした。ご本人も台湾が好きで、かなり頻繁に訪れていましたし、軍人会にも数年前からずっと招待されていました」
と先の記者は言う。
「ですから、友人も大勢いるので、台湾で荼毗にふされたのです。19日に栄民病院内の講堂で告別式が行われましたが、総統の弟の蔣緯国陸軍大佐をはじめ、台湾の政財界の錚々たる人々が300人くらいも参列しました」
〈彼は蔣介石前総統を非常に尊敬しており、その廟に合計28回も詣で、梅の木1000株を寄贈もした。そして常々『中華民国は私の第二の故郷。ここで死んでも悔いはない」と語っていた〉
と現地の新聞も、その死を悼んだのだった。
「殿下、殿下」と呼ばれていたのが
「兄は太りすぎだったんです。小柄なのにヨコばかり大きくなっちゃって、最近は体調もあまりよくなかったのです」
と、この異国の死を聞いて残念がるのは、弟の宗憲氏(50)である。
「酒もやめ、脂も控え、何度か病院にも通っていましたが、心臓の調子があまりよくなかった。大体、父も心不全で亡くなってますんで……」
邦寿氏は大正11(1922)年に賀陽家の長男として生まれた。皇室との関係は故人の名刺にあったとおりである。昭和16(1941)年に陸軍士官学校を出て、陸軍大尉で終戦を迎えると、昭和21(1946)年に京都大学経済学部に入学した。が、翌年、賀陽家は他の十宮家とともに臣籍降下。
「私はまだ10歳ぐらいでしたから、あまりピンときませんでしたが、『臣籍降下』と聞いて、『ああ、明日からは自分で働いて食べていかなきゃいけないんだな』程度の思いはありました。それまで車で学校へ通っていたのが、急に電車で行くことになるわけですし、学校でも『殿下、殿下』と呼ばれていたのが、その日から『賀陽くん』になってしまうんですからね」
と、この運命の急転の衝撃を宗憲氏は語ってくれる。
きょうだい6人はいずれも堅実
「私なんか幼かったからいいですけど、兄などは、すでに25年ぐらい皇族生活を送ってきてしまったわけでしょう。とても急にチェンジすることなど、できなかったろうと思いますね。しかも、長男でしたから、それなりにチヤホヤされる世界にいたわけです。それが一般庶民の生活に変わるんでは、ギャップを埋めることも難しかったろうと思いますね」(宗憲氏)
で、やはりそのせいだったのか、京大を出た邦寿氏は東京銀行や国土計画に短期間勤めたものの、以後はこれといった定職を持たなかった。
賀陽家には7人の子供があった。父の恒憲(つねのり)氏が昭和53(1978)年に亡くなって今、母・敏子さん(82)は学校法人の顧問、邦寿氏以外の子供6人は財団法人の常務理事、外交官、銀行員、百貨店社員などいずれも堅実な職業に就いているのに、長男だけはいささか面妖な世界に漂っていたのだ。
「兄の仕事は、賀陽政治経済研究所所長と、全国賀陽会が主な仕事でした。賀陽会は台湾との民間外交を進めるのが活動の柱のひとつです」
と、宗憲氏は説明してくれる。その賀陽会の会員たちは、「講演会の開催や皇居参観などをする親睦団体で、ロータリークラブやライオンズクラブみたいなもの」と言うし、「『賀陽教』という一つの宗教。賀陽宮家という皇族を信奉する信者たちの集まり」とも言う。
祇園の舞妓との出会い
そんな団体とともに、天衣無縫、あるいは世間知らずな邦寿氏の行動が、いろいろ物議をかもすことにもなったわけである。
「彼もかつては非常に将来を嘱望された人だったんですよ。終戦当時の彼を知る人は、生真面目で純粋な男で、頼もしく感じられたと、口をそろえて言いますよ。まさに賀陽家の長男にふさわしい人材だったんです」
と言うのは、皇室評論家の河原敏明氏だ。
「それが、昭和22年に臣籍降下し、俗世間に染まり出してから、次第に変わっていってしまったんですね。何よりも彼の人生を大きく狂わせてしまったのが、祇園の舞妓との出会いでした」
そう、故人の経歴の中でまず特異なのは、その女性歴、結婚歴だった。
「まだ京大の学生時代に、人に連れられて祇園に行くようになったのですが、それまで彼は女性をまったく知らずに育ってきたために、そこで恋に深くおちてしまったんです。真剣に結婚を考えたようですね」
***
人生初の熱愛、参院選出馬、ホテル宿泊代の踏み倒し裁判――。第2回【良からぬ輩に取り込まれ…86年に台湾で客死した「異端の元皇族」 “庶民”となった「賀陽家の長男」が体験した“不名誉な事件”】では、臣籍降下後の波乱人生に迫る。
デイリー新潮編集部
