昭和の国鉄には旅の楽しみがあった 寝台列車にトクトクきっぷ、レストラン新幹線やシュプール号・・・
国鉄(日本国有鉄道)が分割民営化されたのは、いまから39年前となる1987(昭和62)年のこと。戦後、日本国有鉄道法により公共企業体「国鉄」としてスタートしたのが1949(昭和24)年であり、以来38年もの間、国鉄としての歴史は続いたが、今やJRグループ7社の歴史のほうがその年数を上回ってしまった。国鉄の時代は、列車も“きっぷ”もいろいろなバリエーションがあり、いまとは違う旅の楽しみ方があった。令和の今となっては、周遊券を知らない世代もいることだろう。「オーダーメイド周遊券」と聞けば、全国を駆け巡った“古参鉄道ファン”の方々にとっては、懐かしいと思われたに違いなかろう。ゆっくりと時が流れていた国鉄の時代。そんなノスタルジックな鉄道の世界を垣間見てはいかがだろうか。
※トップ画像は、国鉄の増収施策のひとつだった「トクトクきっぷ」のキャンペーンポスター。※この応募は当時のものであり、現在は行っておりません=資料所蔵/JLNA
魅力ある商品づくりから生まれた「トクトクきっぷ」
昭和50年代(1975年〜)の国鉄は、営業収入が予定を下回るなど「赤字国鉄」のレッテルを貼られ、次第に社会の悪者として扱われるようになってゆく。その赤字を解消しようと全国各地では組織の合理化が進められ、1980(昭和55)年には「日本国有鉄道経営再建促進維持措置法」に基づく経営改善計画が策定された。しかし、輸送量は計画に比べて貨物は大幅に減少、旅客輸送も微減となるなど一層の増収努力が求められた。そこではじめられたのが、「トクトクきっぷ」などの魅力あふれる商品づくりだった。
国鉄は、より多くのお客さまに利用してもらおうと、安い・便利・ラク・選んでお得な「トクトクきっぷ」を企画・発売した。この企画商品の売り上げは、1982(昭和57)年度には2700億円にも達した。ビジネス旅行を対象とした「新幹線エコノミーきっぷ」、熟年社会の新しいライフスタイルを生み出したとされる「フルムーン夫婦グリーンパス」、女性時代の画期的商品「ナイスミディパス」など、令和のいまに通じる人気きっぷを次々に登場させた。
これらと同時に行われた「ディスカバー・ジャパン」、「一枚のきっぷから」、「いい日旅立ち」、「エキゾチックジャパン」など、国鉄の全国キャンペーンはそのタイトルからもわかるように、今でもその一部は昭和歌謡の名曲として歌い継がれるくらい、印象深いものとなっている。

俳優の上原謙さんと高峰秀子さんが共演した「フルムーン夫婦グリーンパス」のCMは、日本中で大きな話題を呼び、国鉄の大ヒット商品となった=資料所蔵/JLNA

国鉄ハイウィバス「ドリーム号」の販促ポスター=資料所蔵/JLNA
国鉄旅行の強い味方「青春18きっぷ」と「自由にまわれる周遊券」
いまでも発売が継続される青春18きっぷであるが、その歴史は国鉄の運賃増収施策の一環として1982(昭和57)年に発売を開始した「青春18のびのびきっぷ」をルーツとする。いまの名称になったのは、その翌年の1983(昭和58)年からであった。
このきっぷは、「青春」と「18」の文字から連想するように、発売当初は学生向きに企画された商品だったこともあり、年齢制限があるように思われていた節もあったが、実際には利用者の年齢制限はない。ただし、“こども用”はこれまでも一貫して発売したことはない。2000(平成12)年以降、発売を打ち切るはなしは数知れず、その去就に注目が集まる“秀逸”のきっぷなのだ。以前は、5枚つづりの券片(1券片2000円×5枚=1冊10000円)をバラバラにして、友人と分かち合って使用することができたのだが、いまとなってはその不便さを感じている方もいることだろう。
国鉄時代といえば、やはり周遊券のはなしは外せまい。自分の旅行計画にあわせてきっぷを発行するオーダーメイドの周遊券(一般用とグリーン用)、あらかじめセットされたきっぷに自分の旅行行程をあわせるレディーメイドの周遊券(ワイド・ミニ・ルート)があった。発売は出発の1か月前から、有効日数(期間)はオーダーメイドとルート周遊券が1か月、そのほかは7日〜20日間という、いまとなっては夢のような乗車券だった。
例えば、オーダーメイド周遊券の場合、列車、連絡船(青函・宇高・宮島(昭和57年まで仁堀))、国鉄ハイウェイバスを合計201キロ以上利用し、周遊指定地を2箇所以上まわって出発地に戻ることが発売条件で、その運賃は列車・連絡船が2割引き、国鉄バスは1割引き(学生は2割引き)、一部の私鉄線が1割引きとなり、自分好みのオリジナル周遊券を作ることができたのだ。なかでもグリーン車用は、新婚旅行客の需要を見込んでいたため、ホームでの見送り者用として入場券10枚がセットになっていた。こうした気遣いは、昭和ならではの“国鉄サービス”だった。
エリアごとの周遊券(ワイド・ミニ)には、北海道、東北、関東、中部、関西・中国・四国、九州があり、ルート周遊券には十和田、佐渡・弥彦、アルペン、永平寺・東尋坊など21ルートが設定されていた。こうした周遊券は、JR化後も周遊きっぷと名前を変えて発売されていたが、次第に規模縮小や発売取りやめとなり、2013(平成25)年には消滅した。
そのほか、夫婦の合計年齢が88歳以上で利用できる「フルムーン夫婦グリーンパス」や、30歳以上の女性2名以上のグループが利用できる「ナイスミディパス」もあったが、前者が2021(令和3年)年、後者が2008(平成20)年に発売を取りやめた。

国鉄時代の青春18きっぷ=資料所蔵筆者

国鉄時代の周遊券。「広島・宮島ミニ周遊券」(上)と「仙台・松島ミニ周遊券」(下)=資料所蔵筆者

国鉄の人気商品だった「フルムーン夫婦グリーンパス」と「ナイスミディパス」=資料所蔵筆者

国鉄旅客局が制作した旅客事務用「鉄道線路図」昭和50年度版より。鉄道路線図のうち、ここに載せた北海道の一部には、たくさんの路線が存在した=資料所蔵筆者
より取り見取りだった夜行急行列車
周遊券のメリットには、急行の普通車自由席(自由周遊区間内であれば特急の普通車自由席)が乗り放題というものがあった。出発駅から自由周遊区間の最初の下車駅までの往復も、急行の普通車自由席に乗車することができた。国鉄時代の新幹線といえば、東海道・山陽・東北・上越の4路線しかなく、周遊券で乗車するには別に特急券を購入する必要があった。その代わり、主なターミナル駅からは地方都市を結ぶ急行列車が昼行、夜行を問わず数多く運転されていた。
どれだけの急行列車が走っていたかというと、1985(昭和60)年の冬季に上野駅から出発していた「臨時急行列車」を例に挙げると、東北線経由では「くろいそ(上野8:36〜黒磯10:50)」、「八甲田51号(上野19:21〜青森6:51)」、「津軽51号(上野19:21〜弘前9:12)※上野〜弘前・八甲田51号に併結」、「おが(上野22:03〜秋田8:18)」、「ざおう51号(上野22:50〜山形5:39)」、「いわて53号(上野23:29〜盛岡8:16)」、「ざおう銀嶺(上野23:29〜山形5:39※上野〜郡山いわて53号に併結)」、「ざおう61号(上野23:55〜新庄8:05)」、「ばんだい51号(上野23:55〜会津若松5:04)※上野〜郡山・ざおう号に併結」。上越線経由では「天の川(上野22:12〜酒田6:41)」、信越線経由では「越前51号(上野21:26〜福井8:24)」、「妙高51号(上野23:33〜妙高高原5:46)」、「軽井沢61号(上野11:30〜中軽井沢13:44)」、「信州51号(上野24:22〜長野4:56)」、があった。このほかにも、もちろん定期列車として走っていた急行列車もたくさんあった。
バブル期には、スキー客を当て込んだ「シュプール号」という”夜行の臨時列車”が、数多く運転されていた。しかし、新幹線網の発達とともにスキー客も新幹線利用へとシフトし、夜行でスキーという考え方は衰退していった。「JRskiski」というキャンペーンとともに、シュプール号の名は消え去った。
以上ご紹介した列車名を見て、乗車したことがある方は懐かしく思われたことだろう。昨今の定期列車として走る夜行列車といえば、東京駅から四国・山陰を結ぶ電車寝台特急「サンライズ」号だけになってしまった。東京駅から出発していた客車を使用した寝台特急ブルートレイン「さくら」、「はやぶさ」、「みずほ」、「富士」、「あさかぜ」、「瀬戸」号も、今となっては遠い記憶に・・・・

国鉄末期のころは、厚めの板紙を使用した「D型硬券」と呼ばれる指定席券切符が使用されたいた。こうしたきっぷもさることながら、列車名もなつかしい=資料所蔵筆者

寝台特急の姿を見ることもなくなってしまった。東京駅で=2003年10月、千代田区丸の内

東京駅発のブルートレインの花形だった寝台特急「さくら」号=2004年12月、港区芝浦

バブル期のスキー客を当て込んだ夜行臨時列車「シュプール」号の乗車票=資料所蔵筆者
あこがれだった「レストラン新幹線」
旅の楽しみのひとつに列車に連結された「食堂車」というものがあった。食堂車のはじまりは1899(明治32)年で、当時は私鉄路線だった山陽鉄道(現在のJR山陽本線)の急行列車で営業したのが最初だった。列車内で温かい食事が食べられるという発想は、山陽鉄道のライバルとされていた瀬戸内海を航行する豪華客船に対抗するためでもあった。その後、1901(明治34)年には、東海道線(新橋駅〜神戸駅間)にも食堂車が誕生した。
国鉄の時代は、新幹線のほか在来線の特急・急行列車でも食堂車を連結していた。なかでも、新幹線は「レストラン新幹線」と呼ばれ、多くの乗客に親しまれた。当時は、東海道・山陽・東北・上越の各新幹線に食堂車が連結され、東海道・山陽新幹線では、日本食堂、帝国ホテル列車食堂、ビュフェとうきょう、都ホテル列車食堂が、東北新幹線では日本食堂、上越新幹線は日本食堂と聚楽が営業(いずれも1986/昭和61年当時の営業社名)しており、どの列車でどのレストラン会社が営業しているかは、市販または駅備え付けの時刻表を見れば一目瞭然だった。
メニューも、各レストラン会社ごとに創意工夫がおこなわれており、例えば日本食堂であれば「ひかりAセット(牛舌煮込ブルジョアーズ風、魚冷製エーグルレット)」2000円、「ひかりBセット(豚織肉カツレツベルジエール風、魚冷製エーグルレット)」1600円や、帝国ホテル列車食堂では、夕食メニューに「サーロインステーキ定食」3500円、昼食メニューでは「ミックスグリル定食」2300円といったように、食堂車とは思えない献立がずらりと並んでいた。とはいえ、当時を思うと「列車食堂」は”高嶺の花”だった。オトナになったら、いつの日か贅沢に食堂車を利用したいと思っているうちに、”夢の食堂車”はなくなってしまった。
いまも、クルーズトレインや観光列車などの特定の列車では、その列車内で食事の提供を行っているが、当時の食堂車とは何かが違う。それは、あらかじめ別の場所で調理されたものを、列車内で温めるなどして提供しているだけに過ぎないからであろう。なぜ、列車内で調理を行なわなくなったのかといえば、食品衛生管理の観点から、保健所から列車内(車両内)での調理を伴う営業許可を得ることが難しくなったことにあるという。
新幹線の食堂車が廃止されたのが2000(平成12)年。最後まで残っていた夜行寝台列車などに連結していた食堂車も、2016(平成28)年までに全廃された。旅の楽しみは、駅弁や新たな業態となった「ビュフェ、カフェテリア」へと姿を変えた。令和の時代、旅の楽しみである「列車食堂」がカタチを変えながらも、今も変わらず続けられていることは、ありがたいことなのかもしれない。

開業当時(1982/昭和57年)の東北新幹線に連結されたビュフェのようす。壁面には速度計が取り付けられていた=資料所蔵/JLNA

寝台特急カシオペア・北斗星で提供されていた食堂車のご案内より=資料所蔵筆者
文・写真/工藤直通
くどう・なおみち。日本地方新聞協会特派写真記者。1970年、東京都生まれ。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物に関連した取材を重ねる。交通史、鉄道技術、歴史的建造物に造詣が深い。元・日本鉄道電気技術協会技術主幹、芝浦工業大学公開講座外部講師、日本写真家協会正会員、NPS会員、鉄道友の会会員。
