震災から15年…人口ゼロの街を“起業家の聖地”に変えた男の執念 復興の“その後”:ガイアの夜明け

3月20日(金・祝)に放送した「ガイアの夜明け」(毎週金曜夜10時)のテーマは、「あの主人公はいま…震災15年SP 俺たちの故郷を取り戻す!」。
【動画】震災から15年…人口ゼロの街を“起業家の聖地”に変えた男の執念 復興の“その後”
東日本大震災から15年。あの時、ガイアが密着した被災地の人々はいま、どこで、どんな人生を歩んでいるのか。
岩手・大船渡市では、飲食業に関わる幼馴染の2人が、被災直後から復興を目指して「屋台村」の設立に奔走した。しかし、開業を目前にしたある日、1人は東京へと旅立つ。
別の道を歩み始めた2人は、15年をへて再び向き合う。
復興とは何か。あの日の主人公たちが挑み続ける「故郷を取り戻す」闘いを追った。
“人口ゼロ”になった街の挑戦 ビジネスで故郷を取り戻す!

2011年、東日本大震災発生直後に起きた福島第一原発事故。原発から20km圏内にある福島・南相馬市 小高区は避難指示区域に指定され、全住民約1万3000人が避難した。
しかし、人口が一度ゼロになった小高区に、いま、起業を志す若者が続々と集まっている。
以前は小高と縁のなかった人たちもやって来て、空き家だった薬局をハンバーガーショップに改装する例も。

そんな起業家たちを惹きつけているのが、小高出身の和田智行さん(49)だ。
和田さんは、2019年に起業家を育てる拠点「小高パイオニアヴィレッジ」を立ち上げ、小高に人を呼び込む活動を行っている。
「この地域は、一旦グレートリセットされてしまった。いまを起点に未来を見据えて必要なものをつくっていく」。
【2014年放送】

原発事故から3年たった2014年。一時帰宅が許されるようになった小高区に、初めてガイアのカメラが入った。昼間の立ち入りや店の営業は認められるようになったが、住むことはできない。
街の玄関口、JR常磐線・小高駅の前にいち早くオープンしたのが「小高ワーカーズベース(「小高パイオニアヴィレッジ」の前身)」。この地で事業を始めたい人の拠点となるシェアオフィスだ。
当時37歳だった和田さんは、「誰かが先に、住民がここで暮らせるための生活インフラを
整えていかなければならない」と話す。

システムエンジニアとして東京で6年間働いていた和田さんは、故郷にUターンした矢先に被災。2014年6月、蚕を育てて繭から絹の糸を作る「お蚕様プロジェクト」を立ち上げた。
小高は元々「養蚕」と「機織り」が盛んな町。和田さんは、慣れ親しんだ地場産業に復興の糸口を見つけようとした。
地元の女性たちは仕事ができたことで笑顔になり、多くのメンバーが仮設住宅から通うように。

さらに、空き店舗を活用した食堂「おだかのひるごはん」もオープン。おいしいものを出すことで、一時帰宅する住民たちが気軽に立ち寄れる場所をつくった。
4人家族の和田さんは、原発事故で生活が一変。自宅に住めなくなり、20km圏より外にある原町区の借り上げ住宅で両親と暮らしていた。
週末は、妻と子が避難する会津若松へ2時間半かけて通う生活。和田さんの長男・一之介くん(当時6歳)は、「小高に早く帰りたい」と口にする。
子どもたちが帰れる故郷を取り戻したい──。和田さんは前を向く。
◆

あれから12年、ガイアは小高で暮らす和田さんを訪ねた。
2016年7月、避難指示解除と同時に地元に戻った和田さん一家。いまは両親と共に家族6人で暮らしている。
小高に帰ってきてからは、2人の子どもたちは地元の学校に通い、長男はこの春から東京の大学に進学する。
次の世代のためにも故郷を守りたい――。その拠点が、2019年に自宅の向かいにつくった「小高パイオニアヴィレッジ」だ。和田さんは妻・菜子さん(51)と共に、小高に人を呼び込む活動を続けている。

いま、和田さんが力を入れているのが、ガラス工房「HARIOランプワークファクトリー小高」。ここでは、主にアクセサリーの製造を行っている。「お蚕様プロジェクト」に続く、地域に根ざした新たな産業に育てようというのだ。
「帰還を決めるのは家庭の中の女性。子育てが一段落して、外で働きたいと思った時に、女性たちにとって魅力的な仕事になる」(和田さん)。
ここで働く9人のメンバーのうち、2人は県外からの移住者。当初は受託生産だったが、2019年からは自社ブランド「iriser-イリゼ-」も展開。小高の町の花「梅」をモチーフにしたアクセサリーや「あわびの貝殻」を埋め込んだものなどが人気を集め、年間4000万円を売り上げるまでに成長した。

2026年2月、石川・珠洲市。能登半島地震から2年たったいまも、街の復興は思うように進んでいない。
この日、定期的に能登を訪れている和田さんが立ち寄ったのは、地元のシェアオフィス「OKNO to Bridge」。代表の伊藤紗恵さんは、和田さんを頼りにしている一人だ。
「初めて(小高に)行かせてもらって、私がやりたいことそのままだと思った。お手本があった」(伊藤さん)。

オフィスの一画には、和田さんのアドバイスを受けて立ち上げたガラス工房も。
震災で自宅を失った職員は、「好きなことをさせてもらっているのでありがたい。夢中になれる」と話す。仕事を通して故郷の復興を目指す…地域を超えた取り組みだ。
続いて和田さんが訪ねたのは、石川・穴水町甲地区にある公民館。約300人の小さな集落には、生々しい地震の爪痕が残る。和田さんはこの地で、どんな提案をするのか――。
「屋台村」で復興目指す!別々の道を歩んだ2人の15年

岩手・大船渡市。震災後、この街は沿岸部に土を盛って、高さを3mから5mかさ上げ。そこに人々が戻ってきている。大船渡市では、震災で340人が亡くなり、いまも79人が行方不明のままだ。
この街で生まれ育った及川雄右さん(61)は、大船渡の復興に深く寄与した人物。
ガイアは、震災が起きた直後から及川さんを取材していた。
【2011年放送】

2011年6月6日、大船渡で唯一、津波を免れた「ホテル丸森」の一画に、復興美容室「絆」がオープンした。震災で店を失った美容師たち7人が集まり、営業を再開したのだ。
この場所を提供したのが、「ホテル丸森」の及川社長(当時46)だった。
この日、「ホテル丸森」の会議室で、大船渡飲食店組合の会合が開かれた。
加盟する60店のうち57店舗が被災。及川さんは、飲食店組合の組合長でもある。
どうすれば、組合員たちが再起できるのか――。及川さんが出した答えが「屋台村」だ。
元手も少なく、多くの人を救うことができると考えた。
「どうせやるなら大船渡一ではなく、東北一ではなく、世界一の屋台村をつくる」(及川さん)。

そんな及川さんが最も頼りにしていたのが、幼馴染で飲食店組合の副組合長・新沼参壱さん(当時47)。大船渡で寿司割烹「若大将」を開いていたが、自慢の店は変わり果てた姿に。同じ場所での営業再開は不可能だった。
新沼さんは、「ホテル丸森」の厨房で、全国から届いた支援の食材をどう生かすか、屋台村のメニューを開発することに。新沼さんが貴重な食材から個性あるメニューをひねり出すうちに、屋台村の進むべき道も見えてきた。

屋台村を建設するのは、400坪の広い土地。津波で自宅を流された地主が貸してくれたのだ。
「ここに灯りがついただけで、みんな安心する。まさしく復興屋台村」(新沼さん)。
及川さんは「屋台村は、いろいろな人の各地からの支援があってできた。早くオープンして、全国に発信したい」と話す。
しかし、屋台村プロジェクトが進む中、新沼さんに東京行きの話が持ち上がる。「新沼さんに店を譲りたい」という人が現れ、本決まりになったのだ。
この話を聞いた及川さんは、「参ちゃんの人生だから。お互い離れるけれど、頑張ろう」と新沼さんの背中を押し、2人は別々の道を歩むことに。
その4カ月後、2011年12月に「大船渡屋台村」はオープンし、寿司や居酒屋、沖縄料理など20店舗が集結。屋台村の中心にはステージがつくられ、連日多くの人で賑わった。
そして2017年、沿岸部全体のかさ上げ工事のため、屋台村は5年でその役目を終えた。

あれから9年…ガイアは及川さん、新沼さんの“いま”を取材。そして2人が再会し、新沼さんが長年秘めてきた“ある思い”を打ち明ける――。
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