「海賊=無法者の集団」ではなかった…瀬戸内海にいた「海の領主」たちの"したたかすぎる"生き残り戦略
※本稿は、川戸貴史『商人の戦国時代』(ちくま新書)の一部を再編集したものです。

■経済的に重要だった瀬戸内海海運
中世の日本において瀬戸内海海運が経済的に非常に重要であったことは繰り返し述べてきたが、実際の瀬戸内海の現場ではいったいどのようなことがあったのか。これについては、15世紀の事例になるが貴重な目撃証言があるので、次に紹介したい。
その証言をしたのは、京都を目指していた朝鮮王国(李朝)からの外交使節だった。
現代人もしばしば旅に出て非日常の世界を体験して心を奪われるように、当時の人もまた非現実体験は強い印象を与えたに違いない。
つまりこの外交使節が見た風景は、瀬戸内海を行き交う人々にとってはたわいもない日常であったが、それを見慣れない人にとっては特別なものに映った。
そのため彼は記録に遺し、我々はそれを追体験することができるのである。
その外交使節の名は、宋希(そうきけい)。そして彼が遺した史料は『老松堂日本行録』と呼ばれている。
宋希欧朝鮮の使節として京都へ向かった背景について説明しておこう。
応永26年(1419)、朝鮮半島沿岸部で度々発生する海賊による略奪行為に対し、朝鮮はその集団を対馬(つしま)(現長崎県対馬市)から来寇(らいこう)した「倭寇(わこう)」によるものと断定し、鎮圧を図るために対馬を攻撃した。
この事件を日本では「応永(おうえい)の外寇(がいこう)」と呼んでいる。
■来襲覚悟も通り過ぎた一艘の小船
これに対して室町幕府は朝鮮へ使節を派遣し、朝鮮の真意を探ろうとした。そして翌応永27年(1420)に、日本からの使節の帰国に随行して日本への返礼のために訪れたのが、宋希欧任△辰拭
よって戦国時代からは年代が遡る事例にはなるが、後に紹介する戦国時代の事例とも大きな違いはないので、具体例としてここで取り上げることとした。
宋希欧瀬戸内海を船に乗って移動した際に見た光景は、次のようなものであった。応永27年3月に博多を経て赤間関に入った宋希欧蓮関門海峡を東へ進み瀬戸内海へ入る。
4月になり、安芸国高崎(現広島県竹原市)へ向かっていた宋希屋豺圓蓮海上に見える「石島」を指して、ここはかつて朝鮮からの使節が海賊の襲撃に遭った場所だと知らされる。
するとその島から一艘の小船が素早く近寄ってくるのが宋希欧量椶貌った。その小船に乗船していた者たちは鼓(つづみ)を打ち、旗を張り、角(つの)(角笛か)を吹き、錚(かね)を鳴らし、甲を被り、弓を取って立っていたという。
宋希欧料イ両莪は海賊の来襲かと身構えたが、そのまま小船は通り過ぎていったという。
その後無事京都へ到着した宋希欧蓮6月16日に足利義持に会見して朝鮮国王の書契(国書)を伝達した後、帰国の途に就く。
■「通行料」を支払えば襲われることはない
兵庫から船に乗り西へと向かった宋希屋豺圓蓮7月22日に安芸国蒲刈(あきのくにかまがり)(現広島県呉市)に宿泊した。
この地域は特に海賊の多い地域だと聞き警戒心が高まったという。
そこで聞いた話では、この地域には「東西の海賊」がいて、東から来る船は東の海賊を一人乗せれば西の海賊がその船を襲撃することはないため、銭七貫文を東の海賊に支払って乗船させたという。
瀬戸内海には、各地でそれぞれ拠点とするいくつかの海賊集団が盤踞(ばんきょ)していたが、それぞれには縄張りがあったようで、金銭で手懐(てなず)けておけば賊船からの襲撃を免れることができるようになっていた。
また島が多く潮も速い蒲刈周辺は適切な航路を採ることが容易ではないため、通過する船舶にとっても、安全な航路を知る地元の海賊衆を乗船させることにメリットもあった。
いわば水先案内人としての役割を担っていたともいえるだろう。当時はこのような人を上乗(うわのり)と呼んでおり、時には権力により動員されることもあった。
■宣教師ルイス・フロイスが遭遇した海賊衆
戦国時代の事例を挙げると、天文元年(1532)頃に、安芸国東部の領主小早川興景(おきかげ)から島末若狭守(わかさのかみ)に対し、下関までの上乗について感謝を述べた事例がある(『戦遺瀬戸内』三五――土井聡朋・村井祐樹・山内治朋編『戦国遺文 瀬戸内水軍編』)。
ちなみに蒲刈の海賊によると、朝鮮の船は銭や財物を積載していないので襲撃はしない。しかし琉球の船は多く宝物を載せているので、もし来たら奪い取るという。
外洋船が直接瀬戸内海を航行することがどれほどあったかは疑問ではあるが、少なくとも朝鮮や琉球との交易に伴う船舶が瀬戸内海を頻りに往来していたことは確かであろう。
戦国時代には、海賊に襲われた経験を書き残した人物がいる。イエズス会宣教師の一人として知られるルイス・フロイスである。
天正9年(1581)に九州から堺に向けて移動していたフロイスは、瀬戸内海の航行中に海賊衆と出会うことになった。
同年4月14日付で記した書翰(しょかん)によると次の通りである(『イエズス会日本年報』上・下――イエズス会編・村上直次郎訳・柳谷武夫編輯。引用に際して一部字句を改めた箇所がある)。

■瀬戸内海の制海権を握っていた毛利氏
塩飽(しわく)の港に着いたが、この港に着く前に、能島(のしま)の海賊が数人我等の船に乗り込んだ。
もし我等が兵士を同伴していなければ、一つの島の後に隠れていた十艘の船をもって我等の船を襲撃する意図で、兵士乗組の有無を探るためであった。(中略)
サコ(船頭の名か)は塩飽には決して入港せぬ約束であったが、特別の理由を述べ、我等の期待に反して塩飽の泊に入港した。
(中略)能島殿の代官と毛利の警吏がいて、我等の宿の主人が同夜塩飽を去るよう我等に勧めたため、恐怖は一層加わった。
これは小早川が塩飽から四レグワ(約22キロメートル)の所にいた故で、二時間以内には我等のことを聞き、我等を非常なる危険に陥るであろうと言った。(中略)我等はこの港を出た。
この時は瀬戸内海の制海権を握る毛利氏と、宣教師たちを後援していた大友氏との間で紛争が続いていた。
そのため毛利氏は瀬戸内海を通航する宣教師たちを警戒し、影響下にある海賊衆が彼らを襲撃することを黙認していたようである。
この時の讃岐国(さぬきのくに)塩飽(現香川県丸亀市など)は当時毛利氏と関係を結んでいた能島村上氏の支配下にあったため、フロイスは上記のような目に遭うことになった。
この時はなんとか難を逃れたようだが、結果的に堺の近海で海賊衆の襲撃を受けてしまったようだ。
■襲撃だけではなかった海賊の生業
16世紀後半になると、毛利氏や大友氏など戦国大名同士の紛争に巻き込まれる形になることが多かったようだが、瀬戸内海では依然として海賊衆が活発な行動をみせていたことがわかる。
なお、フロイスが記している「兵士」とは上乗を指し、上乗が乗船したためこの時は襲撃を免れたとの指摘がある(山内譲『中世の港と海賊』)。
さて、このような海賊衆はそれぞれの地域を拠点として集団で活動していたとみられるが、常に船舶を襲撃することだけを生業としていたわけではなく、漁業のほかに彼ら自らも廻船に関わっていたと考えられている。
また、彼らは単なる寄せ集めの集団ではなく、その集団を率いるリーダー格が指揮に当たっており、そのリーダー格が時には「海の領主」として守護などの武家領主層の指揮下に組み込まれ、しばしば合戦に動員されることもあった。
戦国時代に石見銀の流通に関わっていた人々もまた、そのような集団を出発点としていたのだろう。
つまり、このような集団は本来地縁的な組織として生業を営んでいた人々だったが、室町時代から戦国時代にかけて、徐々に戦国大名などの広域地域権力の支配下に入りつつ、地元の港などを拠点として地域の物流や経済活動に関わる小領主となっていったということになる。
■海上物流に影響を与えた村上海賊
その結果、16世紀半ばになると戦国大名の指揮下に入り、集団として海上から軍事活動に従事する「水軍」のような存在となる海賊衆が目立つようになった(黒嶋敏『海の武士団――水軍と海賊のあいだ』など)。
瀬戸内海におけるそのような「海の領主」といえば真っ先に思いつくのは、「村上海賊」などと呼ばれる村上氏の一族であろう。
彼らは芸予(げいよ)諸島を中心に戦国時代の瀬戸内海で軍事力を有し、海上の物流に影響を与えた海賊集団としてよく知られている。
しかし一族のなかでも戦国大名との関係はそれぞれ異なっていた。
その代表例としてよく知られる、村上氏の一族と戦国大名らとの関係の歴史について、先行研究に導かれながら次にみていきたい。
はじめに、備後国因島(びんごのくにいんのしま)(現広島県尾道市)を拠点に活動した因島村上氏についてみてみよう。
この一族が因島の領主として活動を始めた経緯については不明な点も多いが、南北朝時代には海賊集団を束ねる地域領主として活動していた可能性が指摘されている。
その具体的な様子を示す早い例として史料上明確なのは、少し時代は遡るが、応永34年(1427)に村上備中入道が播磨国へ軍勢を率いて馳せ参じたことに対し、足利義持の感状(かんじょう)(戦功を賞する文書)が出されていることである(「因島村上家文書」六――『因島市史料』五)。
室町幕府による軍事活動の指揮下で戦争に参加していたことがわかる。
■守護の指揮下に入った因島村上氏
そして同じ頃には、備後守護山名時煕(ときひろ)から所領を与えられている。守護の被官となったとまでは断言できないにしても、戦時において守護の指揮下に入る立場にもあったことは確かだろう。

そして享徳2年(1453)には、伊予守護の一族河野通春(こうのみちはる)が伊予へ帰国する際に便宜を図り忠節を尽くしたとして、因島村上氏の棟梁(とうりょう)と思われる村上備中守は室町幕府管領(かんれい)の細川勝元から褒賞されている(「因島村上家文書」九)。
因島村上氏は、幕府や守護権力と強い結びつきを築くことになったといえるだろう。
その後の因島村上氏は、幕府の影響力が弱体化すると戦国大名の支配下に入ることになった。応仁の乱の時には、すでに大内政弘の指揮下に入って活動していた可能性がある。
そして永正5年(1508)の大内義興の上洛に当たって、護衛のための「警固船」を派遣している(『戦遺瀬戸内』一六)。
因島村上氏は瀬戸内海周辺海域で影響力を拡大した大内氏の庇護下となり、「海の領主」として大内氏の海上における軍事力を支える存在となった。

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川戸 貴史(かわと・たかし)
名古屋市立大学大学院人間文化研究科教授
1974年生まれ。一橋大学大学院経済学研究科博士後期課程単位修得退学。博士(経済学)。専門は日本中世史、貨幣経済史。著書に『戦国期の貨幣と経済』(吉川弘文館)、『中近世日本の貨幣流通秩序』(勉誠出版)、『戦国大名の経済学』(講談社現代新書)などがある。
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(名古屋市立大学大学院人間文化研究科教授 川戸 貴史)
