なぜダイソーは「100円均一」にしたのか…ダイソー創業者・矢野博丈が「100円でええ」と言い出した決定的瞬間
■「この商売は、いずれ潰れる」
昭和47年(1972年)3月に「矢野商店」を創業した。が、矢野は弱気だった。
〈この商売は、いずれ潰(つぶ)れる〉
そのため、長男の寿一、次男の靖二(せいじ)には、先に謝っていた。
「ワシは大学出させてもらったのに、すまんのォ。家には借金がようあるけぇ、おまえらは中学で勘弁してくれ。中学出たら、就職してくれ。中卒で神戸製鋼に就職すれば、月給3万円だというど」
■「トラック1台の売上高で日本一になろう」
モノ1個を100円、200円で売る商売だ。年商1億円なんて、想像しただけで夢のような世界なのだからしょうがない。
〈絶対、無理じゃろうけど、目標は持ってもいいだろう〉
年商1億円という夢のような目標を掲(かか)げたが、確実に実行できる目標も持った。
「今、日本には500円均一とかで走りまわるキャラバンが、300台くらいおるじゃろう。でも、ワシのトラックが300台の中で一番売れているはずじャ。会社としては、うちは田舎(いなか)にあるし、負けるけえ、トラック1台の売上高で日本一になろう」
矢野は、会社の規模を大きくすることに興味などなかった。
仮に、年商100億円、300億円という大規模の目標を掲げたなら、トラックの台数を増やし、安いものを大量に仕入れ、粗利を追求していく道を選ばざるを得ない。
そうではなく、矢野は、「一番売るトラック売店」という身近な目標を選んだ。
この目標をはたすために、客に喜んでもらえる原価を高くしたよい商品を売り、だれよりも働き、客に来てもらうためにチラシをたくさんつくってポストに入れる。
自分たちの目の前にあるやれること、それをコツコツと積みあげてさえいけばいい。なにも無理までして、自分たちを窮地(きゅうち)に陥(おとしい)れる心配はないのだ。
■父親に心配だけはかけたくない
〈商売を大きくしてしまえば、親に心配をかけることになる〉
矢野は、8人兄弟の中で、自分が一番父親から愛情を注(そそ)いでもらっていることを知っていた。
いつも、顔を見れば怒鳴(どな)られてばかり。それでも、「この子がかわいい、かわいい」とも言ってくれた。
父親に心配だけはかけたくないという思いを大事にし、商売をした。
矢野は、地道に店を大事に育てた。
それが、今では1時間で1億円を売り上げるのだから、人生どう転ぶかわからない。
■目標は小さくていい
必死で走ってきた矢野には、1億円を達成した日がいつなのかさえ、思い出せない。
ただ、あのときの目標が、100億、300億というものだったら、人生の節々でフライングをしていただろう。
焦(あせ)るあまり、土地を買い、倉庫をつくり、商売を大きくすることばかり考えたあげく、倒産していたにちがいない。
目標は小さくていいのだ。
矢野は、2トントラックに商品を詰め込み、ベニヤ板に商品を並べて商売した。
露店の敵は、天気である。雨が降れば商売はできない。
ある日、雨が降ってきそうな雲行きの日があった。
〈今日は、雨が降りよるけ、行くのはやめだ〉
そう思っていた。しかし、予想とは逆に、天気が回復し、晴れてきた。
家から30分ほどの場所でもあったため、これからでも間に合うと商売に出かけて行った。
■「100円でええ」
午前10時ごろ到着した。現場には、すでに、チラシを片手にした女性たちが待っていた。
露店を出す前日に、自分たちで刷った「矢野商店」のチラシを、その周辺の住宅のポストに入れて歩いた。それを見た人たちが、矢野の到着を今か、今かと待っていたのである。
ふだんは、朝4時ごろに起きて早めに現場へ着き、商品に値札をつけて開店準備をする。
しかし、今回は開店準備などしている場合ではなかった。
「早くして!」
待っている客たちにせかされ、急いで荷物を降ろした。
商品を並べる前に、勝手に客が段ボール箱を開け、目当ての商品を探し出す。
「これ、なんぼ?」
急いで、伝票を見る。
「ちょっと待って」
扱う商品の数は、何百にもなる。なかなか、見つからない。
客を待たせるわけにはいかない。思わず矢野の口をついて出た。
「100円でええ」
■石油ショックで原価がどんどん上がってしまう
それを聞いたほかの客も、矢野に聞いてくる。
「これは、なんぼ?」
矢野はまた答えた。
「それも、100円でええ」
値段をつけるまもなく、商品が売れていく。
こういう意図しないきっかけから、矢野が扱う商品は、全部「100円」になった。
矢野が思わず口にした「100円」が、矢野の人生の運命を変えることになる……。
「矢野商店」を立ちあげ、商売をはじめても、いいことはなかった。
100円均一で商品を売るということは、上限が決まっていて値上げができないということだ。やっと食えるようになったかと思えば、昭和48年(1973年)の石油ショックや、田中角栄の列島改造論などでインフレになり、原価がどんどん上がってしまう。
気がつけば、10パーセントも仕入れ値が上がっているものもあった。
■「『安もの買いの銭失い』だ」
矢野は、さすがに業者に文句を口にした。
「こら! なんでステンレスのスプーンの値が上がるんか」
そう言う矢野に、業者は言い返した。
「石油代が上がって段ボール代が上がったし、運賃も上がるんだから、原価が上がるのは当たり前だ。文句があるなら、買ってもらわんでもいい」
70年代のオイルショックと日本の小売業の変化によって、移動販売は急速に廃(すた)れ、仲間たちのほとんどが廃業した。
そんなとき、矢野は店頭である光景を目にした。
4、5人の客がいろいろ商品を見ているが、これがなかなか決まらない。
〈あー、早く買っていってくれないかな〉
矢野がそう思ったとき、その中のひとりが言った。
「ここでこんなもの買っても『安もの買いの銭失い』だ。帰ろう」
そう言って、みんなを連れて帰ってしまった。
■「いいもん売ってやる!」
矢野に衝撃が走った。
「安もの買いの銭失い」
この言葉が、一番こたえた。
原価70円までのものを100円で売るのだから、たしかに品質に限界はある。
矢野は、泣き言を吐いた。
「もう、この商売、やめようか。『安もの買いの銭失い』って、今日も3回言われた」
そう言いつつも、矢野はやめなかった。
むしろ、矢野の心の中にはメラメラと悔(くや)しき炎が燃え上がった。
〈ちくしょう! どうせ儲(もう)からんのだし、いいもん売ってやる!〉
それからというもの利益を度外視し、原価を思いきり上げた。原価70円で抑えるところ80円にまで上げた。時には98円のものを100円で売った。
たちまち、客の目つきが変わるのが、矢野にはわかった。
「わっ、これも100円! これも100円!」
客の素直な反応が、矢野にとっての励みになっていった。
〈自分の儲けを考えていたら、商売なんてできん。ワシは、客が驚く姿が見たかったんじャ。客が喜んでくれればそれでええ。その分、ワシは売って売って儲けを出すんじャ〉
矢野商店は、あっというまに全国の同業者の中で一番売れる店になっていった。
と同時に、じょじょに多くの従業員を抱えられるようになっていった。
「矢野さんとこは、商品がいい」
評判が評判を呼び、大手スーパーからも引き合いがくるようになった。
しかし、売上と商品数が増えるにつれ、従業員は疲弊していった。
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大下 英治(おおした・えいじ)
作家
1944年、広島県に生まれる。広島大学文学部を卒業。『週刊文春』記者をへて、作家として政財官界から芸能、犯罪まで幅広いジャンルで旺盛な創作活動をつづけている。著書に『安倍官邸「権力」の正体』(角川新書)、『孫正義に学ぶ知恵 チーム全体で勝利する「リーダー」という生き方』(東洋出版)、『落ちこぼれでも成功できる ニトリの経営戦記』(徳間書店)、『田中角栄 最後の激闘 下剋上の掟』『日本を揺るがした三巨頭 黒幕・政商・宰相』『政権奪取秘史 二階幹事長・菅総理と田中角栄』『スルガ銀行 かぼちゃの馬車事件 四四〇億円の借金帳消しを勝ち取った男たち』『安藤昇 俠気と弾丸の全生涯』『西武王国の興亡 堤義明 最後の告白』『最後の無頼派作家 梶山季之』『ハマの帝王 横浜をつくった男 藤木幸夫』『任俠映画伝説 高倉健と鶴田浩二』上・下巻(以上、さくら舎)、『逆襲弁護士 河合弘之』『最後の怪物 渡邉恒雄』『高倉健の背中 監督・降旗康男に遺した男の立ち姿』『映画女優 吉永小百合』『ショーケン 天才と狂気』『百円の男 ダイソー矢野博丈』(以上、祥伝社文庫)などがある。
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(作家 大下 英治)