【戸塚啓コラム】W杯回想録その1「それはまるでタイムマシーンのように」
ワールドカップはタイムマシンだ。4年前、8年前、12年前、16年前……4年という区切りこそあるものの、その当時の記憶が鮮やかによみがえってくる。
記憶に刻まれた初めてのW杯は、1982年のスペイン大会だ。初めて観るW杯ということを差し引いても、1次リーグから面白い試合が多かった。当時はまだ24か国による大会で、アウトサイダー的な存在が少なかったからかもしれない。
中学2年生だった僕は、『サッカーマガジン』の大会展望号を買い、NHK総合で深夜に放送される試合を兄と一緒に観ていた。3歳年上の兄は試合が終わるまで起きていられるのだが、僕は途中で寝てしまうこともあった。
ブラジル対イタリアのスリリングな攻防も、兄のメモで結果を知った。再放送があったのかどうかは覚えていないが、フルタイムの試合はその後何度も観た。試合の記憶は鮮明だが、生では見逃している。
86年のメキシコW杯当時は、高校3年だった。深夜から早朝にかけての試合でも、このときは観ることができた。ビデオで撮ることができたのも助かった。
アルゼンチンの試合、というよりもディエゴ・マラドーナの試合は、ほぼすべて観たような気がする。準々決勝のイングランド戦、準決勝のベルギー戦、決勝の旧西ドイツ戦と、重要な試合を重ねていくことで、マラドーナは凄みを増していった。疲労は蓄積していくはずなのに、パフォーマンスは上がっていった気がする。それはもう間違いないのだが、個人的には韓国との初戦が鮮烈だった。
加藤久さんや木村和司さんがいた日本に、はっきりとした実力差を見せつけた韓国を、マラドーナは文字どおり翻弄した。いまなら一発退場になるようなファウルを受けても、マラドーナは攻撃を牽引して3対1の勝利を引き寄せた。
記録を調べてみると、韓国への警告はふたりに止まっている。当時の印象では4、5人が警告を受けてもおかしくなかったが、僕の記憶が曖昧なのか、ルールが穏やかだったのか……。
90年のイタリアW杯は、サッカー専門誌でアルバイトをしながら迎えた。毎日夕方に編集部へ行き、試合を観て、編集部の人たちのお手伝いをして、始発が動き出す頃に帰る。そんな生活を一か月ほど続けた。
82年や86年に比べると、興奮の目盛りは低かった気がする。アルバイトとはいえ仕事をしていたから、無邪気に楽しめなかったのかもしれない。決勝トーナメントに入るとPK戦が多かったことも理由かもしれない。
PK戦で決着のついた試合は「4」で、それが多いかどうかはともかく、アルゼンチンが2試合連続のPK戦でファイナルへ辿り着き、旧西ドイツもイングランドとの準決勝がPKによる決着だったことで、PKのイメージが強く刻まれたのだろう。ちなみに、旧西ドイツ対アルゼンチンの決勝も、PKで決着が着いている。
94年は社会人4年目で迎えた。
アルバイトからそのまま入社したサッカー専門誌は、92年に月間から隔週となり、93年には隔週から週刊となった。92年に日本代表がアジアカップ初優勝を飾ると、サッカー人気が爆発した。93年のJリーグ開幕でサッカーブームはさらに加速し、専門誌2誌が週刊化へ踏み切った。
93年の“ドーハの悲劇”によって、日本は94年のW杯出場を逃していた。それでも、サッカー人気の熱は高まっていた気がする。
僕の役割は「受け」だった。現地アメリカから送られてくる原稿と写真を整理して、現地の記者がカバーできない試合の原稿を書いたりした。
思い出すのは試合でも選手でもない。雑然とした編集部の景色だ。週刊誌と増刊号を並行して編集していたので、とにかく忙しかった。友だちと試合を観ることも、お酒を飲みながら観ることもなかった。
考えてみれば、お酒を飲みながらW杯を観たことが一度もない。82年と86年は学生で、90年以降は仕事をしているからだ。こうやって書くとW杯を楽しめていない感じがするが、現場へ行くとまた違う景色が広がるのだ。(以下、次回へ続く)
記憶に刻まれた初めてのW杯は、1982年のスペイン大会だ。初めて観るW杯ということを差し引いても、1次リーグから面白い試合が多かった。当時はまだ24か国による大会で、アウトサイダー的な存在が少なかったからかもしれない。
ブラジル対イタリアのスリリングな攻防も、兄のメモで結果を知った。再放送があったのかどうかは覚えていないが、フルタイムの試合はその後何度も観た。試合の記憶は鮮明だが、生では見逃している。
86年のメキシコW杯当時は、高校3年だった。深夜から早朝にかけての試合でも、このときは観ることができた。ビデオで撮ることができたのも助かった。
アルゼンチンの試合、というよりもディエゴ・マラドーナの試合は、ほぼすべて観たような気がする。準々決勝のイングランド戦、準決勝のベルギー戦、決勝の旧西ドイツ戦と、重要な試合を重ねていくことで、マラドーナは凄みを増していった。疲労は蓄積していくはずなのに、パフォーマンスは上がっていった気がする。それはもう間違いないのだが、個人的には韓国との初戦が鮮烈だった。
加藤久さんや木村和司さんがいた日本に、はっきりとした実力差を見せつけた韓国を、マラドーナは文字どおり翻弄した。いまなら一発退場になるようなファウルを受けても、マラドーナは攻撃を牽引して3対1の勝利を引き寄せた。
記録を調べてみると、韓国への警告はふたりに止まっている。当時の印象では4、5人が警告を受けてもおかしくなかったが、僕の記憶が曖昧なのか、ルールが穏やかだったのか……。
90年のイタリアW杯は、サッカー専門誌でアルバイトをしながら迎えた。毎日夕方に編集部へ行き、試合を観て、編集部の人たちのお手伝いをして、始発が動き出す頃に帰る。そんな生活を一か月ほど続けた。
82年や86年に比べると、興奮の目盛りは低かった気がする。アルバイトとはいえ仕事をしていたから、無邪気に楽しめなかったのかもしれない。決勝トーナメントに入るとPK戦が多かったことも理由かもしれない。
PK戦で決着のついた試合は「4」で、それが多いかどうかはともかく、アルゼンチンが2試合連続のPK戦でファイナルへ辿り着き、旧西ドイツもイングランドとの準決勝がPKによる決着だったことで、PKのイメージが強く刻まれたのだろう。ちなみに、旧西ドイツ対アルゼンチンの決勝も、PKで決着が着いている。
94年は社会人4年目で迎えた。
アルバイトからそのまま入社したサッカー専門誌は、92年に月間から隔週となり、93年には隔週から週刊となった。92年に日本代表がアジアカップ初優勝を飾ると、サッカー人気が爆発した。93年のJリーグ開幕でサッカーブームはさらに加速し、専門誌2誌が週刊化へ踏み切った。
93年の“ドーハの悲劇”によって、日本は94年のW杯出場を逃していた。それでも、サッカー人気の熱は高まっていた気がする。
僕の役割は「受け」だった。現地アメリカから送られてくる原稿と写真を整理して、現地の記者がカバーできない試合の原稿を書いたりした。
思い出すのは試合でも選手でもない。雑然とした編集部の景色だ。週刊誌と増刊号を並行して編集していたので、とにかく忙しかった。友だちと試合を観ることも、お酒を飲みながら観ることもなかった。
考えてみれば、お酒を飲みながらW杯を観たことが一度もない。82年と86年は学生で、90年以降は仕事をしているからだ。こうやって書くとW杯を楽しめていない感じがするが、現場へ行くとまた違う景色が広がるのだ。(以下、次回へ続く)
関連情報(BiZ PAGE+)

1968年生まれ。'91年から'98年まで『サッカーダイジェスト』編集部に所属。'98年秋よりフリーに。2000年3月より、日本代表の国際Aマッチを連続して取材している