ユニクロに潰された数々の企業に学ぶ「変われないことの危険性」 敗れるときは一瞬、二度と戻れない

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安いけど着るにはダサい。消費者以上に、アパレル業界はユニクロの存在を長らく冷ややかに見ていた。だから、突然「ユニクロはおしゃれ」が常識になったとき、他社は太刀打ちできなくなってしまった。発売中の『週刊現代』が特集する。

「我々にはマネできない」

1970年から約半世紀にわたって、高級ブランド「バーバリー」のライセンス販売を行っていた三陽商会。その元幹部社員が、ユニクロの登場時をこう振り返る。

「ユニクロのモノは安くて買いやすいけど、着ているのがバレたら恥ずかしい。最初は、誰もがそういう印象だったと思います。

当時、三陽商会も『目指すところが違う』企業だと思っていました。同じ洋服を取り扱っているけど、異業種というか。

けれど、ある日突然、世間の洋服に対する考え方が百八十度変わり、ユニクロが『おしゃれ』だという時代になった。正直に言えば、認めたくない。でも、それが今のファッションの当たり前なんですよね」

コロナの影響で、アパレル業界はかつてないほどの窮地に立たされている。売上高2兆円超を誇るファーストリテイリング(ユニクロ)も、今年5月の既存店売上高は約2割減だった。

それでも、6月19日に発売した「エアリズムマスク」は売り切れが続出。逆境を勝機に変え、またもユニクロ「一人勝ち」の体をなした。

冒頭の三陽商会元幹部が続ける。

「(ユニクロの)柳井さんは4月の決算会見で、『マスクは作らない、服を作るのが本業だ』と渋い顔をしていたはずです。なのに、それから2ヵ月で販売まで漕ぎ着けた。

嫌味な言い方をすれば、経営者として節操がないですよね。でも、信念とかにとらわれず、売れると思ったらすぐにやる。今やそれが企業の生存戦略の本筋だけれど、既存のアパレルにはマネできない」

手頃な価格で流行の服を買う「ファストファッション」を日本で確立したユニクロの存在は、私たちの生活を変えた。部屋着だけではなく、商談やデートに着ていく「よそ行きの服」がユニクロでも、何の違和感もなくなった。

世の常識、時代というものは、ある日突然、一気に変わる。それを体現したのが、アパレルにおけるユニクロだ。

一方で、既存のアパレル企業は次々と淘汰されていった。レナウンが今年5月に「コロナ倒産」したのは業界に衝撃を与えたが、仮にコロナがなかったとしても、経営が傾くのは時間の問題だっただろう。

こうしてユニクロだけが勝ち、既存アパレルがあっという間に駆逐されていったその理由とは、何だったのか。

「あれは田舎で売るもの」

1949年創業、'84年から柳井正氏が舵取りをするユニクロが全国的な知名度を獲得するようになったのは'98年のこと。1900円のフリースは200万枚を売り上げ、同年原宿に都市型店舗一号店をオープンした。

「ユナイテッドアローズ」や「ビームス」など、若者に人気絶頂だったセレクトショップが軒を連ねる原宿への出店は、ユニクロがアパレル業界に放った「第一の矢」である。

事業再生コンサルタントの河合拓氏は言う。

「当時、ほとんどのアパレル業界関係者はユニクロを相手にしていませんでした。『あんな低価格品は田舎や郊外に出店するべきだ、都会進出で成功するのは高級ブランドだけだ』と考えていたのです。

'98年というと、すでにバブルは崩壊していましたが、アパレル業界にはまだその残り香があり、ローンを組んで服を買う人も珍しくなかった時代です。

にもかかわらず、柳井氏は『ブランドは虚像に過ぎない』とまで言い放ち、低価格路線を取り続けました」

ユニクロの自信を裏付けていたのが、「SPA(製造小売)」という、製造から販売までを一貫して行う仕組みの開発だった。

人件費の安い海外に工場を作り、自社で原価交渉をし、他社ならせいぜい数万着の製造を、数十万、数百万着単位で行い、価格破壊を起こした。

「その頃、百貨店に入っているブランドはコストカットに追われていました。伊勢丹をはじめ、百貨店が納入時の卸値の掛け率を大幅に下げたためです。

そのしわ寄せは原価率に転嫁せざるを得ず、気付けば同品質のものがユニクロでは半額以下で買えるようになってしまった」(ファッションコンサルタントの小島健輔氏)

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ブランド品ではないが、安くて使い勝手のいいユニクロ。地方のロードサイド店だけではなく、首都圏に増え始めていた「エキナカ」やショッピングモールに大量出店し、ファッションに興味がない消費者にも親しみやすい存在となった。

ただ、ユニクロを着る人を街中でよく見かけるようになっても、2000年代のユニクロにはまだ「ダサい」というイメージがあったはずだ。「ユニバレ」(ユニクロを着ていることがバレる)「ユニ被り」(同じユニクロ製品を友人が着ている)などの冷やかしも流行った。

「アパレル業界内では、たまたま原宿の一号店が物珍しかっただけだと、ユニクロを軽視する人も少なくなかったはずです。'02年に柳井社長が突如打ち出した『野菜販売』が早々と撤退したときも、他社はそれを笑っていた。

『失敗してもいいからやってみよう』という意識が、すでにユニクロ以外には失われつつあったのかもしれません」(流通小売業界に詳しい証券アナリストの佐々木加奈氏)

アパレル業界の歴史を変える「第二の矢」となったのが、冬の下着の定番となった「ヒートテック」の発売('03年)だ。

甲南女子大学人間科学部教授の米澤泉氏は言う。

「東レと開発した新素材を使い、ムレにくく暖かい下着であることを売りにしました。しかも、それが毎年のように改良されていく。あくまでインナーですが、服はデザインやブランドではなく、『機能性』で選ぶ時代が来た、と主張したのです」

朝早く通学する女子高生、工事現場の作業員、ゴルフに出かけるシニア世代――。老若男女が抵抗なく、同じメーカーの下着を買い求める。以前のアパレルの常識では考えられなかったことだ。

まだはっきりとは現れないが、潮流は変わり始めている。そのことに、他社は気づかなかった。

前出の三陽商会元幹部社員は次のように言う。

「この10年来、他社も『高機能』をテーマにした商品を出している。同じものを出しているのに、どうにもこうにも振り向いてもらえない。一度世の中の空気が変わりだすと、取り戻すことは難しい。認識が甘かった」

客は全部、奪われた

当初、「我が社のライバルにはならない」とあぐらをかいていた既存のアパレルたちが、逆にユニクロの製品を追いかける立場へと変わった。

すると中途半端な「ユニクロ化」を目指すがあまり、さらに製品の質を落とし、ブランド力の低下を招く負のスパイラルに陥ったのだ。

「既存のアパレルには製品開発を外部に丸投げし、海外の有名ブランドに頼って人のフンドシで相撲を取る企業もある。コストカットを求められれば、下請けの製造販売企業を締め付ける。

もともとはある程度ノウハウを持っていたのに、いつの間にか楽な商売をするようになっていたのです。それが急に団結し、ユニクロのような世界スケールの製造業態を作るのは無理です」(一橋大学大学院経営管理研究科客員教授の名和高司氏)

古いアパレルが組織革新を躊躇しているうちに、世の中の状況は大きく変化していく。リーマン・ショックで消費者のデフレ志向はいっそう進んだ。

人に会うときは「一張羅」を着るのが当たり前だった世代、バブル期に「着道楽」を謳歌した世代も、平成の後半には、購買意欲が落ちていた。

「高度経済成長からバブルを経験してきた老舗アパレルは、日本の消費者は中間層が厚く、裕福な人たちも多いと信じていたはずです。ユニクロとうちは購買層が違うから、高額商品でも買ってくれる。

実際には、彼らが顧客だと思っている年収1000万円を超える層は、ほんの数パーセントしかおらず、中間層はユニクロに奪われてしまった」(前出・河合氏)

その頃、「H&M」「フォーエバー21」などの「本家」ファストファッションの波が海外から押し寄せた。

安価でデザイン性の高い「黒船」は、「安かろう、良かろう」で、あくまでオーソドックスなTシャツやセーターを売ってきたユニクロをも飲み込む可能性があった。

そこでユニクロが放った「第三の矢」こそ、アパレル全体の流れを一気に変えるターニングポイントになった。

人々はもうついてこない

それは、ある意味で「逆転の発想」だ。悪く言えば没個性だったユニクロを着ているほうが、これからは「おしゃれ」になると、「ブランドなき差別化」を図ったのだ。

前出・米澤氏は言う。

「ユニクロは2013年に『ライフウェア』という概念を打ち出しました。服は、無理をしておしゃれをするためのものではなく、着心地の良い服を日常に取り入れ、『生活をよくする』ためのものだとアピールしたのです。

すると、消費者は価格やブランドから解放され、ユニクロが売る機能的な服を着るのが当たり前になった。あくまでファストファッションの選択肢として『ユニクロでいい』と思っていた人たちも、『ユニクロがいい』と考えるようになったのです」

山口県の紳士服店に過ぎなかった企業は東京へ進出し、価格破壊を仕掛け、デザインではなく機能性で勝負する新提案をすることで、業界の常識を塗り替えてきた。

そんな「ユニクロのセオリー」が日本の社会構造の変容にピタリと合致したとき、まるでオセロの石が瞬時に裏返るかのように、業界の風景は一変した。ユニクロさえあればそれでいい、そんな時代になったのだ。

前出・佐々木氏は言う。

「ユニクロが提供するのはあくまで服のパーツで、それを組み合わせて楽しんでください、と提案している。ユニクロが支持されるのは、消費者がそれらのパーツを選ぶ目利きができるようになったからです。

たしかに百貨店のアドバイスやブランドの提案を頼りに服を選んでいた時代もあったと思います。

ですが、それが『流行はアパレルが作るもの』という、上から目線でのものづくりに繋がってしまった。そのようなものづくりは消費者に受け入れられない時代に、ユニクロが作り替えたのです」

いつまでも栄光が続くという油断と盲信があった。流行は自分たちが作り、人々はついてくるものという傲慢と過信を捨てられなかった。

澱のように積み重なった古いアパレルの体質が、あっという間に変わる時代への対応を拒否した。理解し、実践できたのは唯一、ユニクロだけだった。

前出・名和氏は言う。

「消費者の生活に意味のある服を提案するという今のユニクロの戦略は、ある意味で究極の『顧客第一主義』です。

一方で、大手の既存アパレルは、企業の今ある価値を守ることばかりにこだわる。でも、そうすればそうするほど、顧客との距離は離れる一方でしょう」

少しの判断ミスや過信で、たちまち歴史から取り残されていく。敗れるときは一瞬であり、二度と時代は元に戻らない。

発売中の『週刊現代』ではこのほかにも『この国の病院と医療を考える』『この夏休み、得する旅行の予約の仕方』『中島みゆきと荒井由実がいた1975年、日本の青春は新しくなった』などを特集している。

「週刊現代」2020年7月4・11日合併号より