「BBCが選ぶ100人の女性」に日本人が2名という話題がメディアを賑わし、首相官邸のホームページには「世界で活躍する日本人」という特集ページがあるなど、世界に認められ活躍した日本人を称賛したい気持ちは官民変わらないようです。では、日本の歴史上、海外でもっとも活躍した人物は誰なのでしょうか?メルマガ『古代史探求レポート』は、百人一首の歌人に名を連ねる「阿倍仲麻呂」こそが筆頭候補であると述べ、その出世物語を紹介しています。

80代のゲームアプリ開発者若宮正子さん

首相官邸のホームページを見ておられる方はいらっしゃるでしょうか。総理大臣の様々な挨拶や、演説内容が掲載されているとともに、閣議の議題などが掲載されています。国会の質問に対する答弁内容は閣議により決定されるので、国会の開催中は案件として、これらが並びます。

それらの通常ページとは別に、特集ページが存在します。その中の一つに、「世界で活躍する日本人」というページサイトがあります。 海外向けの発信サイト「We are Tomodachi」の中のコーナーを日本語に翻訳して紹介しているものです。今年の春夏号で紹介された人達の中に「シニア世代をICTの世界に導く、80代のゲームアプリ開発者」として、83歳の若宮正子さんがいます。

彼女は、iPhone用のゲーム開発者として紹介されています。hinadanというゲームの開発者ですが、8万ダウンロードがあったと言いますから大したものだと思います。アップルのCEOのティム・クックと談笑している写真がとても印象的です。

Xcodeを使うと、非常に簡単にiphone用のアプリが作れます。私も6年前に「魏志倭人伝を探る」というアプリを作りました。今出ている本のアプリ版で、文章に合わせて映像が出てくる優れものでしたが、販売したのもつかの間、すぐに、これは本の部類に入るので電子書籍だとしてアプリから排除されてしまいました。 当時は多くの人が本をアプリとして売ろうとしたため、アップルがそういう行為を禁止したのです。映像や資料が飛び出してくるから本ではないと反発もしたのですが、売りたかったのは機能ではなく内容でしたので電子書籍に変換してしまいました。

若宮さんの話を読みながら、当時の懐かしい出来事を思い出しました。若宮さんにしてみれば、普通に楽しんで作っていただけなのに、知らず知らずのうちに取り上げられ話が大きくなったということなのかもしれません。物事を為すのに年齢は本当に関係ないのだなと思います。ティム・クックは「刺激をもらった」と挨拶したそうです。彼にインスピレーションを与えることになったという事実は、世界を変える一端を担ったということです。

海外に渡り海外で活躍した歴史上の人物の意外な少なさ

現代の日本は、先進国の、それもトップ集団の中を走っている国であると思います。近年は、英語にも多くの人が抵抗がなくなってきたのではないかとも感じます。ヨーロッパ行きの飛行機のビジネスクラスは日本人ビジネスマンで満席です。単一民族に近い環境を生きてきた日本人も、ようやく外国人アレルギーを取り除いて活動できるようになってきたのだと実感するのです。

歴史的に見ると、海外に渡って学んだあと、日本で大活躍をしたという人はたくさん存在します。古代においても、遣隋使で中国に渡った小野妹子、高向玄理、僧旻、南淵請安など初期の渡航者達の日本建国へ果たした役割は非常に大きなものがありました。高向玄理も南淵請安も、608年に渡り640年に帰国しましたから、32年もの長きに渡り中国に滞在し研鑽を積み知識を持ち帰りました。ここで得た知識が、日本の礎になっていったのです。

一方、海外に渡って、海外で活躍した人となると、あまり名前が出てきません。実際は沢山いたのかも知れませんが、日本に知られていないだけなのかも知れません。 テレビ朝日の「こんなところに日本人」という番組をよく見るのですが、多くの人達は海外青年協力隊での渡航や、それに付随して活動している人たち、もしくは、海外の人と結婚しその国に渡った人達です。彼らには与えられた人脈と収入が得られる生活の場があります。

そうではなく、時々ですが、信念を持って海外で事業を興し、地域貢献を果たしている人達がいます。過去の困難を明るく話す彼らの姿は、本当に感動や勇気を与えてくれます。 一般の人々の活躍に反して、歴史上の人物として名前を残している人はあまりいません。

ジョン万次郎は、難破し漂流した後、アメリカの捕鯨船に助けられました。船長の好意でアメリカ本土で3年間大学で学び、その後、捕鯨船で働き、カリフォルニアで金鉱を掘り船を所有するまでになり琉球へ渡りました。その後の活躍の場は日本でしたがアメリカ側の通訳として活躍しました。

山田長政は、シャム国のアユタヤに渡って日本人町の長となりました。活発に貿易を指導し、地元での治安維持にも活躍したことが知られています。そして、隣国リゴールの太守にまで出世しました。でも、江戸時代に活躍した、この2名ぐらいしか名前が思いつきません。

古代日本人の海外での活躍阻む3つの壁とは

古代の日本人が海外で活躍するには、いくつかの難しい条件があります。 一つ目が言葉です。日本語は文法だけでなく発音も特別です。中国音をそのまま取り入れた単語さへ、その多くが中国では伝わりません。以前に少し取り上げさせていただきましたが、ハ行音が無かったなど、日本にはない音があったことが大きな要因です。日本で中国の言葉を学んでも、中国では使えなかったのです。

言葉を不自由なく話すためには、少なくとも3年、普通5年は必要だと思います。本を読みこなすということになると、今度は音ではなく語彙の多さが必要になります。覚えれば良いのですが、現在のように辞書もない時代に、かつ、書物も手に入らない環境で、語彙を増やすことは至難の業でした。言葉の壁はとても大きかったと思います。

二つ目が、人脈が存在しないことです。古代、特に、限られた範囲でのコミュニケーションが中心の時代、どの人を誰から紹介してもらうかは非常に重要なことになります。ある人が推薦してくれたとするなら、その人物の度量が加わって信頼度が変わります。誰の人間関係もなく、知る人もいない社会で、新たに信頼を得て人間関係を築き、かつ、その輪を広げて行くのは非常に難しいことです。この構築にも、実績を示す必要があり数年、数十年を要することになります。

三つ目が資本です。何をするにもお金が必要ですが、古代日本人は海外のお金を得る手段がありませんでした。ですから、他の国に渡っても全くお金がない中でのスタートになります。資本ゼロで成せる事は何もありませんから、まず、基本となるお金を稼ぐ必要があります。

これ程、大きなハンデがある海外での活躍ですが、それを成し遂げた天才が存在していました。その人の名は阿倍仲麻呂です。日本が日本という名の国家を成立させ、ようやく基盤を整えるための土壌のできた年、すなわち、大宝元年(701年)に彼は生まれます。

お父さんは阿倍船守。天皇の補佐や詔勅の宣下や叙位などの朝廷に関する職務を担っていた中務省(なかつかさしょう)に勤めていました。今でいう、宮内省と首相官邸を併せ持ったような仕事をしていたところです。

そのトップを中務卿と言い、その下に事務官がいました。事務官のトップが大輔(だいすけ)です。今で言うところの事務次官です。お父さんの仕事は、この中務大輔でした。この地位につけるのは正五位上の人でしたから、貴族の一人であり非常に良い家柄であったと言うことができると思います。ちなみに、おじいさんは筑紫大宰帥、つまり太宰府の長官でした。位は正三位です。

子供の頃から神童の呼び声が高かったようです。古今和歌集目録に記載された「国史」からの引用によると「霊亀二年(716年)選を以って入唐留学生となる。時に年十有六」と書かれています。数え歳で16歳、つまり、今の中学三年生で、唐への留学生に選ばれました。

異国の地で最も努力した日本人

この若さ故の吸収力でしょうか。我々の高校、大学に当たる時間を唐で勉強できたわけですから、彼にとっても幸せなことであったと思います。若くして、唐に渡ることができたことが、彼に成功をもたらした大きな一因だと思います。

遣唐使も、初期の頃とは異なり、この時代には船4艘を連ねて、550人以上の大所帯で出向いていったようです。同時に、唐に渡ることができた人は多かったようですが、海賊に対峙するためでしょうか。武人が沢山乗船していたようです。知識人は30名程であったようで、その中の一人が阿倍仲麻呂でした。

長安の大明宮で玄宗皇帝に接見し、留学生達はその後使者とは別行動をとって四門助教という、現在の大学の助教のような人々に師事して教えを乞うていたようです。この四門助教というのは、中国で用いられた職業の位、九品官吏法によると従八品上という位に該当します。従って、若手官僚に色々と教えてもらうのが常であったようです。

しかし、阿倍仲麻呂は違いました。貴族の子供ですし、祖父に至っては正三位の家柄ですから、他のものよりは位が遥かに上であるということで、唐代の最高学府の官僚養成機関でもあった「太学(たいがく)」への入学を許可されました。今の北京大学、日本で言えば東京大学です。

でも、今のように何千人も学生がいたわけではありません。 唐の時代には、太学・国子学・四門学・律学・書学・算学が置かれ、六学とされていました。それぞれが何を教えていたかの詳細迄は調べられていないのですが、名前からなんとなく何を学んだか、また、学問の位置付けもわかるように思います。この六学卒業者に与えられたのが、科挙の最終試験であった省試の受験資格です。 この太学を卒業した阿倍仲麻呂は、科挙にも合格し、唐の官吏となるのです。721年のことですから、20歳になったばかりでした。

最初に就いた職は左春坊司経局校書という役職です。左春坊は建物名です。職務が校書、いわゆる書記官です。この職務の位階は正九品下。つまり、最下層職務からの出発でした。

阿倍仲麻呂が驚異的なのは、次々と出世していき、位階を上げていったことです。官僚になって10年後の731年には左補闕(さほけつ)という侍従で皇帝の過失を補う役につきます。これが従七品上。735年に儀王友、これは玄宗の子供の儀王の陪従(べいじゅう、付き人のことです)のことです。この役職が、従五品下。本来なら、既に四品上がりましたから、慣例では、ここで打ち止めです。 しかし、彼はもっともっと出世し、左散騎常侍(ささんきじょうじ)という皇帝の側近として詔や命令を伝達する職務につきます。まさしく、皇帝の側近中の側近。過去には宦官がこの職を占め国が腐敗したことで有名です。位階は正三品です。いかに皇帝から信頼されていたかがわかります。

皇帝の覚えがめでたすぎ帰国できない仲麻呂

733年のことでした。日本から新たな遣唐使が送られてきました。この時、阿倍仲麻呂は玄宗皇帝に帰国の願いを出しますが、玄宗皇帝はこれを拒否します。733年には左補闕の役でしたが、既に玄宗皇帝の覚えめでたい官吏であったのだと推測されます。 一緒に唐に留学生として渡ってきた吉備真備と玄坊(坊は、日へん)は、この時帰国を許可され日本に帰国しました。

ご存知の通り、吉備真備は右大臣にまで出世した人物です。玄坊も怪僧として晩年には目立った活躍がありませんでしたが、当初は聖武天皇の側近として活躍しました。阿倍仲麻呂も帰国していれば、日本を仏教にすがりつくしか道がないような状態には、していなかったと確信します。

阿倍仲麻呂が、すごい人物であったという証明となるのが、唐で友人となったのが王維であり李白であるからです。類は友を呼ぶ。王維は官僚であり、詩人でもあり、画家でもあり、書家でもあります。ダイナミックに自然を歌い上げるのが特徴で、仏教の影響を受けた人でもあったことから、詩仏と呼ばれています。唐代一の博識芸術家と言っても良いのではないかと思います。

李白は、杜甫と並ぶ中国の2大詩人の一人であり、詩仙として知らない人はいないと思います。白髪三千丈で始まる詩は、高校の漢文の教科書にも載っていたのを覚えています。李白は玄宗皇帝の側近顧問として仕えましたので、この時、仲麻呂と知り合ったのかと思います。李白は元々官僚ではなく、根っからの詩人でした。

750年になると、藤原清河が遣唐大使として鑑真招聘の使命を帯びて唐にやってきます。この時点で、阿倍仲麻呂も50歳になろうとしています。中国で官僚になって早30年が経ちました。

流石の玄宗皇帝も、これ以上自分の側に縛りつけようとは考えなかったのだと思います。 この時、玄宗皇帝は阿倍仲麻呂を藤原清河を日本に送り届ける全権大使の役として任命します。唐からの出張扱いにして、全ての金額を負担し、また唐に帰って来れるように道筋をつけて、日本に送り出したのです。玄宗皇帝にしてみれば、阿倍仲麻呂への感謝の気持ちであったのだと思います。それだけ必要不可欠な重臣であったということなのでしょう。

その日、いざ出航となると、一羽の雉が船の前を横切りました。これは、不吉の前兆であるとして出航を一日延期します。この時に望郷の思いに駆られ詠んだ歌が「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」です。帰れない寂しさを詠んだのではありません。三笠の山に出ていた月を、また、直ぐに見ることができるというはちきれんばかりの期待を込めた歌であったと理解します。

翌日、琉球経由で帰ろうとして出帆した船は、嵐に遭い琉球に辿り着くことはできず、そのまま安南(現在のベトナム)にまで流されてしまいます。李白はこの報せを聞いて、仲麻呂が亡くなったと思い「朝卿衡を哭す」の悲しみの詩を歌い上げました。朝衡(ちょうこう、チョウは日の下に兆、朝と同意)は阿倍仲麻呂の唐名です。

仲麻呂はその後長安に戻った後、再び安南に赴任し安南節度使の職を得ます。そして、最後はロ州大都督(ろしゅうだいととく)となります。位階は従二品です。そして、彼は二度と日本に戻ることはありませんでした。

その時代、世界では、中東には巨大なウマイヤ朝、ギリシャには東ローマ帝国、フランスにはフランク王国、スペインには西ゴート王国がありました。後は未開の地です。世界の中で唐は桁違いに大きい領土を有し、最高の文化国家を誇っていました。その国で、皇帝の側近として、そして重鎮として活躍し、唐の文化人を友として生活していたのが阿倍仲麻呂です。

海外で、ここまで出世した人は、日本の歴史上現代に至るまで誰一人として存在していないと思います。言葉、人脈、資本のどれも持たない異国の地で最も成功した、日本一の努力家であったのです。

image by: Hyakunin Isshu Uba-ga E-toki by Hokusai, Wikimedia commons

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