名曲誕生の舞台裏、突然の解雇…業界屈指の名ドラマーがエルトン・ジョンと共に歩んだ50年

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エルトン・ジョンのFarewell Yellow Brick Road Tourでスティックを握るドラマー、ナイジェル・オルソン。エルトンが絶大な信頼を寄せるドラマーが語る、ドラムの美学、オートレースへの関心、そして自身の去就について。

ドラマーのナイジェル・オルソンと出会ったとき、22歳のエルトン・ジョンは内気で不器用ながら、成功を夢見る若きピアニスト / ソングライターだった。1969年当時、ディック・ジェイムスのDJM Recordsの専属ソングライターだったジョンは、作詞家のバーニー・トーピンと組んでルルやロジャー・クックに曲を提供し、ユーロヴィジョン・ソング・コンテスト入賞を狙ってポップソングを書き続けていた。「あの頃、僕はよくディック・ジェイムスのオフィスに出入りしてた」  。オルソンは当時をそう振り返る。「エルトンはそこでよくデモを録ってて、ドラマーが必要なときはいつも声をかけられたよ。『後でスタジオに来てくれないかな、ちょっと手伝ってほしいんだ』みたいな感じでさ」

デモの即興レコーディングから始まった2人のパートナーシップは、以降50年間続くことになる。オルソンは『ホンキー・シャトー』『黄昏のレンガ路』『カリブ』『キャプテン・ファンタスティック』『トゥー・ロウ・フォー・ゼロ』『ソングス・フロム・ザ・ウエストコースト』をはじめとする、エルトンの代表作の数々に参加している。また彼がドラマーを務めたエルトンのコンサートは、これまでに2000公演を超えている。

エルトン・ジョンの引退ツアーとなるFarewell Yellow Brick Road Tour(9月8日のペンシルベニア州アレンタウン公演から開始)にも同行するオルソンが、長い年月をかけて培われてきたエルトンとの信頼関係、引退ツアーの見どころ、そしてエルトンにアメリカでのサラダの注文の仕方を教えたというエピソードまで、自身の言葉で語ってくれた。

ーエルトンの人気に火がつく数年前から、あなたは彼とタッグを組んでいます。エルトンとバーニーが共作したオリジナル曲を初めて聴いたとき、何か特別なものを感じましたか?

大昔の話だね。その曲は「恋人よ明日って何」のデモだったと思う。「Turn To Me」なんかも手応えはあったけど、全てが噛み合い始めたのは2作目の『僕の歌は君の歌』(1970年発表)のセッションだったと思う。1枚目の『エンプティ・スカイ (エルトン・ジョンの肖像)』の翌年に出たアルバムで、「僕の歌は君の歌」が収録されてる。レコード会社はRoundhouseっていうロンドンにある大きな会場で、彼にショーケースをやらせることにした。出たばかりだったアルバムから数曲演ることになって、エルトンは(ベーシストの)ディー(・マーレイ)と僕に声をかけてくれたんだ。

当時、僕はユーライア・ヒープっていうバンドにいたんだ。ライブにも9回くらい参加したと思う。その頃にエルトンのバンドでやらないかって声をかけられて、ディック・ジェイムスのスタジオでリハーサルをやることになった。バンドの演奏に合わせて最初の8小節を弾いた時点で、僕はこれが自分のやりたかった音楽だって確信したんだ。ものすごくリアルで独創的、これこそ僕が求めていた音楽だって感じた。そのショーケースはザ・フーの前座だったんだけど、反応もすごくよかった。僕らみんなすごく手応えを感じていて、バンドとして一緒にやっていこうってことになったんだ。それが今日まで続いてるってわけさ。

ー当時はエルトンがピアノとヴォーカル、ディーがベース、あなたがドラムという形態でした。ギターがいないバンドというのはとても新鮮でしたが、あれは誰のアイデアだったのでしょうか?

自然とあの形に落ち着いたんだ。アメリカに渡る前にも、僕らはイギリスの大学の学園祭とかで何度か演奏してた。でもこっちに移ってから、ポール・バックマスターがストリングスのアレンジを担当したアルバムのオーケストレーションを、なんとかバンドで再現しようと試行錯誤を始めた。ディーがベースでチェロのパートを表現したりね。当時はステージで使えるエフェクトといえば、せいぜいワウペダルくらいだった。でもディーはどんなに難しいアレンジも、アイデアでカバーしてみせるんだよ。僕らが「布教本部を焼き落とせ」みたいな曲を3人で再現したことに、オーディエンスは驚いてたね。いい気分だったよ。

『ライヴ!!(17-11-70)』に収録されている「布教本部を焼き落とせ」は実に18分に及びますが、あれは事前に練習していたのか、それとも完全に即興だったのでしょうか?

あれは即興だよ。ジャムセッションさ。今聴いてみると、「いったい何考えてたんだ?」って感じだけどね。互いの出す音に反応し合ってただけなんだけど、すごくいい流れが生まれてた。ラジオで生放送されたあのショーの音源には、一切編集が加えられてないんだ。

ーエルトンにとってアメリカでの初ライブとなったThe Troubadourでのパフォーマンスは、今やファンの間で伝説となっています。現場はどのような状況だったのでしょうか?

確かにあれは強烈だったね。まだ僕らが有名になる前で、一部のファンへのお披露目コンサートって感じだった。ディック・ジェイムスにこう言われたんだ。「アメリカでのこのショーは、君たちにとって一世一代のチャンスだ。うまくいけば、君らの人気に火がつくだろう。だがまぁ心配するな。もしうまくいかなかったら、俺がオックスフォード・ストリートの靴屋の仕事を紹介してやるから」なんてさ(笑)。結果的にその靴屋で働かなかくて済んだんだから、僕らは期待に応えたってことなんだろうね。

こっちでディーと僕は、当時スペンサー・デイヴィス・グループとつるんでた。彼らの最後のツアーに、僕はメンバーとして参加してたからね。ディーと知り合ったのもそのときさ。こっちに来たばかりの頃、ディーと僕はアメリカでの生活について、エルトンにいろいろアドバイスしたもんさ。サラダの注文の仕方とか、そういうくだらないこともね。こっちの1人前は、イギリスのそれよりも遥かにデカいからさ。

シーンにある種のムーヴメントが起きつつあったあの頃に、エルトンをサンセット・ストリップとかに連れてったことはいい思い出だよ。ロスのThe Troubadourでやったあのギグのことは、今でもはっきりと覚えてる。客席の最前列にニール・ダイアモンドの姿を見つけたときは、さすがにビビったね。スティーヴン・スティルスとレオン・ラッセルもいたな。どういう風の吹き回しか知らないけど、確かダイアナ・ロスも来てたと思う。超満員だったからすごく緊張したけど、演奏が始まったら肩の力も抜けた。最高に楽しかったよ。

ー初期の作品群では、あなたはアルバムにつき1曲しか参加していませんが、その理由は?

当時僕は他のプロジェクトも抱えてたからね。ユーライア・ヒープもそうだけど、あの頃新しいバンドのリハーサルが始まったばかりだったんだ。ある人物からそのプロジェクトに参加してほしいって依頼されて、とりあえず数カ月間一緒にやってみて、うまくいきそうならレコーディングにも参加することになってた。でも僕はやっぱり、スタジオでの作業よりもツアーに出てるほうが好きなんだ。田舎のスタジオに何カ月も引きこもるっていういうのが、どうしても性に合わなかった。それで結局ロンドンに戻ってきちゃったんだけど、後になってそのバンドがスーパートランプだって判明したんだ(笑)いい曲を書くなとは思ってたけど、僕好みじゃなかった。エルトンがガス(・ダッジョン)やポール・バックマスターとレコードを作ってた頃、僕はそういう立場だったんだよ。

ー『エルトン・ジョン3』では「過ぎし日のアモリーナ」に参加していますが、あの曲のレコーディングで印象に残っていることはありますか?

あれはオリンピック・スタジオで録ったんじゃないかな。エルトンと一緒にやり始めて間もない頃に、僕とディーが参加した最初の曲のひとつだね。あんなレコーディングは初めてだったよ。 現場の誰一人として「こうしたほうがいいんじゃないか」なんて口にしなかった。それぞれのスタイルがうまく噛み合ってたからね。しばらく後にパリ郊外のスタジオに入った時や、コロラドのカリブー・ランチでのレコーディングの時もそうだった。それぞれのセンスが相互作用する形で、バンドにケミストリーが生まれていたんだ。それは今でも変わってないよ。他のメンバーが何をやろうとしているかが、手に取るようにわかるんだ。出会ったばかりの頃に作った初期のレコードには、そういうムードが特に顕著に現れてると思う。彼らとは素晴らしい時間を共有してきた。まさにソウルメイトさ。

ー1970年代前半、あなた方は驚くべき数の名曲を生みだしました。その圧倒的なペースに、自分ではどう感じていましたか?

まさにマジックだったね。当時はものすごく忙しかった。ツアーに出て、戻ってきたらすぐに次の作品のレコーディングを始めて、既発の曲群と新曲を組み合わせたセットリストを組む、その繰り返しだったよ。ツアーに出るときは、必ず発表前の新曲をたくさん用意していった。毎日があっという間で、成功を実感する余裕なんてなかったんだ。それはアメリカでの状況だけどね。その頃僕らは、イギリスじゃまだまだ無名だったんだ。

ーエルトンのソングライティングのプロセスについて教えてください。彼は過去のインタビューで、バーニーから歌詞を受け取るとそのままピアノに向かい、その内容に目を通しながら即興でメロディを作っていくと語っています。

それは本当だよ。初期の頃、バーニーは歌詞以外には完全にノータッチだったにもかかわらず、よくレコーディングの様子を見に来てた。エルトンは歌詞に目を通しながら、まずその曲に適したテンポを見極めるんだ。それからランダムにコードを弾き始めたかと思えば、気付いたときには曲になってるんだよ。

文字通りあっという間に完成した曲もある。「ダニエル」なんかは15分くらいで出来上がったんじゃないかな。まるで魔法だったね。みんなで朝食をとってるときに、彼が思い立ったようにピアノを弾き始めて、書き上げた曲をすぐスタジオで録るなんていうことも珍しくなかった。そういう場合に備えて、スタジオはいつでも作業できる状態になってた。彼が曲を生んでいく様子を目の当たりにして、僕らの想像力も大いに刺激された。とりわけ有名な曲の大半は、多くても4テイクくらいで仕上げたと思う。最初のテイクがそのまま音源になった曲もあるよ。僕らは最初からそういう感じだった。

僕が特に意識するのは、歌詞の内容とピアノの低音部なんだ。僕は自分を描写的なドラマーだと捉えていて、歌詞のイメージに合ったドラムを心がけてる。間奏の部分で、ここぞとばかりにビッグなドラムソロを叩くドラマーは多いけど、僕は敢えてそうしない。僕はそういう部分では、歌を待つ気持ちを優しく煽るようなドラムを叩くようにしてる。それが僕のスタイルだし、このバンドにはすごく合ってるんだ。

ー「葬送〜血まみれの恋はおしまい」のレコーディングで印象に残っていることは?

メドレーになってるあの曲のレコーディングのことはよく覚えてるよ。僕のドラムの音を出すには、すごく大きくて天井の高い部屋じゃなきゃだめなんだ。ドラムのすぐそばにマイクを立てつつ、天井につくくらいの位置にアンビエンスマイクを設置する必要があるからね。そうすることで、自然な残響音を伴うビッグなドラムサウンドが録れるんだ。僕のドラムはいつもそうやって録るんだよ。メドレーにする上で、別々に録った曲を後から編集で繋ぎ合わせるっていうやり方は避けたかった。それじゃ自然な流れが生まれないからね。ただあの曲は長尺で構成も複雑だったから、納得のいく演奏ができるまで、何度かテイクを重ねないといけなかった。

カリブーで録った「幼き恋の日々」と「ベールの中の遠い想い出」もメドレーだね。テンポも曲調もまったく違うんだけど、曲間を設けないことにしたんだ。この時も別々のテイクを後から繋ぎ合わせるつもりはなかったから、2曲を続けて演奏した。「幼き恋の日々」を録りながら、その後「ベールの中の遠い想い出」が続くのかと思うと、ちょっと気が遠くなりそうだったけどね。かなり大変なセッションだったことは事実だけど、その甲斐あってマジックを起こせたと思ってる。忘れられない思い出のひとつだね。今でもあの曲をライブで演るのは大好きだよ。

ー「皆で書いた曲を弾いてみる/言葉にできない不思議な感情が僕を支配していく」と彼が歌う部分は、本当に鳥肌ものですよね。

同感だね。僕が描写的なドラマーであろうとするのは、まさにそういう理由からなんだ。あの曲で彼が「人気のない地下鉄の窓を滴り落ちる」って歌う部分で、僕は雨の音をイメージしながらシンバルを叩くんだ。優れた歌詞っていうのは、ミュージシャンからそういう描写的なパフォーマンスを引き出すんだよ。あの曲はピアノのサウンドも素晴らしいね。彼と50年近くも一緒に活動することができて、僕は本当に恵まれてると思うよ。

ー代表作のひとつである『キャプテン・ファンタスティック』発表後、エルトンはあなたを含むバンドのメンバー全員を解雇しました。どういう状況でその知らせを聞かされたのでしょう?

彼の事務所から電話があって、おもむろに「エルトンは異なる方向性を模索することにした」って言われたんだよ。不貞腐れてても仕方ないから、そのときから僕は自分なりにキャリアを重ねていくことにした。でもこうして戻ってきて、今も一緒に演奏できてることをうれしく思ってるよ。

ー解雇を言い渡されたときは、やはりショックでしたか?

そうだね……。でもクヨクヨしてないで、前を向いて進んでいくと決めたんだ。

ー実際には他にも理由があったわけですが、あなた方の解雇と同時に彼のレコードの売り上げが急落したのは印象的でした。

なんでだろうね。彼に直接聞いてみるといいよ。

ーあなたは自身のキャリアをスタートさせ、1978年には「涙のダンシング・シューズ」がヒットしました。あれは思いがけないことでしたか?

そうだね、いい経験だったよ。実はあの作品を出す前に、アメリカのマーブルズっていうバンドのためにビージーズが書いた「Only One Woman」っていう曲を、カリブー・ランチでバンドのメンバーと一緒に録ったんだ。僕はあの曲がすごく気に入ってたから、カリブーでのレコーディングの休憩中に、録ってみようぜって提案したんだ。レコード会社も乗り気でシングルとして出すことになって、アメリカじゃ結構売れたんだよ。その後僕はアトランタのBang Reacordsと契約して、「涙のダンシング・シューズ」をレコーディングしたんだ。

あの曲の出来にはすごく満足してた。その後「悲しきソープ」とか、何曲か続けてレコーディングした。アルバムの反響には素直に喜んでたけど、ディーがツアーに出たがったときは困ったよ。僕はフロントマンとしてステージに立つ気はなかったからね。

ー実際あなたは素晴らしい声の持ち主ですよね。

ありがとう。歌うのは好きだからね。それまではバックコーラス専門だったけど、ヴォーカリストとして評価されたことはうれしかったよ。今でもあのレコードの曲をライブでやってほしいってよく言われるんだけど、あれはやっぱり別物だからね。でもバンドの一員としてじゃなく、ソロのアーティストとして成功を収めたことは誇りに思ってるよ。

ーポップスターになりたいとは思わなかったと?

ガラじゃないからね。でも何度かテレビには出たよ。(『アメリカン・バンドスタンド』に)4回くらい出演して、ディック・クラークと親しくなったんだ。ツアーに出るべきだって彼から言われたけど、僕にフロントマンは無理だって答えたよ。

ー1980年代初頭にはエルトンのバンドに再加入しましたが、どういった経緯があったのでしょう?

 (ギタリストの)デイヴィー(・ジョンストン)から電話をもらって、アルバムにバックコーラスで参加しないかって提案されたんだ。二つ返事でオーケーしたよ。その後また電話をもらって、今度はバンドに復帰しないかって持ちかけられた。「もちろんさ、場所を言ってくれればどこにでも行く」そう答えたんだ。僕らの絆はそうやって復活したんだよ。

ー復帰後初のステージでドラムを叩いたとき、どう感じましたか?

いい気分だったね。あのマジックを再び間近で感じられることができて、すごく興奮したよ。彼の音楽の一部でいられることは、僕にとってこの上ない喜びなんだ。彼のコンサートの客層は多様で、おじいちゃんやおばあちゃんが孫を連れてきてたりする。50年近く前に書いた「クロコダイル・ロック」なんかを、最前列の小さな子供たちが熱唱してるんだよ。僕らミュージシャンの役割は、人々を笑顔にさせることだ。最近は暗いニュースが多いからこそ、嫌なことを全部忘れて思い切り楽しむ時間が必要なんだ。そういう時間を提供する側にいられる自分は、本当に恵まれてると思うよ。

ーディー・マーレイとは親しかったのでしょうか?

とてもね。僕らは互いを兄弟のように感じてた。実際、僕らは結婚を通じて親戚同士になったんだよ。僕の最初の妻は双子の姉で、彼は数年後にその妹と結婚したんだ。文字通りのファミリーになったわけさ。僕らは相性も抜群だった。今でも彼のことはよく思い出すよ。バンドのメンバーといても、彼のことが話題にならない日はないくらいさ。

ー彼が生きていたら、バンドを続けていたと思いますか?

そうだね、間違いないよ。

ーあなたは『ブレイキング・ハーツ』の後に再び脱退しますが、その理由は?

モーターレースがやりたくなったんだ。僕は車マニアで、長い間モーターレースに夢中だった。フェラーリに知り合いがいるんだけど、彼がある日電話してきてこう言ったんだ。「ロサンゼルスから60マイルほど北に行ったところにあるレース場で新しい車を試すんだけど、よかったら来ないか?」ってね。僕はレーシングスクールに通ってスーパーライセンスを取ってたから、現場でその車を少し運転させてもらったんだ。素晴らしいマシンで、僕は夢中になった。それで彼からこう言われたんだ。「なぁ、ちょっと音楽以外のことをやってみないか? これからフェラーリ・チャレンジっていう企画をアメリカに持ってくるんだけど、お前にどうかなと思ってさ」って。 世界中のチャンピオンが集うそのレースでは、マシンの性能はどれも似たりよったりだから、勝敗はドライバーの技術によって決まるんだ。それから4年間、僕はモーターレースに没頭した。でも結局はこの世界に戻って、また音楽を作り始めたわけだけどね。

ー90年代に表立った活動がほとんど見られなかったのは、カーレースに没頭していたからでしょうか?

その通りだよ。ロッド・スチュアートやリンダ・ロンシュタット、あとニール・ダイアモンドなんかのレコーディングに呼ばれたことはあったけどね。ロスを拠点にしつつ、時々他のアーティストの作品に参加してたんだ。

ー2001年には再び、エルトン・ジョンのバンドに復帰していますね。

またデイヴィーから電話をもらったんだ。「ツアーに出るんだけど、一緒にやらないか?」って誘わて、その場ですぐ返事をしたよ。「もちろんさ。リハはどこでやるんだ?」ってね。

ーあなたの復帰後に発表された『ソングス・フロム・ザ・ウエストコースト』は素晴らしい内容です。あなたが戻ってくるたびに、彼は優れた作品を完成させているように思えます。

そう言ってもらえてうれしいよ。僕が彼らのマジックの一部だってことだからね。そういう存在でいられることを誇りに思ってるし、自分は幸せ者だって思うよ。

ー以降17年間、あなた方は活動を共にしています。何がその関係を持続させているのでしょうか?

あるべき状態に落ち着いたってことじゃないかな。変わっていくこともあるけど、変わらないものものもある。僕らは今でも優れたレコードを作ってるし、バーニーの書く歌詞はやっぱり魅力的だ。そこに理由なんてなくて、ただ生まれてくるものなんだよ。今でもスタジアムを満員にできるっていうのは素晴らしいことだし、これから始まるツアーも最高の内容になるはずさ。3年に渡る長期ツアーで、その後のことは何も考えてないけどね。毎日を楽しんで生きていくだけだよ。

ーあなたは来年70歳を迎えます。ドラマーには体力が求められますが、やはり普段から体を鍛えているのでしょうか?

ツアーに出るときは特にそうだけど、体調管理には気を配ってるよ。トレッドミルとかには興味ないんだけど、よく泳いでるね。食生活にも気をつけてるよ。お酒はもうやめたし、毎日ビタミン剤を飲んでる。ありがたいことに、大勢の人間が僕の健康状態に目を光らせてくれているんだ。

ードラムを叩くとき、あなたはグローブを着けていますよね。その理由は?

手にマメやタコを作らないようにするためだよ。あのゴルフグローブを作ってるFootjoyは、僕のスポンサーになってくれてるんだ。あのグローブに使われてるレザーはびっくりするほど薄くて、素手に近い感覚でスティックを握ることができるんだよ。グリップ感も増すし、手の保護にもなってるんだ。

ー今回のツアーは前回のアリーナツアーと比べて、内容は大きく変わるのでしょうか?

詳しくは話せないけど、一大スペクタクルになるってことだけは断言しておくよ。僕らが歩んできた長い道のりを包括するような、壮大なショーになる予定さ。僕自身、内容を全部把握できてるわけじゃないんだ。ステージが出来上がるのはリハーサル開始の数日前だしね。どんな内容になるかは分からないけど、記憶に残る素晴らしいショーになることだけは確かさ。

ー長年演奏していない曲なども披露する予定ですか? そういうサプライズを期待しているファンは少なくないと思います。

セットリストについては今考案中なんだ。大変な作業だろうね、何せ膨大な数の曲があるわけだからさ。僕のレパートリーだけでも200曲近くあるけど、曲は他にもたくさんあるからね。もしかすると、内容の異なるセットリストを2つ用意するかもしれない。毎回同じ内容にならないようにね。同じ会場で2日か3日続けて演奏する場合は、日ごとに少しずつ内容が変わった方がいいからね。まだアイディアの段階だから、実際どうなるかはわからないけどさ。リハーサルが始まったら、メンバーみんなで相談することになると思う。

ーツアーが終わる頃、あなたは72歳を迎えています。引退については考えていますか?

いや、リタイアするつもりはないよ。ツアー後のことはまだ何も考えてないけど、演奏で世界中を飛び回り続けたいと思ってる。今もオートレースには携わってるけど、さすがに本格的なレースに出るのは年齢的に無理だからさ。僕はインストラクターの資格も持ってるから、その道に進むっていう手もあるんだけどね。でもやっぱり、僕はドラムを叩き続けたいんだ。

ーそう聞いて安心しました。あなたがレコーディングに参加した古い曲を、今でもエルトンと一緒にステージで演奏しているという事実は素晴らしいと思います。最近はそういうケースが少なくなってきているので。

同感だね。ディー、デイヴィー、レイ・クーパー、それに僕の4人でロックの殿堂入りできたら最高だなって思うよ。僕らがやってきたことは、十分それに値すると思うんだ。認められて然るべき功績を残してきたからね。

ー自分が過小評価されていると感じていますか?

そうは言わないよ。僕はミュージシャンとして、最大級の喜びを経験してきたからね。自分がやってきたことを、僕は心から誇りに思ってる。それに比べたら、ロックの殿堂なんて取るに足らないことだよ。今もマジックの一部でいられるだけで、僕は十分幸せなんだ。だからこそ、僕はできるだけ長くドラムを叩き続けたいんだよ。