ラウドルップ、ストイコヴィッチ、リュングベリ…ユーロでプレーした歴代外国人Jリーガーを振り返る

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 グループリーグ全日程が22日に終了し、出場24カ国から決勝トーナメントに進出した16カ国へと絞られたユーロ2016。25日からはいよいよ一発勝負のノックアウトラウンドが始まる。今回は「ユーロでプレーした外国人Jリーガー」をまとめてみた。知っているようで意外と知らない、ユーロとJリーガーの歴史を振り返ってみたい。

■ミカエル・ラウドルップ
ヴィッセル神戸(1996-1997)
デンマーク代表(1984、1988、1996)

弟のブライアンとともに、「ダニッシュ・ダイナマイト」と恐れられた80年代のデンマークを象徴するスーパースター。20歳で参加したユーロ84年大会でベスト4進出に貢献。88年大会でも1ゴールを挙げ、グループリーグ敗退に終わったチームのなかで気を吐いた。92年大会は予選を通じて活躍し、デンマークも内戦による制裁を受けたユーゴスラヴィアに代わって本大会の出場権を得たものの、メラー・ニールセン監督との意見の相違から参加を辞退。彼のいないチームは優勝を果たしている。4年後の96年大会では主将を務めたものの、1勝1分1敗の成績で大会を後にした。
クラブレベルでは1985-86シーズンにユヴェントスでスクデットを勝ち取り、バルセロナでリーグ4連覇を果たすなど、数々のタイトルを獲得。1994年に宿敵レアル・マドリードへ禁断の移籍を果たし、ここでもリーグ制覇を成し遂げた。
キャリア晩年の地として選んだのは日本。1996年に当時JFLのヴィッセル神戸に移籍し、Jリーグ昇格に貢献。翌年にJリーグで3試合に出場したのち、アヤックスからのオファーを受けて退団した。スター然とするのを嫌い、神戸時代の背番号にあえて5番を選んだのは彼の人柄を物語る有名なエピソードとなっている。

■ギド・ブッフバルト
浦和レッドダイヤモンズ(1994-1997)
ドイツ代表(1984、1988、1992)

80年代〜90年代にかけて西ドイツ、統一ドイツ代表を支え続けたセンターバック。決勝戦でアルゼンチンのMFディエゴ・マラドーナをマンマークで封殺し、優勝の立役者の一人となった1990年のワールドカップがキャリアのハイライトだが、ユーロにも3大会連続で出場。84年、88年大会こそ控えだったが、92年大会ではレギュラーの座を守り、準優勝を成し遂げた。
1994年のワールドカップ・アメリカ大会を最後にドイツ代表を引退。その後、10シーズンにわたり所属したシュトゥットガルトに別れを告げて、当時、Jリーグの創設以来、不振に苦しむ浦和レッズに移籍した。彼の加入により劇的に守備が改善した浦和は、1995年の1stステージでは3位に輝くなど、成績も大幅に向上。浦和では1997年まで3年半にわたりプレーし、個人としても1995年、1996年に2年連続でJリーグのベストイレブンに選出された。さらに2004年には監督として浦和に復帰し、Jリーグと天皇杯の二冠優勝を達成した。

■ピエール・リトバルスキー
ジェフユナイテッド市原(1993-1994)
ブランメル仙台(1996-1997)
西ドイツ代表(1984、1988)

身長168?と小柄ながら、繊細なボールタッチと滑らかなドリブルで敵を置き去りにし、「ドリブラルスキー」の異名を取った80年代を代表する名ウィング。ベルリン生まれだが、父親の先祖はロシア系であり、当時の西ドイツでは珍しい移民系選手の先駆けとしても注目を集めた。
1981年に西ドイツ代表に初選出され、3度のワールドカップに出場。うち90年大会で優勝、82年、86年大会でともに準優勝に輝いた。一方のユーロはといえば84年大会は2試合に途中出場したのみでグループリーグ敗退、地元開催の88年大会ではレギュラーを確保していたものの、準決勝のオランダ戦でまさかのスタメン落ち。途中出場の10分後に相手FWマルコ・ファンバステンにゴールを決められ敗退するなど、失意を味わっている。