ラウドルップ、ストイコヴィッチ、リュングベリ…ユーロでプレーした歴代外国人Jリーガーを振り返る
■ピエール・リトバルスキー
ジェフユナイテッド市原(1993-1994)
ブランメル仙台(1996-1997)
西ドイツ代表(1984、1988)
身長168?と小柄ながら、繊細なボールタッチと滑らかなドリブルで敵を置き去りにし、「ドリブラルスキー」の異名を取った80年代を代表する名ウィング。ベルリン生まれだが、父親の先祖はロシア系であり、当時の西ドイツでは珍しい移民系選手の先駆けとしても注目を集めた。
1981年に西ドイツ代表に初選出され、3度のワールドカップに出場。うち90年大会で優勝、82年、86年大会でともに準優勝に輝いた。一方のユーロはといえば84年大会は2試合に途中出場したのみでグループリーグ敗退、地元開催の88年大会ではレギュラーを確保していたものの、準決勝のオランダ戦でまさかのスタメン落ち。途中出場の10分後に相手FWマルコ・ファンバステンにゴールを決められ敗退するなど、失意を味わっている。
クラブキャリアの大半を過ごしたケルンを離れ、1993年のJリーグ開幕前にジェフユナイテッド市原に加入。衝撃的なプレーの数々で鹿島アントラーズのジーコらと共にリーグの黎明期を盛り上げた。1995年に引退したが、翌年に現役復帰して当時JFLのブランメル仙台(現・ベガルタ仙台)でもプレー。監督としても横浜FCなどを率いた。
名古屋グランパス(1994-2001)
ユーゴスラヴィア代表(1984、2000)
「ピクシー(妖精)」の愛称で親しまれたセルビア生まれのファンタジスタ。20歳時にユーロ84本大会でユーゴスラヴィア代表デビューを果たし、1ゴールを決めるなど才能の片りんを覗かせたものの、86年ワールドカップ、ユーロ88では予選敗退となり、長らく表舞台から遠ざかっていた。彼が名声に轟かせたのは、90年のワールドカップ。決勝トーナメント1回戦でスペイン相手に2ゴールを挙げ、ベスト8入りの立役者となった。迎えた2年後のユーロ、ユーゴスラヴィアは7勝1敗と圧倒的な強さで予選を通過し、本大会の優勝候補に挙げられたものの、自身は負傷に苛まれ、さらには内戦による制裁により、本大会直前で出場資格を剥奪されてしまった。所属のマルセイユで満足に出場できず、クラブは八百長スキャンダルにより、2部への降格が決まってしまった。
失意のなか、94年に名古屋グランパスに加入。アーセン・ヴェンゲル監督の指揮下で輝きを取り戻した彼は、ユーゴスラヴィア代表のキャプテンとしてユーロ2000に出場し、全盛期を思わせるプレーでベスト8進出に貢献した。名古屋でのプレーは7年間に及び、2度の天皇杯優勝に貢献。個人としても95年にリーグMVPを獲得するなど伝説的存在となった。
