ラウドルップ、ストイコヴィッチ、リュングベリ…ユーロでプレーした歴代外国人Jリーガーを振り返る
クラブキャリアの大半を過ごしたケルンを離れ、1993年のJリーグ開幕前にジェフユナイテッド市原に加入。衝撃的なプレーの数々で鹿島アントラーズのジーコらと共にリーグの黎明期を盛り上げた。1995年に引退したが、翌年に現役復帰して当時JFLのブランメル仙台(現・ベガルタ仙台)でもプレー。監督としても横浜FCなどを率いた。
■ドラガン・ストイコヴィッチ
名古屋グランパス(1994-2001)
ユーゴスラヴィア代表(1984、2000)
「ピクシー(妖精)」の愛称で親しまれたセルビア生まれのファンタジスタ。20歳時にユーロ84本大会でユーゴスラヴィア代表デビューを果たし、1ゴールを決めるなど才能の片りんを覗かせたものの、86年ワールドカップ、ユーロ88では予選敗退となり、長らく表舞台から遠ざかっていた。彼が名声に轟かせたのは、90年のワールドカップ。決勝トーナメント1回戦でスペイン相手に2ゴールを挙げ、ベスト8入りの立役者となった。迎えた2年後のユーロ、ユーゴスラヴィアは7勝1敗と圧倒的な強さで予選を通過し、本大会の優勝候補に挙げられたものの、自身は負傷に苛まれ、さらには内戦による制裁により、本大会直前で出場資格を剥奪されてしまった。所属のマルセイユで満足に出場できず、クラブは八百長スキャンダルにより、2部への降格が決まってしまった。
失意のなか、94年に名古屋グランパスに加入。アーセン・ヴェンゲル監督の指揮下で輝きを取り戻した彼は、ユーゴスラヴィア代表のキャプテンとしてユーロ2000に出場し、全盛期を思わせるプレーでベスト8進出に貢献した。名古屋でのプレーは7年間に及び、2度の天皇杯優勝に貢献。個人としても95年にリーグMVPを獲得するなど伝説的存在となった。
■ヘラルド・ファネンブルグ
ジュビロ磐田(1993-1996)
オランダ代表(1988)
172cmと小柄ながら、卓越したテクニックと豊かな創造性を持ち、「ヘラルジーニョ」と呼ばれたドリブラー。1980年、アヤックス・ユースに加入した彼は、17歳の誕生日から1か月後に1軍デビューを果たし、そのままレギュラーの座を守り通して3度のリーグ優勝に貢献。1986年にはライバルのPSVアイントホーフェンへ移籍し、ここでも5度のリーグ優勝など数々のタイトルを獲得した。ユーロ1988では不動の右ウィングとして出場し、マルコ・ファンバステンらとともに、オランダに初の国際メジャータイトルをもたらした。
1993年に同郷のハンス・オフト監督に請われてJリーグへの参入を決めたばかりのヤマハ(現・ジュビロ磐田)に移籍。オランダ時代とは異なり、主に中盤のセンターで司令塔の役割を担ったが、ブラジル代表のドゥンガが加入してからは、リベロとしてプレーした。1996年、負傷により退団するが、のちの磐田の黄金期の礎を築いた名手として語り継がれている。
■セルゲイ・アレイニコフ
ガンバ大阪(1993-1995)
ソビエト代表(1988)
CIS代表(1992)
派手さはないが、巧みなパスでゲームをコントロールするベラルーシ出身のMF。2004年には、UEFA創立50周年記式典にてベラルーシのゴールデンプレイヤー(過去50年間の最優秀選手)に選出された同国を象徴する選手だが、全盛期はベラルーシが独立する以前のソビエト連邦時代に遡る。1986年のワールドカップでは、大会のベストゴールのひとつと賞賛された鮮やかなミドルシュートを決めてベスト16入りに貢献。さらに2年後のユーロでは全4試合にフル出場して準優勝を成し遂げた。準決勝のイタリア戦で見せた精力的なプレーがきっかけとなり、翌1989年、9年間所属したディナモ・ミンスクに別れを告げてユヴェントスに加入した。
ソ連崩壊後、CIS(旧ソ連)代表としてユーロ1992に参加したが、グループリーグ最下位に終わり、キャリアも終わりに差し掛かる頃、Jリーグのガンバ大阪に入団。チームは低迷し、矢継ぎ早に外国籍選手が入れ替わるなかで、3年にわたり在籍して83試合に出場した。
■ドラガン・ストイコヴィッチ
名古屋グランパス(1994-2001)
ユーゴスラヴィア代表(1984、2000)
失意のなか、94年に名古屋グランパスに加入。アーセン・ヴェンゲル監督の指揮下で輝きを取り戻した彼は、ユーゴスラヴィア代表のキャプテンとしてユーロ2000に出場し、全盛期を思わせるプレーでベスト8進出に貢献した。名古屋でのプレーは7年間に及び、2度の天皇杯優勝に貢献。個人としても95年にリーグMVPを獲得するなど伝説的存在となった。
■ヘラルド・ファネンブルグ
ジュビロ磐田(1993-1996)
オランダ代表(1988)
172cmと小柄ながら、卓越したテクニックと豊かな創造性を持ち、「ヘラルジーニョ」と呼ばれたドリブラー。1980年、アヤックス・ユースに加入した彼は、17歳の誕生日から1か月後に1軍デビューを果たし、そのままレギュラーの座を守り通して3度のリーグ優勝に貢献。1986年にはライバルのPSVアイントホーフェンへ移籍し、ここでも5度のリーグ優勝など数々のタイトルを獲得した。ユーロ1988では不動の右ウィングとして出場し、マルコ・ファンバステンらとともに、オランダに初の国際メジャータイトルをもたらした。
1993年に同郷のハンス・オフト監督に請われてJリーグへの参入を決めたばかりのヤマハ(現・ジュビロ磐田)に移籍。オランダ時代とは異なり、主に中盤のセンターで司令塔の役割を担ったが、ブラジル代表のドゥンガが加入してからは、リベロとしてプレーした。1996年、負傷により退団するが、のちの磐田の黄金期の礎を築いた名手として語り継がれている。
■セルゲイ・アレイニコフ
ガンバ大阪(1993-1995)
ソビエト代表(1988)
CIS代表(1992)
派手さはないが、巧みなパスでゲームをコントロールするベラルーシ出身のMF。2004年には、UEFA創立50周年記式典にてベラルーシのゴールデンプレイヤー(過去50年間の最優秀選手)に選出された同国を象徴する選手だが、全盛期はベラルーシが独立する以前のソビエト連邦時代に遡る。1986年のワールドカップでは、大会のベストゴールのひとつと賞賛された鮮やかなミドルシュートを決めてベスト16入りに貢献。さらに2年後のユーロでは全4試合にフル出場して準優勝を成し遂げた。準決勝のイタリア戦で見せた精力的なプレーがきっかけとなり、翌1989年、9年間所属したディナモ・ミンスクに別れを告げてユヴェントスに加入した。
ソ連崩壊後、CIS(旧ソ連)代表としてユーロ1992に参加したが、グループリーグ最下位に終わり、キャリアも終わりに差し掛かる頃、Jリーグのガンバ大阪に入団。チームは低迷し、矢継ぎ早に外国籍選手が入れ替わるなかで、3年にわたり在籍して83試合に出場した。
