By camknows

横浜にある「カップヌードルミュージアム」は、世界初のインスタントラーメンである「チキンラーメン」を発明した安藤百福氏のクリエイティブな思想を体感できる体験型ミュージアムです。そんなカップヌードルミュージアムを訪れたある外国人デザイナーは思いもよらぬ衝撃を受けたとのことで、その経験をブログでつづっています。

An unexpected lesson on Entrepreneurship from a Cup Noodle Museum | colintoh.com

http://colintoh.com/blog/unexpected-entrepreneurship-lesson-cup-noodle-musuem



カップヌードルミュージアムを訪れたコリン・トー氏は、2000以上のウェブサイトに携わってきたウェブデベロッパー/UIデザイナーをつとめる人物。ほんの観光のつもりで、あまり期待もせず訪れたカップヌードルミュージアムでしたが、「人類は麺類」と語った安藤百福氏から貴重な起業家精神を学んだとのこと。その内容に感銘を受けたトー氏は、現地で取ったメモをもとに以下の5つのポイントについてまとめています。

◆1:スタートするのに遅すぎるということはない



By alexxis

まだラーメン事業を立ち上げる前の頃、40歳代後半だった安藤百福氏は事業に失敗し、破産宣告を受けたことがあります。財産のほとんどを失った安藤氏ですが、これを契機に次の事業を画策し始めました。戦後の大阪を歩いていた安藤氏はあるラーメン屋に行列ができているところを発見し、「すぐに食べられるラーメン」なら需要があることに気づき、「インスタントラーメン」の着想に至ったとのこと。その後1年間を費やしてチキンラーメンを発明した安藤氏は48歳にして、世界中のインスタントラーメン産業の創始者となりました。

◆2:行き詰まった時は周りを見渡す



By Michael Kwan (Freelancer)

インスタントラーメンのアイデアを実現させるべく、さまざまな実験を行っていた安藤氏は、インスタントラーメンには不可欠な「麺の脱水」に骨を折っていました。安藤氏は絶望的な状況に追い込まれていたそうですが、ある日安藤氏の妻が野菜の天ぷらを揚げているところを見て、麺を油で揚げる「瞬間油熱乾燥法」と呼ばれる製法を確立。窮地に追い込まれた時は視野が狭くなりがちですが、答えは意外に近くに潜んでいることがあるため、一歩下がって周囲を見渡すことが大切とのこと。

◆3:客が来るのを待ってはいけない



By John

インスタントラーメンは斬新なアイデアでしたが、発売当初のインスタントラーメンは、一般的なラーメンよりも6倍近く高い製造コストを要していたため、非常に高価なものでした。安藤氏が売り込みに行っても「高すぎる」と言われましたが、安藤氏は「まだ製品が成熟していないだけ」と考え、受け身に回ることなく販路の拡大に努めました。調理不要ですぐに食べられるインスタントラーメンを必要とする人が集まる報道局や警察署に対する直接の製品売り込みが功を奏し、当時の日清に膨大な利益を生み出しすことに成功しました。

◆4:成功に甘んじない



By U.S. Army Garrison Japan

日清が創業して1年がたった頃、チキンラーメンは国内外で1300万食を売り上げる大ヒットを記録しており、まさに飛ぶように売れていく状況だったとのこと。安藤氏が48歳にして全財産を失ったことを考えれば、十分な成功を収めていると言えますが、安藤氏はさらに製品の改善を目指しました。当時のインスタントラーメンはビニール袋で包装されたものでしたが、大量のチキンラーメンを出荷していたアメリカを訪問した安藤氏は、アメリカ人が麺をどんぶりではなくカップに入れて、箸の代わりにフォークを使っていることに気付きます。



この経験を生かして、安藤氏は容器とフォークを同時に備えた「カップヌードル」を発明。一度の成功に甘んじることなく製品開発に努めた結果、さらなる巨大な成功へとたどり着いたわけです。

◆5:逆転の発想



By Ivan Lian

世界中から寄せられる注文をさばくために、日清では生産ラインを効率よく稼働させる必要があったのですが、その独特なコーン型のカップが1つのネックとなります。できあがった麺をカップの中に入れる際にうまく位置が定まらず、不良品を多く発生させてしまうという問題が生じていたのです。この解決策として安藤氏が考案したのが、麺をカップに入れるのではなく、カップを麺にかぶせるという文字どおり「逆転の発想」による手法。当時の常識を打ち破るこの製造方法によって、工場での大量生産が可能になりました。

このように、トー氏はカップヌードルミュージアムを訪れたことで、日清のクリエイティブで大胆な戦略の積み重ねが巨大企業の発展につながったことを学び、自分の世代まで続く巨大企業を創業するために必要な労力を知ることができ、優れた洞察力を得ることができたと述べています。なお、安藤氏は91歳の時に「Space Ram(スペース・ラム)」と呼ばれる宇宙食用のラーメンを発明しています。このエピソードからも、トー氏は安藤氏の人生を学んだ上で最も心に残ったのは「人生に遅すぎることはない」という言葉だったと語っています。