【根本陸夫伝〜証言で綴る「球界の革命児」の真実】
連載第25回

証言者・石毛宏典(4)

 1995年のシーズンオフ、現役引退を決心していた石毛宏典は、「オヤジ」と慕う根本陸夫の忠告で翻意。翌年もダイエー(現・ソフトバンク)でプレイすることになった。
 年俸は半減しても1億円。「40歳になって1億円もらって現役を続けることに喜びを感じる」と石毛は公言し、レギュラーを獲るつもりで96年のシーズンに臨んだ。たとえ年齢的にレギュラーは無理でも、根本に言われたとおり、「ベンチからいろいろなものを見て、指導者になるための勉強ができる」と野球への思いを新たにしていた。
 しかし開幕から石毛の出番はほとんどなく、スタメン出場も7月までなかった。8月にはプロ入り初の二軍降格となり、ベンチで野球を学ぶこともできない......。
 結局、18試合の出場に終わった石毛は、シーズンが終わると根本のもとへ出向き、「もう引退してもよろしいでしょうか?」と聞いた。球団専務兼本部長の根本は「いいよ」とだけ答えた。プロ野球で一時代を築いたスタープレイヤーの現役生活は、引退セレモニーも行なわれずに幕を閉じた。当時を振り返って石毛が語る。

■アメリカにはホークスの職員として行って来い

「ダイエーホークスでは1年のつもりが、2年間プレイさせてもらいました。ただ、あまり試合に出る機会もなく終わってしまって......。それで僕は引退したら、パンチョ伊東さんと一緒に、アメリカを回ろう、メジャーリーグを見よう、と思っていたんです。純粋に見てみたいという気持ちと、本場のベースボールを知らずに日本の野球は語れない、という思いもありました」

 野茂英雄が日本球界を飛び出してメジャーリーグに挑戦し、ドジャースで活躍し注目されていた頃だったが、石毛はそれ以前からアメリカ野球に興味を抱いていた。実際に海を渡り、アメリカ人と同じ地に立ち、同じ空気を吸って生活してみれば、どのような国民性と文化、慣習の上にベースボールが生まれたのかわかるはず、と考えていた。そのためにメジャーリーグ通で知られる野球評論家・パンチョ伊東こと伊東一雄の助けを借りるつもりだった。計画が具体化した頃、第二の人生を心配する根本が石毛に尋ねた。

「これからどうすんじゃ?」
「アメリカをうろうろしてきます」
「それはいいな。誰と行くんだ? どうやって回る?」
「パンチョさんと一緒に」
「うん? ちょっと待て。まかりならんぞ」
「えっ、なんでですか?」
「ダイエーホークスの職員として行け。コーチ留学しろ」
「なんでですか? なんでそんなことしないといけないんですか? わけがわからない」
「バカ者! お前な、野球選手は引退すると、だいたい球団から離れるもんだよ。だけども、現場を離れた石毛がダイエーホークスの肩書きを背負ってアメリカにコーチ留学する、というのはひとつの評価だ。普通は、離れたらまったくの他人になるんだけど、球団が引退した選手に肩書きを与えて、給料を出して、勉強させるってことは、石毛、お前に対する評価なんだよ」

 石毛本人としては、肩書きなど一切関係なく、フリーの立場としてアメリカを回りたかった。しかし石毛に指導者の資質を見出していた根本は、あえて自由を取り上げ、肩書きを与えてコーチ留学させようとしたのだ。

 この「評価」については、西武時代の石毛が、チームリーダーという肩書きに疑問を感じた時と通じている。根本は悩む石毛に対し、「チームリーダーというのはありがたい評価だ。評価はときに窮屈なものだが、そういう窮屈さを感じて生きていくのが大人の社会なのだ」と言って諭(さと)した。選手だった当時はその言葉の意味がわからなかった石毛も、引退して間もないこの時には、徐々にわかり始めていたという。

「オヤジの言うことも一理あるなと思って、『わかりました。じゃあ、お願いします』と。それで僕は、〈ダイエーホークス・オーナー付〉という肩書きの名刺を作ってもらったんです。根本さん曰く『この名刺を持って回れば、石毛は引退してもダイエーの職員であって、球団がちゃんと面倒を見ている。それだけの人物だということを知ってくれる。そういう評価があるということも知っておけ』と。やっぱり当時、看板を外れるとどうなるかわからんぞ、という思いはあったので、この評価はありがたかったです」

 コーチ留学は1997年の2月から始まった。家族とともに渡米した石毛はドジャース傘下のマイナー球団に所属し、4月、5月はメジャーリーグのドジャースに帯同。野茂とも間近に接した後、6月からマイナーの3A、2A、1Aと見て回った。2Aでは実際に打撃指導も行なった。そして、メジャーのシーズンが終わると、ドミニカ共和国のベースボールアカデミーも見学。精力的に勉強を続け、最終的には「マイナーリーグでコーチをやらないか?」と誘われるまでになったが、10月、石毛のもとにダイエー球団から電話が入った。翌98年からの二軍監督就任の要請だった。

■とにかくNHKに行け!

「アメリカで見てきたものを、二軍監督として生かそう。そう思って、やっていました。でも、僕のやり方が気に入らなかったんでしょうね。チームから『もうクビだ!』と。監督になって1年目の10月、二軍のスケジュールがすべて終わり、宮崎で教育リーグが始まるところでした。その2、3日前に休みがあった時、僕は家族を連れて熊本の阿蘇プリンスホテルにいたんですが、根本さんから電話が入ったんです。『帰って来い、話がある』って言われてピンと来ましてね」

 電撃的に、事実上の解任が発表された。当時の週刊誌は、石毛解任の理由として〈ジャンケンやくじ引きなどで打順を決めた〉ことを書き立てた。だが、本人によれば、事の真相はまるで違っている。

 石毛の考えは、二軍での打順は一軍に通用する打順ではないから何番でも関係ない、というものだ。たとえば、二軍の4番打者も、一軍に上がるとまず控え要員。バントを命じられて失敗したら、また二軍に落とされてしまう。ならば、4番でもたまには1番、2番で出場してバントすればいい。そうして、バントひとつ確実に決められるようになって初めて、一軍定着の道が開ける。定着すれば、本来の打撃で勝負できるかもしれない。

 当然、この考えは二軍の選手たちに説明され、受け入れられていた。本人は「やり方が気に入らなかったんでしょう」と言うが、その「やり方」とは、実は現場における石毛の指導方針ではなかった。

「当時、球団の管理部長をやられていた方に呼ばれて、『今後、ホークスはどうしたら強いチームになれるか、忌憚(きたん)のない意見を聞かせてほしい』と言われました。そこで言わせてもらったのは、『僕が育ってきた西武のやり方を見ると、まず根本陸夫さんが素材のいい選手を集めて、きっちり技術指導できる監督・広岡達朗さんを呼んでスキルアップを図り、次にマネジメントをしていました。そういう面では若干、ホークスは編成の面でまだ足りないかもわかりませんね』という話です。なぜかこの意見が原因となって、『石毛は要らん』ということになったみたいです」

 管理部長は石毛の意見をレポートにまとめ、中内正オーナー代行のところに上げたらしい。すると「うちの編成にケチをつけている」という印象を持たれ、球団批判とみなされた。それなりの肩書きのある人間と一対一で面会して「忌憚のない意見」を求められ、建設的な意見を述べたにも関わらず、解任されてしまう異常事態。いつクビになってもおかしくない世界ゆえ、冷静に受け入れた石毛だったが、当然、簡単には納得できなかった。

「僕自身、確かに、将来はホークスの監督をやりたいと思うところはあったし、縁あってホークスのユニフォームを着たのだから、純粋な気持ちで強くなってほしいと思って意見を言ったまでです。だから、僕の意見を上に上げる時にどう脚色されたにせよ、自分がクビになるのはいいんですよ。でも、上に上げた管理部長。これからこの人が中心になってホークスを作っていくのかと思ったら、その人も一緒にクビになったんです。『えつ、組織ってそんなもんか?』って思いました。なんでオレはこの人に忌憚のない意見を言ったんだろうって」

 この頃のダイエーは球団社長が交代したり、フロントの人間が異動になったり、ゴタゴタが続いていた。そんな中で石毛は退団することになったのみならず、球団社長の村上弘から「将来的にも復帰はない」と断言されるほど、反感を買ってしまっていた。根本が「お前、なにしゃべったんだ?」と聞いてきた。石毛が話の概略を説明すると、根本は「あっ、それか」と言って続けた。

「それ以外にしゃべったことは?」
「なにもないです」
「そうか。じゃあ、わかった。クビじゃ」
「わかりました。それじゃ、帰りますわ」
「ちょっと待て。どうすんだ?」
「考えますよ、これから」
「お前、NHKに行け」
「えっ、NHKですか? なんでなんですか?」
「いいから、とにかくNHKに行け!」

 すでに根本は、石毛の退団を見越し、次の仕事に当たりをつけていた。「もし解説するなら、仲のいいパンチョ伊東がいるフジテレビがいい」と思っていた石毛に対し、根本は「NHK」の一点張りだった。

つづく

(=敬称略)

高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki