柏原竜二に学ぶ「絶対あきらめない心」【3】
4年生はキャプテンとして過ごしたが、「キャプテンらしくないキャプテン」だったという。4年生のメンバーに役割分担してもらいつつ、まずは自分が練習に集中することを心がけた。
一番得たものは「人間観察力」。部員への目配りをしていると、ああ彼はこう思っているんだ、こういう行動パターンを取るんだ、ということがわかってくる。人間を知ることはまた、走ることにおいてもプラスに働いた。
ひそかに出雲、全日本、箱根の三大駅伝の制覇を狙っていた。出雲を勝って全日本へと向かう。柏原はアンカー。トップを行く駒澤大の選手を追い上げ、猛追した。最後の2、3キロはふらふらの状態で、意識をつなぎとめるのがやっとという状態だった。
「僕は自分を追い込んで力が出るタイプ。才能で走るランナーじゃない。でも、才能で劣るから勝てないという言葉では片付けたくない。だから絶望的なタイム差があってもどこまでももがいてやろうと思いますし、才能のある奴を打ち負かしたく思う」
限界領域での頑張りはまた、チームを率いるキャプテンとしての責任感でもあったろう。
そして迎えた箱根駅伝。下馬評は、東洋大は駒澤大、早大に次いで3番手だった。メンバー各自の5000、1万メートルの持ちタイムの合算では駒澤大が抜けている。ただし、時計の速さイコール強さではない。
12年1月2日。柏原は4年目にしてはじめて、4区のランナーからトップでタスキを手渡された。レース前、チームメートは柏原にトップでタスキを渡すと明言していた。それが実現した。前を走る者がいない駅伝。鳥肌がたつような感触を覚えつつ、じっと気持ちを押し殺して走っていた。1時間16分台の区間新を記録しつつゴールインした。
翌日の往路。6区のランナーは5分余の時間差をもらってスタートする。各ランナーたちは貯金を増やしつつ走り切る。1年前の雪辱をとげる完勝の箱根駅伝だった。
本命の駒澤大は2位。チームの勝因に、柏原は酒井俊幸監督の選手起用をあげる。3区(戸塚〜平塚)は山本憲ニ、7区(小田原〜平塚)は設楽悠太が起用されたが、事前予想からいえば逆だった。区の特性と選手の持ち味を生かす発想だった。
大学の4年間。振り返っていえば、山あり谷ありの年月であったが、こと箱根駅伝ではパーフェクトに近い結果を残した。あらためて、ここ一番の強さ、加えて運を持ったランナーであることを思う。
卒業後、柏原は富士通へ入社する。近年のオリンピック、富士通の陸上競技部からは多くの選手が日本代表に選ばれている。逸材はよき環境のもとで育つものだ。今後、どれほどのランナーに成長していくのか、楽しみである。
オリンピックの長距離といえばマラソンを浮かべるが、柏原は「未知の世にどんどん挑戦していきたい。1万、5000、マラソンという種目にとらわれずにやっていきたいですね。自力をつければどこでもやっていけると思いますから」と口にする。
私は『マラソンランナー』という拙著で、日本が生んだ歴代のランナーたちの列伝を綴ったことがある。戦前、一時代をつくった金栗四三、孫基禎から、戦後の名ランナーである君原健二、瀬古利彦、谷口浩美ら、そして女子マラソン時代の扉を開けた有森裕子、高橋尚子に登場してもらった。彼らが刻んだレースの足跡をたどることは日本人の精神史をたどることでもあった。
近年でいえば、女子に比べ男子はややさびしい。学生時代、駅伝で実績を残しつつ、マラソンでは花開かなかった選手、怪我で夢破れた選手も少なくない。未来は未知というほかにないが、一流のマラソンランナーはすべて「気と運」、そして「自分の言葉」を持っていた。この条件に柏原はあてはまる。そして、従来のランナーたちとはひと味異なる新世代であるようにも思える。
マスコミ関係者のなかでは、柏原はマラソンに向いていない、という声もある。
「ええ、知っていますよ。そんな記事も目にしました。でもまあ、いまに見とけよということです」
その言やよしだ。好きな言葉は「夢はきっとかなう」。より大きな舞台で、夢かなうときを期待を込めて待ちたいと思う。
※すべて雑誌掲載当時
