その名は今も生きる 「ビッグスリー」に挑んだ米国有数の自動車メーカー カイザー・フレイザーの栄枯盛衰(後編) 後世に残した功績
ヘンリーJの活躍と没落
『メカニックス・イラストレイテッド』誌のトム・マッカヒル記者はヘンリーJについて、皮肉を込めて「若くして煙草を吸い始めたキャデラック」のようだと評している。ボディスタイルは2ドア・セダンのみで、4気筒または6気筒エンジンが用意された。販売は当初好調で、1951年モデルイヤーには8万2000台が売れた。しかし、1952年の生産台数は約3万台に落ち込み、1953年にはわずか1万6672台にとどまった。
【画像】カイザーの最後期を飾った個性派スポーツカー【カイザー・ダーリンを詳しく見る】 全24枚

ヘンリーJの活躍と没落
貧しい人々のためのクルマ
ヘンリーJは米国市場においてはあまりにも小さすぎ、また質素すぎた。トランクリッドもグローブボックスもなく、自動車用エアコンが初めて導入されようとしていた時代に、換気システムさえも備えていなかった。カイザー氏が長年抱いていた「高品質で低価格なクルマ」という夢の実現のために生まれたものの、その小さなサイズ、非力なエンジン、そして質素な内装(写真)は、コメディアンたちの笑いものとなった。貧しい人々のための安っぽい小さなクルマとして知られるようになり、その結果、貧しい人々でさえも欲しがらなくなった。
公式には1954年モデルが存在するが、生産された1123台は、1953年モデルの在庫をシリアル番号を変更して再販売したものに過ぎない。その後、ヘンリーJは生産中止となった。確かに安価だったが、開発費は高くつき、会社の資金を枯渇させた。

貧しい人々のためのクルマ
奇抜なカイザー・ダーリン
上級モデルにも問題はあった。1951年モデルは14万台以上生産されたが、1952年モデルはわずか3万2000台、1953年モデルも同程度の台数にとどまった。1954年に導入されたカイザー・ダーリンというスポーツカーも損失を食い止めることはできず、生産台数はわずか435台。ちなみに、カイザー・ダーリンはフロントフェンダーにスライドして収納するユニークなドアを特徴とする。
致命的な打撃を受けたカイザーブランドは、欧州風の洗練されたデザインを導入したにもかかわらず、1954年に消滅した。残りのボディや部品を使い切るために、1955年モデルが少数生産されている。

奇抜なカイザー・ダーリン
ウィリス・ジープとの関係
ヘンリー・カイザー氏は、自身の自動車会社が破綻に向かっていることを悟ると、ウィリスやジープを生産する黒字企業ウィリス・オーバーランドの買収を決めた。カイザー・フレイザーの繰越欠損金をウィリス・オーバーランドの利益に充当すれば、投資額を迅速に回収できると考えたのだ。最終的に、6000万ドルでウィリス・オーバーランドの資産を買収。カイザーの生産拠点はミシガン州から、オハイオ州トレドにあるウィリスの工場(写真)へと移された。

ウィリス・ジープとの関係
ウィロー・ランの売却
1953年12月、カイザーは前述のウィロー・ランを2600万ドルでゼネラルモーターズに売却した。ゼネラルモーターズはこの拠点を2010年まで使用し、オートマティック・トランスミッションや、一時期はM16小銃のような兵器も生産していた。
1955年末、カイザーとヘンリーJ、そしてウィリスは姿を消した。カイザーの自動車事業はジープ専業体制へと移行したが、これは結果的に賢明な判断であった。

ウィロー・ランの売却
アルゼンチンへの進出
しかし、カイザー車の歴史はこれで完全に終わったわけではない。1960年、ヘンリー・カイザー氏は古い金型を用いてアルゼンチンでセダンを生産する契約を結んだ。そしてアルゼンチン市場向けにカイザー・カラベラを生産するために、インダストリアス・カイザー・アルゼンティーナ(IKA)という合弁会社を設立。アルゼンチンで初めて本格的に自動車生産が行われることになった。カイザー車は最終的に、より近代的なモデルに取って代わられた。

アルゼンチンへの進出
自動車事業の終焉
結局、カイザー・フレイザー氏は70万台以上の自動車を生産し、「デトロイトへの最後の猛攻」として知られるようになった。これは決して小さな成果ではないが、他の多くの企業と同様、ビッグスリーのスケールメリットと競争するのは困難だった。販売網が不十分だった上、カイザー氏が建設業界から引き抜いた経営陣の中には、競争と変化の激しい自動車業界についていけない人もいた。
全盛期の広告(写真)では幅広いモデルラインナップが謳われていたが、実際には限られたテーマに基づく派生モデルが中心であり、ゼネラルモーターズのような多ブランド・多モデル展開とは比べ物にならない。

自動車事業の終焉
忘れられつつある2人の偉人
ジョセフ・フレイザー氏は1971年、79歳で死去した。ヘンリー・ジョン・カイザー氏(写真)は1967年8月、ホノルルで85歳で死去し、その後、彼の家族は自動車事業からの撤退を決断。1970年にカイザー・ジープをAMCに売却した。大規模な建設プロジェクトにおける彼の役割、戦時中の組織運営能力、そしてデトロイトに挑んだ努力を考慮すれば、今日、もう少し広く知られていてもおかしくない人物である。

忘れられつつある2人の偉人
船に残る「カイザー」の名
カイザー氏の名は、米海軍の給油艦18隻からなる艦級として今も生き続けている。『ヘンリー・J・カイザー級』である。その1番艦は彼の名を冠したネームシップで、写真に写っているのは、ニミッツ級空母『USSエイブラハム・リンカーン』への給油作業の様子だ。空母は原子力推進なので、これは搭載されている航空機向けの燃料である。

船に残る「カイザー」の名
医療業界への貢献
カイザー氏の名は、カイザー・パーマネンテという大手医療企業にも受け継がれている。これはカイザー氏が1930年代に従業員への支援を目的に設立した組織で、1945年からは一般市民にもサービスを提供するようになった。本稿執筆時点で、同社は39の病院と700の診療所を運営し、約30万人を雇用している。2023年10月、人員配置に抗議して多数の職員がストライキを行ったことで、ニュースでも大きく取り上げられた。
では、ヘンリー・カイザー氏自身についてはどうだろうか。彼は確かに気まぐれな人物だが、これは自力で成功した億万長者にとって、欠点というよりむしろ長所と言えるだろう。結局のところ、彼は善良な人物だったようで、晩年にはこう語っている。「わたしがこの世を去った後、人々はダムや船のことを忘れてしまうかもしれない。しかし、痛みや苦しみを和らげる医療の恩恵だけは決して忘れないだろう」

医療業界への貢献
現在のカイザー・フレイザー
カイザー・フレイザーのオーナーズクラブは活発に活動しており、SNSグループも賑わっている。多くのオーナーたちが情報やアドバイスを交換し合っているのだ。もし彼らの仲間に加わりたいなら、最も売れた主流モデルを選ぶのが手頃な方法だ。1951年式カイザー・デラックスは、現在約1万2000ドル(約190万円)で取引されている。より希少な1954年式カイザー(写真)は、同シリーズの最終モデルであり、現存する車両の中でも特に人気が高い。
一方、カイザー・ダーリンは非常に高価だ。錆びないファイバーグラス製ボディ、奇抜な外観、そして生産台数が少なかったことがその理由だ。状態の良いものは10万ドル(約1560万円)以上で取引されており、2016年には初期モデルがオークションで20万ドル(約3130万円)で落札された。ただ、走行性能は期待しないほうがいい。直列6気筒エンジンの最高出力は90psで、0-97km/h加速に15秒を要し、最高速度は約150km/hにとどまる。だが、これほどユニークなクルマも珍しい。
著者紹介

現在のカイザー・フレイザー
ライターのパトリック・フォスター(Patrick Foster)は、30年以上にわたり自動車産業のさまざまな側面を研究し、米国のクラシックカー雑誌の多くに寄稿してきた。著書には『13 Lost Car Legends- America’s Independent Car Companies 1945〜1985』などがある。
