関根 元

写真拡大

【前編(全2回)】

 遺体は風呂場で解体、骨は高温で粉にする……。埼玉県で1993年、愛犬家ら4人が相次いで殺害された事件で、殺人や死体損壊遺棄などで死刑が確定した関根元・死刑囚が東京拘置所で死亡してから9年あまり。「第一の殺人」が起きたとされるのは33年前の4月20日だった。戦後日本における最大級の殺人犯である関根、その妻である風間博子という死刑囚を親に育った二人の子どもA男とB子自身が語った関根の異常な素顔については、後編に詳しいが、前編では関根らの逮捕後、残された子どもたちを待ち受けていた想像を絶する苦難について報じる。子どもたちが自身の言葉で語った「死刑囚の子ども」としての人生とは……。ノンフィクションライター、深笛義也氏による渾身のレポートである(以下、「新潮45」2016年2月号をもとに加筆・修正しました。年齢などは執筆時のものです)。

関根 元

 ***

【実際の写真】死体をサイコロステーキのように刻んで… “血の海”と化した「解体現場」

「お袋は逮捕されるのが分かってた」

 1995年1月5日、関根と風間が逮捕される。小学3年生になっていた実娘B子は、ペットショップで関根と共に死刑囚となった風間と一緒にいた。

「その前から、警察とかマスコミは来てたんで、その日も普通に来たという感じでした。私、逮捕というのが分からなくて、ただ連れてかれちゃうって思った。警察の人は『すぐ帰ってくるから』って言うし、お母さんも『大丈夫だから』って言うけど、何が何だか分からなくて……。おばあちゃん(風間の母親)が迎えに来てくれて、夜ニュースを見ても最初は意味が分からなかった。もう一度ニュースで見た時に泣きました」

 風間の連れ子A男は、成田空港から離陸する飛行機の中にいた。中学を卒業した後、前年の10月からアメリカのカリフォルニア州デイビスの学校に留学していた。正月を実家で過ごし、再び渡米するところだった。

「後から聞いたんですけど、お袋は逮捕されるのが分かってたらしい。それで逮捕の時間を、自分が飛行機に乗った後にしてくれって頼んだらしいんです。張り付いてた警察の人に言ったのか、どうやったのかは分からないですけど。自分が戻ってこられないように、そうしたって聞きました。実際、逮捕の時間は、自分が乗った飛行機が飛び立ってすぐなんですよ。確かに、その前にニュース聞いちゃったら、飛行機乗らないで戻って来ちゃったでしょうからね」

 一方、関根は前年に江南町(現在は熊谷市に合併)に新築した自宅兼犬舎で、一人でいるところを逮捕された。前年5月より、ここで関根と風間は同居を再開していた。

 関根らの共犯者男性のXは、1月8日に逮捕された。

変わらない友人

 A男は、3カ月ほどでアメリカから戻ってきて、いったんは親のいなくなった自宅に身を落ち着けた。風間が最も信頼していた元従業員と一緒に、残された犬たちの面倒を見るためだった。

「知り合いのつてをたどりながら、ディスカウントショップで働いたり、鳶(とび)とか型枠大工とかいろいろやりましたね。親のこと言われて嫌んなったり、遊びの方に走って辞めちゃったこともあります。大叔母さん(風間の叔母)のところに世話になったり、入った寮を仕事辞めて出て、友達のところにやっかいになったり、住むところも転々としてましたね」

 親の事件のことを知っても、変わらず付き合ってくれる友人がいるので、熊谷から遠くには離れたくなかったという。

「やっぱり隠さなきゃいけない」

 B子は風間の母親と一緒に、東京郊外の風間の妹の家に身を寄せた。

「高校生の時、お付き合いを始めた方に、母の話をしたことがあります。すると、『人間は一度罪を犯したら、立ち直れないんだ』って言われた。私も事件のことをよく知っているわけでもなく、だから、その人が信じてくれるわけもないんだけど、受け入れてはもらえないんだなあって感じました。だからもうそれからは、仲の良い友達にも話せませんでした。高校を卒業して、福祉系の専門学校に進んだんです。この人なら分かってくれるかもしれないって人がいて、母のことを話しました。その人は自分の父親に話して、母が主犯格だ、って言われたらしくて、違うよっていくら説明しても分かってもらえなかった。やっぱり隠さなきゃいけないって、強く思いました」

 B子はたまたま、Xの手記が載った週刊誌を目にしたこともあった。そこには、風間が演歌を口ずさみながら遺体を切り刻んでいた、と書かれていた。これだから、周りの誰も事件のことを教えてくれないのだ、と心を閉ざした。

「人も殺してないのに、何で死刑判決出んの?」

 2001年、浦和地裁で関根と風間に、殺人と死体損壊遺棄で死刑判決が下った。05年には、東京高裁で控訴棄却となり死刑判決が踏襲された。

 専門学校を卒業して、介護の道に進んだB子は、事件のことを自ら調べ始めた。

「博子さんは無実だと思います」

「人も殺してないのに、何で死刑判決出んの?」

 公判記録をたぐっていて、証人として出廷したXが、そう発言しているのに出くわした。Xの供述により、風間博子は殺人罪で起訴されたのだが、その本人が後の裁判では否定しているのだ。B子の心の扉が開いた。風間が演歌を歌いながら遺体を解体したというのも、事実ではないとXは法廷で明かしていた。

風間の主張

 風間自身は、逮捕から一貫して、殺人については否認してきた。だが、全面無罪を主張しているわけではない。

 2件目の事件のあった7月21日、「今夜、『第二の殺人の被害者』んちに行ってるから、10時ごろ迎えに来てくれ」と関根に言われ、風間はクレフを運転して現場に行き犯行時に居合わせてしまったという。その恐怖から関根に命じられるまま、2人の遺体を載せた車を運転。死体解体の一部も手伝ってしまった。これが死体損壊遺棄にあたることは、風間自身も認めている。

 7月21日は、数十万人でにぎわう熊谷のうちわ祭りの最中であった。事件のあった93年、中学3年生のA男は、屋台でたこ焼きを焼くバイトをしていた。

「友達の親が露天商をやっていて、中学2年の時は売るのを手伝っただけ。中学3年の時、お客さんに出すたこ焼きを初めて焼いたんです。うちわ祭りは、7月の20、21、22って毎年決まっていて、初日は、お店は出せない。初めて自分で作らせてもらって持って帰ったんで、21日と分かるんです」

 午後10時ごろ、第二の殺人の被害者の家に出かける前の風間と一緒にA男は、持ち帰ったたこ焼きを食べていた。

「一回だけ出させてくれ」と頭を下げて

 一方で、関根やXが供述し判決も認めたのは、風間も含めた三人でカリーナバンで、第二の殺人の被害者の自宅に行ったという内容だ。

「三人で一緒に行ったっていうなら、お袋と自分で、たこ焼き食べるのはできないから、それはないと思うんですよね。自分、すぐに寝ちゃったんで、その後何してたかは分かんないですけど」

 A男は裁判にも出廷して証言した。事件から7年がたっていた。その後離婚に至るが、その時は結婚していた。

「結婚する時、彼女の家の方から、親と縁を切ってくれって言われたんですよ。どこでどうバレて、子供がいじめられるか分かんないからって。分かりました、って、婿になって、向こうの姓を名乗りました。裁判の証人も、向こうの親からはやめてくれって言われたんですけど、一回だけでいいから出させてくれって頭を下げて行ったんです」

 だが、身内ということもあり、A男の証言は判決では退けられた。

 ***

 両親が共に死刑囚となった子ども二人の人生は、生易しいものではなかったようだ。後編では、その後成人した娘が収監された父とやりとりする中で見た“二面性”について明かす。

深笛義也(ふかぶえ・よしなり) ノンフィクションライター
1959年東京都生まれ。「週刊新潮」に「黒い報告書」を80本以上書いてきた他、ノンフィクションも多数執筆。著書に『エロか?革命か?それが問題だ!』『女性死刑囚』『労働貴族』などがある。2017年、本記事をもとにした書き下ろし『罠』(サイゾー)を刊行した。

デイリー新潮編集部