哲学者・千葉雅也さん『センスの哲学』が2024年4月の刊行以来、ロングセラーとなり、累計部数10万部を突破した。『勉強の哲学』(文春文庫)、『現代思想入門』(講談社現代新書)に連なる哲学三部作のラストを飾る一冊であり、新帯に寄せられた村上信五さんの推薦文「センスってリズムなんや!?」とあるように、「リズム」を手がかりにセンスとは何かを語っている。

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 10万部突破を記念して、2024年12月8日に東京大学駒場キャンパスで行われたシンポジウム「芸術制作とリズム 千葉雅也『センスの哲学』から出発して」(主催:科研費プロジェクト「『一般リズム学』を地平とする統合的思想史の構築」)での講演を紹介する。

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『センスの哲学』における「リズム」とドゥルーズとChatGPT

「リズム」を抽象的な概念として捉えるような見方は、僕が駒場にいたころからよく耳にしていました。今も引き継がれて研究が行われているんだなと感じますし、自分自身も、そういう土壌から『センスの哲学』を書いたということになると思います。


『センスの哲学』(文藝春秋)

 この本では「リズム」という概念をかなり広く捉えています。

 たとえば空間的に形の凸凹に着目したり、時間的に何かが展開したり、強い刺激と弱い刺激が交代するような質的なプラス/マイナスもリズムと捉え、それが一定のエンティティ(存在)または作品をなすと考えています。

 発想としては古代ギリシャ語の「リュトモス」から来ていて、この言葉を調べると「形、形態、ものの並びや配置、バランス」のような意味合いがある。「エコノミー」という言葉の多義性と近いようにも思いますが、自分にとっては一九九九年に出たピエール・ソヴァネ『ギリシアのリズム』という本がきっかけの一つです。一般的には音楽のイメージが強く、時間的な展開があるものについて使われがちな「リズム」という語を、『センスの哲学』では何らかのパラメータの差異と反復による構築一般を指すものとして扱っています。ここでのリズムが展開されるフィールドは、まず時空ですけれども、そこでさまざまなパラメータの多次元にまたがる差異と反復を考える。

 単純に時間的展開だけではないもの、たとえば昨今のAIで言葉の意味や画像などを扱う時に、非常に多次元の情報としてそれを捉えるわけですが、そういった領域で展開されるものもリズムといえる。ドゥルーズは、物事が多数の次元でできていることを「多様体」という数学用語を借りて言っていますが、今日のChatGPTなどもそういう考え方と近いわけです。

リズムを多次元にまたがる凹凸として捉える=センスのゼロ度へ導く

 ともかく『センスの哲学』では、そういった「多次元にまたがる凸凹」という非常に広くて抽象的な意味でリズムを捉えています。そこでまずは物事をすべて、多次元にまたがる凸凹として即物的に捉えることをセンスのゼロ度として設定しています。そこに誘うだけでも十分だと考えたわけです。

 ところが、それは教育的課題としてはなかなか難しいことでもある。というのも多くの場合、どんな作品を見ても、そこに何の意味があるのかという目的や機能性、道具性に引き付けられがちであるからです。人間は利害関心に基づいて物を見るのが通常なわけで、それを即物的に、どういう形で、どういうリズムなのかと引いて見ることは難しい。利害=関心、つまりインタレストで物を見ることがインタレスティング(面白い)ということにつながるわけです。

 このように言葉をつなげていくと、哲学史や現代思想などいろんなことが芋づる式に出てくる。道具的ではない、ただの物、脱意味的な存在というのは、ハイデガーの『存在と時間』で言われています。つまりリズム的次元における物を見ようとしたのがハイデガーの存在論であるという捉え方もできるでしょう。こういった「それ自体」という指向性は、いわゆるモダニズムの一般的特徴であり、初期の抽象芸術は、まさにそれをやろうとしたわけです。また現代音楽においては、それまで短調・長調・和声などによって感情的なドラマトゥルギーを展開させる調性音楽を脱臼させて、すべてをただの配列にしていった。

 自分にとっては、視覚、聴覚、味覚といった区別を超えて、どれもが凸凹という意味では共通だと捉えるような感覚は、子供の頃から自然なものとしてあったと思います。たとえば視覚的な形態が、ある種の音楽のようだと思うことを特殊な感覚であるかのように「共感覚」と言われたりしますが、いわゆるマルチモーダルな経験は基本的に誰にでもあると思っているので、あまりこの言葉には納得していません。ただ、その意識化が難しいのかもしれません。

自分のベースは美術なのか音楽なのか、言語活動なのか?

 自分の経験を振り返って、最も自分のベースにあるのは何かと考えることがあります。美術なのか音楽なのか、はたまた言語活動なのか。そのどれでもあるとも思う。両親は二人とも美術系の学校を出ていて、父親が広告代理店をやっていて印刷の版下なんかを見て育っているので、視覚的配置、アレンジメントの感覚が強いんですね。喋るときの即興性や間の取り方にもそれが関係していて、そういうことが感覚の空間的な操作にもつながっています。

 映像編集なども少しやりますが、別に特別なこととは思ってなくて、たとえば紙の配置で、あるところに凝集した部分があり、あるところは非常にスカスカといったようなバランスと、ある映像の持続をどのようにカットするかは、同じことだと思うわけです。

 今「カット」という言葉を使いましたが、僕の感覚はやはり音楽的なのかもしれません。以前、坂口恭平さんと話していて「千葉さんはやっぱり音楽だし、メロディーだと思う」と指摘されたんですよね。たしかにピアノを弾くことと文章をキーボードで打つことは、まず動作として関連している。一人でパソコンに向かって文章を打ちながら試行錯誤しているときも、小さく声を出していることが多いですし、ただ固定姿勢でやっているわけではなく動いている。皆さんも仕事をしているときに案外そうだと思うんですね。なにか非常に微弱なワーキングソングまたはダンスをおそらくやっている。

生成AI元年と言葉のくじ引き 偶然性の哲学にこだわる理由

 二〇二三年は生成AI元年であり、AIは重要なことを問いかけていると思っています。以前、自分で用意した辞書データから、ただのランダム関数で言葉を選び散文詩のようなものを生成するプログラムを作ってみたんです。Maxという音楽用のアプリケーション環境で作り、Pythonで書き直したものですが、実は小説を書くための前準備としてそれをやっていました。自分自身から出てくるナラティブではなく、言葉が言葉として即物的に出てくるような状況を作ってみたかったからですが、そのアウトプットがなかなか面白いんです。

 ちょっとそのプログラムを動かしてみましょう。

〈広がりという尖った空席、判断ならば真夜中の風、期待という真夜中の運動、計算のような逆さまの運動〉

 こんなふうに、なかなかいい感じに出てくるんですね(笑)。一九二〇年代のダダと同じようなものです。このプログラムの仕組みとしては、四つのボックスに、くじ引きで単語を並べているだけです。それに音が出るユニットを組み合わせると、詩を生成しながら同時に音を出すみたいなプログラムも作れます。今紹介したプログラムは本当に原始的な仕組みですが、もう少し複雑なプログラムだと次のようなものが生成されます。

〈その時には青い窓であるというまた朝ではなく。僕が玄関、あるいはまた朝を投げた。ここまではそれとそっくりの一つひとつから耳元を届けようとする。ここまではそれとそっくりの朝は確定された関節の理由は囲んでいる。それからそれとそっくりの夜明けから距離をまっすぐに。明日、口腔までは歯を歌う〉

 こうしたものも、思いを込めて読むとそれらしくなりますね(笑)。実際、こういったものが前衛だった時代があって、僕は好きなんですね。メイヤスーを翻訳したり、偶然性の哲学にこだわるのは、戦間期の偶然性の試みに影響を受けているからだと思います。

言葉のネットワークを強度の差異で捉える

 こんなことを『デッドライン』を書く前にやっていて、それで自分の実存ということの偶然性と、身も蓋もない偶然性がつながった感覚を得たんですね。それから修士課程のことをベースにしたものとして小説を書こうという決心が、翌年にふっと湧いてきたんです。それで二ヶ月ぐらいで一気呵成に書いたという経緯になります。

 話を戻すと、先ほどのものは本当に単純なくじ引きですが、もうすこし言葉の意味を計算することも実験しました。word2Vecという自然言語処理技術があって、そこでは単語の意味も、たとえばウィキペディア全体のなかでリンゴという言葉とテーブルという言葉が、どれくらい使用頻度として近い距離にあるかを、多次元のパラメータで測り、それをもって「意味」を定義づけしている。つまり意味を脱意味化している。これをドゥルーズの言葉で言えば、まさに強度の差異で捉えているということです。つまり物事を複数のパラメータの強弱による、多次元的な強度の差異として捉えているということになる。実際にそれは多次元のベクトルで表されるわけです。

 質的存在を量的に表す、つまりどういうエンティティとして捉えるかというときに、高次元のベクトルとして表すわけです。そう考えたらすべてが高次元のベクトルになる。基本的にはChatGPTなどでは、データの塊のなかの言葉のつながりも、ただの距離関係で把握している。つまりそれは単なる脱意味的な凸凹でもあるわけです。言葉のネットワークを強度の差異で捉えることは、あくまで膨大な用例のなかで言葉同士がどういう距離関係にあるかということなので、語用論(pragmatics)の議論と接続するでしょう。面白いのは、言葉の定義が純粋に実践的に捉えられているにもかかわらず、それによって決定的に脱意味化している、ということです。

 ある意味、後期ウィトゲンシュタイン的な言語観、すなわち言葉の意味は用法(どう使われるか)であるという言語観が、ハイデガー的な道具的ならざる存在と一致してしまうような奇妙なメビウスの輪がここで生じている。それがChatGPTで行われていることとも言えるでしょうし、さまざまな議論に展開することができるでしょう。

 以上を踏まえると「一般リズムとは、多次元にまたがる凸凹、すなわち強度の差異であり、それはそこから意味が発生する意味以前の事態である」と定義できるでしょう。ちなみにこれをChatGPTに英訳させてみると、「General rhythm refers to bounciness, unevenness, or differences in intensity across multiple dimensions. It represents a pre-meaning configuration from which meaning emerges.」となりました。「configuration」という単語は僕が好きなので入れたのですが、こうすると人間の温かみが少し差し挟まれるのではないでしょうか(笑)。というわけで、僕の話はこのぐらいにさせていただきたいと思います。

(本記事掲載の『Jodo Journal』第7号は2026年5月上旬刊行予定https://jodofukugoh.com/news/2024/03/17/1252/)

(千葉 雅也/ライフスタイル出版)