大会の分岐点とも言えるファウルだった。もしエリック・フレデリクソン主審が反則に気づいていたら、ソ連にPKが与えられ、決定機阻止のマラドーナにはレッドカードが出ていたはずだ。ところが「神の手」は再び看過され、アルゼンチンはソ連を2-0で下してR16へと生き残る。開幕戦で金星を献上したアルゼンチンは、その後マラドーナの神通力と幸運を味方に、今度は次々に番狂わせを起こしていくのだった。

 大会前年には「ベルリンの壁」が崩壊したので、フランツ・ベッケンバウアー監督と西ドイツにとっては、これが最後のワールドカップだった。2年前に地元開催の欧州選手権準決勝でオランダに敗れ、必ずしも西ドイツは大本命ではなかった。しかも初戦の相手は、タレントの宝庫だったユーゴスラビア。最大限に危機感を募らせ「この試合にピークを持ってきた」とギド・ブッフバルトは振り返る。

 序盤から飛ばす西ドイツは、この大会で10番を背負いキャプテンを任されたローター・マテウスが左右の足で鮮やかに2ゴールするなど、4-1で快勝。チーム内の不安げな空気は一掃され「これならどことやっても勝てるぞ」とテンションが上がったという。

 逆に分裂前のユーゴスラビアは、イビチャ・オシム監督にメンバー選考を巡り多大なプレッシャーが押し寄せていた。それなら、と腹を括ったオシムは、西ドイツ戦を「敢えてメディアが望むスターたちを並べてみせた」そうである。重要な短期決戦で真偽は測りかねるが、とにかくオシムは2戦目から軌道修正を施し、グループDで2位通過を果たすのだった。
 
 ロケットスタートでGLを悠々と1位通過をした西ドイツを待っていたのは、またも宿命のライバル、オランダだった。フーリガン問題が最高潮の時代で、悪名高きイングランドがサルジニア島への隔離のためにシードされ、オランダも同じグループに組み込まれた。

 2年前の欧州王者は、ルート・フリットが2度の手術から辛うじて大会に滑り込むが、88年、89年と連続してバロンドールを受賞したマルコ・ファンバステンとともに完調にはほど遠く、GLは3試合ともにドロー。得失点差、当該対決ともにアイルランドと並び、抽選の末に因縁深い相手との再戦になった。

 西ドイツのベッケンバウアー監督は、6人のDFを起用して用心深く試合に入った。事件が起きたのは22分だった。欧州王者ミランのオランダトリオのひとり、フランク・ライカールトが、ルディ・フェラーに唾をかけ、なぜかアルゼンチンのファン・ルスタウ主審は両者を退場にした。