【豊臣兄弟!】浅井長政に信長を裏切らせた朝倉景鏡 戦国時代にも類がない“最低野郎”がやったこと
浅井長政に決断を迫った嫌らしい男
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の第13回「疑惑の花嫁」(4月5日放送)は、幕府軍を率いて朝倉を攻めている織田信長(小栗旬)のもとに、妹の市(宮崎あおい)の嫁ぎ先である、義弟の浅井長政(中島歩)の裏切りが伝えられたところで終わった。信長には、まったく想定していない事態だった。
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信長は長政に「われらはこれより、公方様の命により若狭(福井県西部)に出陣する」と説明し、建前上の相手は「石山城の武藤友益」だが、出陣のほんとうのねらいは「越前(福井県北東部)の朝倉討伐にある」と正直に告げた。織田と同盟を結びながら、朝倉とも事実上の同盟関係にあり、嫡男の万福丸を人質として朝倉に預けている長政は、そう聞いてかなり困惑したに違いない。だが、朝倉討伐に加わる覚悟を信長に伝え、異を唱える家臣は説得すると表明した。信長も、万福丸を必ず救い出すと約束した。

それなのに長政はなぜ信長を裏切ったのか。『豊臣兄弟!』では、続いて、浅井氏の本拠地である北近江(滋賀県北部)の小谷城(長浜市)での軍議の様子が描かれた。長政が織田の進攻について「今回は様子を見る」と伝えると、家臣が反発。そこに父の久政(榎木孝明)が、朝倉家当主である義景の重臣で一門の景鏡(かげあきら、池内万作)を連れて現れた。
そもそも将軍の足利義昭(尾上右近)による上洛命令に朝倉が従わなかったのが、今回の朝倉攻めの原因である。だから長政は、いまからでも朝倉義景を上洛させるべきだと景鏡に訴えるが、かつて匿った恩を仇で返すような将軍には従えないと景鏡。長政が言葉を継げないでいると、久政が「万福丸を見捨てるのか」「市のせいで腑抜けになったか」と詰め寄った。すると、景鏡がたたみかけた。「その元凶(市)を取り除いてしまえば、長政殿も昔のような武将に戻られますかな」「すべては長政殿次第。いまこの場でお決めくだされ」。
こうして追い込まれた長政が判断した結果が、信長のもとに伝わったということである。
このやりとり自体は、ドラマの台詞だからフィクションだが、朝倉景鏡の嫌らしさは存分に発散されていた。実際、この男、戦国時代にこれほど最低な男がほかにいたか、と思わされるほどの、とんでもないクソ野郎だった。
厚遇した景鏡が疫病神に
信長が軍勢を率いて京都を発ったのは、元亀元年(1570)4月20日のこと。浅井長政の離反が伝えられるまで、越前国敦賀郡の朝倉方の城を次々と攻略し、4月26日には、一帯の拠点である金ケ崎城(福井県敦賀市)を下した。いよいよ朝倉の本拠地、一乗谷(福井市)に攻め込もうというタイミングで、おそらく4月28日、長政の裏切りが伝えられた。
信長は奥深くにまで進攻していたので、手前の北近江(滋賀県北部)の浅井が寝返ったとなると、朝倉との挟み撃ちに遭ってしまう。絶体絶命の状況で、信長軍は決死の退却を強いられたが、このとき織田軍を追撃する軍の総大将を務めたのが景鏡だった。
義景の父である孝景の弟が、景鏡の父の景高だったので、義景と景鏡は従兄弟の関係にあった。つまり一門衆として朝倉家を支えていく重要な立場にあり、信長を追撃する軍の総大将を務めたのも、その後の3年にわたる信長との戦いのなかで、同じ元亀元年9月に発生した、比叡山延暦寺を味方につけての志賀の陣で朝倉方を指揮したのも、当然といえば当然であった。
しかし、当主の義景とのあいだには因縁もあったようだ。景鏡の父の景高は、義景の父の孝景、つまり兄と対立した挙句、なんらかの失態を演じ、隣国の若狭に逃れ、最後は九州にまで落ち延びたとされる。この時代の常識に従うなら、嫡男の景鏡の朝倉家における立ち位置も、それによって失われるのが一般的だ。しかし、なぜかそうはならず、景鏡ばかりは理由はわからないが、その後も厚遇された。
だが、後から振り返れば、景鏡を厚遇したことで、朝倉に禍がもたらされたように見える。景鏡はどこからどうみても疫病神だった。
主君をだまして切腹させる
永禄7年(1564)に加賀の一向一揆征伐に臨んだ際は、景鏡と景隆を総大将に、景垙も参戦したが(いずれも朝倉一門衆で義景の従兄弟)、内輪揉めの末に景垙が自害するに至っている。元亀元年(1570)4月、前述したように織田信長が越前国敦賀郡に進攻し、朝倉方の手筒山城や金ケ崎城(ともに福井県敦賀市)を攻めた際も、景鏡はこれらの城を守る景恒に合流しようとしなかった。なにかと身勝手な行動が目立つ人物だった。
その後、当主の義景との関係は微妙になったようだが、それでも元亀3年(1572)、信長が小谷城の正面の虎御前山に陣城を築いて小谷城への攻撃をはじめると、義景は2度にわたり、景鏡を援軍として小谷城に派遣している。ただ、そのとき朝倉方の多くの家臣が織田方に寝返ったのをみると、すでに景鏡には戦う意志がなく、機会を見て織田方に寝返るつもりだったのかもしれない。
そして運命の天正元年(1573)8月が来る。いよいよ小谷城が孤立すると、義景は景鏡に救援を命じるが、景鏡は兵が疲れていることを理由に拒否してしまう。結局、義景みずから出陣するが、朝倉方が守る小谷城周辺の陣城などが次々と陥落し、8月13日に義景は撤退を決断。越前に向かって退却するが、その間に近江との国境の刀根坂で信長軍の追撃を受け、壊滅寸前になる。信長はそれでも容赦せず、越前国内まで義景を追撃し、義景はかろうじて一乗谷に帰り着いたものの、留守を守る兵の多くは逃走してしまっていた。
そこに登場したのが景鏡だった。義景に一乗谷を放棄するように勧め、自領である越前大野の洞雲寺(福井県越前大野市)に逃れて再起をはかることを提案した。その後、義景は防備しやすいという賢松寺に移ったが、そこを景鏡が兵を率いて襲い、義景を自刃させたのである。
注がれ続けた冷ややかな視線
信頼性が高い史料である太田牛一の『信長公記』にもこう書かれている。
〈朝倉の同族で朝倉景鏡という者が、無情にも朝倉義景に切腹をさせた。鳥居景近・高橋景業が介錯をし、この両人は主君義景のあとを追って切腹した。なかでも高橋景業の死にぎわは、見事なものであったという。八月二十四日、朝倉景鏡は義景の首を府中竜門寺の信長の陣へ持参し、挨拶をした。景鏡は朝倉一門の武士団の総領でもあり、義景の親類でもあるのだから、このたびの働きは前代未聞のことであった〉(中川太古訳)
親戚で、主君の首を敵の陣に届ける。まさに〈前代未聞〉だというのが信長自身の感想でもあったのだろう。
その後、信長から本領を安堵され、さらには信長から偏諱を賜り(1字をもらい)、土橋信鏡と名乗った。信長は朝倉家内部の分裂をはかって義景を追い込もうとしたので、景鏡の裏切りを積極的に受け入れたが、保身のために主君と一族を売った景鏡は、織田家臣からも朝倉旧臣からも同時代の人々からも、「信義に欠ける」として冷ややかな目で見られたようだ。信長自身の本音も、そこにあった可能性がある。
結局、信長からの信頼も薄いまま、天正2年(1574)、越前一向一揆が発生すると標的にされて討ち死にし、2人の息子も処刑された。子どもはかわいそうだが、本人には「自業自得」とか「因果応報」という言葉ばかりがふさわしく思える。
香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。
デイリー新潮編集部
