彼らが拝んでいたのは「マリア」でも「キリスト」でもなかった…“カクレキリシタン”が200年以上守り抜いた“信仰の正体”〉から続く

 日本にはミッションスクールがあふれ、クリスマスや結婚式などキリスト教文化がすっかり定着している。それにもかかわらず、日本のキリスト教徒の数は現在に至るまで総人口の1%にも満たない。

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 なぜ日本ではキリスト教が広まらないのか? 宗教学者の宮崎賢太郎氏の『潜伏キリシタン 知られざる信仰世界』(角川新書)の一部を抜粋し、その理由について紹介する。

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日本人はキリスト教が好きなのか、嫌いなのか

 にわかには信じられないような話だが、昭和天皇は神道の現人神でありながら、カトリックへの改宗を検討していたという説がある。上皇さまは民間よりカトリックの美智子妃を皇太子妃として迎えた。日本におけるミッション校の数は膨大で、幼稚園から大学まで、日本の多くの若者が仏教や神道以上にキリスト教の教えに親しんでいる。

 日本人が一番好感を持っているのは実は仏教や神道よりもキリスト教ではなかろうか。しかるに、現在にいたるまで日本の総人口の1%にも満たないというのはどう考えても不思議な現象である。

 日本キリスト教の七不思議の中でも大変興味深いテーマである、「日本ではなぜキリスト教徒の数が増えないのか」という難題に取り組んでみたい。


写真はイメージ ©︎Paylessimages/イメージマート

キリスト教は「バタ臭い」?

「バタ臭い」という言葉はもはや死語になりつつあるが、西洋の香りがするという意味で使われる。西洋風の食物や着物や生活習慣を好み、西洋かぶれした人を指してバタ臭いというが、軽い嫌悪感や軽蔑の意が込められている場合が多いようである。

「ハイカラ」も明治時代の流行語である。1977年(昭和52)度第一回講談社漫画賞少女部門受賞作品で、映画にもなったテレビアニメの「はいからさんが通る」を記憶している人も少なくないだろう。語源はワイシャツの高い襟「high collar」である。

 今では、ハイカラは「お洒落」で、「時代の先端をいく」といった意味で使われている。しかし、本来は進歩的な人々が舶来物や、西洋風の生活スタイルを好んで取り入れ、西洋かぶれしたキザで軽薄なといったマイナスイメージを伴う言葉であった。

 バタ臭く、ハイカラなものの代表としてしばしばキリスト教があげられた。これまで日本人にとって、キリスト教は常に西洋文化を代表するものとして受け止められてきた。しかし、進歩的なものへの憧れとともに、もう一方では、そのようなものにすぐに飛びつく軽薄さに対する反感というか、一種のアレルギー反応のようなものも日本人の心の中に潜んでいたのであろう。

日本人最初のバタ臭い、ハイカラな戦国武将

 16世紀の中頃、日本に初めてキリスト教が伝来した時、時代を先取りする進歩的な人物であった織田信長は、キリシタン宣教師がもたらした進んだ南蛮文化にいち早く興味を示し、積極的に取り入れた日本人最初のバタ臭い、ハイカラな人物であった。

 信長は鉄砲を通して西欧文明に初めて接し、海外から渡来した文物を積極的に受け入れた。1581年(天正9)、安土城下で行われた左義長の祭(小正月の火祭り どんど焼き)の時、ヴァリニャーノ神父から献上された黒いビロードのポルトガルの立派な帽子をかぶり、金襴の豪華なマント姿で現れた。また、珍酡酒(赤ブドウ酒)を好んだことはよく知られている。

 さて、その当時の日本人は、初めてキリシタン宣教師をみたり、その教えにふれたとき、どのような反応を示したのであろうか。ハイカラな人物が、新奇なバタ臭いものに直ちに興味関心を示すのは世の常である。

ハイカラな世界とは無縁の一般民衆層の反応は

 本書で主として扱ってきたのは、新奇なものなど知りたくとも知ることができなかった、手に入れたくとも手に入れることができなかった、ハイカラな世界とは無縁の一般民衆層の反応であった。民衆層の反応を知るにたる手がかりはさほど多くは残されていない。だからといって、大多数を占める民衆層を無視しては、日本人とキリスト教の関係をただしく見渡すことはできない。一部の特殊な階層の特殊な事例を、「日本人は」と敷衍してしまっては、実態から乖離してしまうことになる。

 従来の日本におけるキリシタン研究は、ややもすれば記録にその名が残されたキリシタン宣教師、キリシタン大名のような一握りの指導者、為政者、キリシタン殉教者といった、一部のきわめて限られた特別な人々にかたよっていたといわざるをえない。

 彼らの行動が日本におけるキリスト教の歴史を華々しく物語っているのはまちがいない。しかし、日本人の大多数を占める一般民衆が西洋文化と出会った時、キリスト教に対していかなる思いを抱き、いかなるものとして理解し、いかなる宗教として受け止めたのかということは、例外的なエリート層の人々の言動からだけでは決してうかがい知ることはできないものがある。

 しかし、実際には、これまでのキリシタン研究は、大なり小なりそのような性格をもっていたことは否めない。それはキリシタン研究に従事した者の大多数がキリスト教の聖職者、あるいはキリスト教の信者ないしはシンパであったという事情によるところも大きいといえよう。キリシタン資料の読み込み、解釈が知らずして護教的、神学的な色彩を帯びる傾向がみられたのもいたしかたのないことであった。

バタ臭さを売りにした明治時代の宣教師たち

 明治時代になると、日本は「文明開化」、「脱亜入欧」のスローガンのもと、近代化が急速に進められ、西洋の文化を積極的に取り入れようとした。幕末から明治初期、欧米諸国から再びカトリック、そして新しくプロテスタントの宣教師たちが多数来日した。

 彼らは宣教活動とともに、欧米の進んだ近代科学、医療、教育、社会福祉事業などを展開し、日本人からバタ臭い人種というレッテルを貼られた。むしろ、意図して貼らせたのであろう。日本人はバタ臭いハイカラなものを、進んだもののシンボルとしてもろ手を挙げて歓迎するであろうと、宣教師たちは直感的に感じたと思われる。

 もしそうならば、バタ臭い点がキリスト教宣教のセールスポイントとなりうる。しかし、その判断は誤っていたようだ。一度貼られてしまったこのレッテルが、今もって日本におけるキリスト教の教勢の拡大を逆に阻む足かせとなっているのは皮肉なことである。

 多くの日本人は、キリスト教はたしかにすばらしい宗教ではあるが、敷居が高すぎる宗教と感じているようである。キリスト教徒といえば、必ずといってよいほど「敬虔な」という形容詞が頭につけられることにも示されている。キリスト教徒になるには、それまでの自堕落で、いい加減で、ご都合主義的な生活態度を根本から改めなければ、「敬虔なクリスチャン」になれないとしたら、敬遠したくなるのもむりはない。

 欧米の宣教師たちから薫陶を受けた日本人の聖職者たちは、バタ臭くないキリスト教、すなわち日本的なキリスト教のメッセージの伝え方を工夫し、もっと民衆の心に届くようにしようとは努めてこなかった。西洋的なキリスト教であってこそ最高にすばらしいものであり、日本的なキリスト教となってしまってはその価値を失ってしまうのではないかと恐れ、日本的な要素の混入をむしろ意図的に排除してきたのである。

キリシタン時代と現代の信徒数

 キリシタン伝来当初、短期間に多数の改宗者が生まれ、その後の幕府の厳しい迫害にもかかわらず、幕末・明治初期にいたるまで、秘かに信仰を守り通したといわれてきた。もしそうならば、明治6年に禁教令が撤廃され、日本は文明開化のスローガンのもと、西洋文化を積極的に摂取し続けてきたわけであるから、その西洋文化の中核となっているキリスト教は大いに歓迎されてしかるべきである。

 まず数字の上で、キリシタン時代と現代を比較してみよう。キリシタン時代に信徒数が最も増大したのは、17世紀初頭から大禁教令が出された1614年頃で、最大で40万から45万人くらいの信徒が存在したといわれている。当時の日本の総人口は1000万人から1200万人程度であったから、総人口の約3%程度がキリシタンであったことになる。

 現代日本におけるキリスト教信徒数をみてみると、2014年の統計によれば、カトリックの在籍信徒数は43万6291人。その内1割の4万3027人が居所不明。年間の幼児洗礼2619人、成人洗礼3093人、死亡4201人で、受洗者数から死亡者数を差し引いた一年間のカトリック信徒増加者数はわずか1511人であった(『カトリック教会現勢二〇一四年』カトリック中央協議会)。

〈※2024年統計によれば、カトリック在籍信徒数は40万7345人。そのうち4万4106人は居所不明。年間幼児洗礼1870人。成人洗礼2025人。死亡4930人。差引き年間信徒増減者数1035人減。『カトリック教会現勢二〇二四年』〉

 日本の総人口1億2700万人に対するカトリックの占める比率は0.34%で、カトリックとプロテスタント(諸派総計約57万人)を合わせても0.81%足らずで、1%にも達していない。人口比でいえば、キリシタン時代には、現在の10倍ものカトリック信徒がいたことになる。しかし、その多くはキリシタン大名による半強制的な改宗政策による結果であり、単純な数の上だけの比較であって、改宗者の質の問題はまた別である。

 明治以降、キリスト教は教育と社会福祉活動を二本柱とし、都市部を中心として、日本人に人道主義、博愛主義、平等主義といったヒューマニズム精神を植え付け、新たな倫理道徳のモデルを提供した。むろん江戸時代に深く染みついたキリシタン邪宗観は、地方都市や農村部、浄土真宗の勢力が強い地域において払しょくするのは容易ではなかった(五野井隆史『日本キリスト教史』吉川弘文館、1990年)。

皇室から教育現場まで 浸透するキリスト教文化

 しかし、戦後急速にキリシタン邪宗観は薄れ、むしろ肯定的に受け止められるようになっていった。次のエピソードは日本人のキリスト教に対する好意的な姿勢を端的に示している。

〈 昭和天皇は開戦前からローマ法王ベネディクト一五世と会い、東条英機首相にバチカンを通じて時局収拾を検討するよう提案していた。また敗戦後の占領期、天皇はキリスト教、とくにカトリックに接近し、神道の現人神であった天皇自身が、カトリックへの改宗を検討しているとの説も流れたほどである(『週刊朝日』平成26年10月3日号)。〉

 昭和天皇のみならず、「昭和の皇后良子(香淳皇后)は戦時中からキリスト教の聖書の講義を宮中で受けていた。東京が空襲を受けているさなか、皇居ではなんと聖書の講義が行われていた」という(講談社『本』2015年4月号、原武史・奥泉光「『皇后考』刊行記念特別対談 皇后たちの祈りと神々」)。

 また昭和34年、皇室は初めて民間より皇太子妃を迎えたが、美智子妃はカトリックの正田家の長女で、カトリックの名門女子大学である聖心女子大学の卒業生であった。現皇后雅子様もカトリックの田園調布雙葉学園の卒業生である。もし国民の間にいまだキリスト教に対する邪教観が残っていたとしたら、強い抵抗が示されたことであろう。しかし、天皇家がカトリックから皇太子妃を迎えることに対して、国民は反対どころか、祝賀ムード一色で、「ミッチー・ブーム」という社会現象をまきおこしたほどであった。

日本の大学の10校に1校はミッション校なのだが…

 現在、日本におけるミッション校は膨大な数にのぼっている。2014年度の統計によれば、全国のカトリック系の幼稚園524、小学校53、中学校102、高校115、短大16、大学19で、その他も含めると総数842校にのぼる。日本全国には大学が781校あるが、カトリック大学19とプロテスタント大学56校を合わせると、キリスト教系大学は75校におよび、日本の大学の10校に1校はミッション校ということになる。

 仏教系大学は44校、新宗教系大学6校、神道系大学は国学院大学と皇学館大学のわずか2校のみであるから、いかに日本の多くの若者が幼稚園から大学までキリスト教教育の影響を受けているか、うかがい知ることができる。

 戦後80年、学校教育のみならず、テレビや新聞やインターネットなどマスコミを通じて、キリスト教に対してはきわめて好意的な報道がなされてきた。それでもクリスチャンの人口は1%にも達していないどころか、わずかながら減少傾向をたどっている。

 まことに不可解な現象である。次にその原因について考えてみることにする。

〈ローマ教皇自ら「沈みつつある船」と嘆くほど…“キリスト教の本場”欧米で起きている「凄まじい教会離れ」の衝撃データ〉へ続く

(宮崎 賢太郎/Webオリジナル(外部転載))