「無意識で、別世界へすぐ行っちゃいます」短編の名手による創作秘話〉から続く


小池 真理子『日暮れのあと』(文春文庫)

 山の静けさに包まれながら、軽井沢の木立の中にたたずむご自宅で、作家・小池真理子さんに、とっておきの秘話を伺いました。(全5回の3回目)

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軽井沢の作家が描く自然描写

――この小説集は、アネモネといった花や自然豊かな庭、星や月などの情景描写も印象的ですね。鳥のさえずり、動物の気配、雄大な自然……その中に死の気配、孤独がたちのぼってきます。自然描写が素晴らしいのも本書の良さの一つだと思うのですが、軽井沢にお住まいがあることが影響していますか? それとも都会に住んでいるときから、自然に対して意識されていましたか?

小池 軽井沢に移住してきたのが1990年。もう36年くらい前になります。それまでは東京生まれ東京育ちで、父の転勤であちこち地方暮らしは経験しましたが、基本は都市生活者として生きてきました。なので、特に自然が好きだった、というわけではなかったですね。わかりやすく言えば、ずっと「町っ子」でしたから。

 でも、書くことに集中したくて軽井沢に移住してから、『恋』という作品を書いて、思いがけず直木賞を受賞。それ以降、意図して自然を美しく書こうとしなくても、普通にここに暮らしているだけで四季折々の変化――色彩や、空気の匂いや、聞こえてくるものや生き物たちの営みに触れることになって。もう都会に住んでいるときとは比べものにならないくらい、感覚が研ぎ澄まされてきちゃいましたね。特に自然にフォーカスさせて書こうと意識しているわけではないんだけれども、自然満載の中で生活をしているので、私にとってはそれらを描写することは、何も特別なことではないんです。

――たとえば夜の空、東京はあんまり星が観えないんですよ。

小池 そうですよね。東京タワーの横に月が浮かんでいる、という光景は何度か見ましたけど、星まではなかなか、ですよね。ここはすばらしいですよ。晴れた日の夜の空は言葉では言い尽くせないほどです。星はもちろん、月の満ち欠け、流れ星。はっきり見ることができる。

年が離れた恋人同士の設定

――この小説集の中で、年上の女性が20〜30歳ほども年の離れた若い男性に女性が恋をするという設定がたびたび出てきますが、これは意識して描かれたのでしょうか?

小池 特に意識はしなかったですね。

――たまたまの設定ですか?

小池 相手の男性をかなり年下という設定にすると、よくも悪くも人生経験の浅い、だからこそ無垢で純粋な部分が多く出て、そのピュアすぎる側面をいろいろなかたちで描くことができます。そこに年上の女が、知らず知らずのうちに惹かれていく、っていう物語の土台が作りやすくなる。わざと社会的な年齢差を作って、小説の中で何かに抵抗してみせようとしたり、これまでの時代が作った価値観を否定しようとしたり、そうした思想心情的な主張は一切、関係ないです。小説の書き方として、そのときの気分と流れで書くのが好きなので、自然にそういう設定になっているだけ。

 フランスの作家、マルグリット・デュラスが、70歳のときにゴンクール賞を受賞したのが『愛人 ラマン』。15歳のころ、インドシナで送った少女時代について性愛をまじえながら描いた小説です。

 そのデュラスが60代のときに、彼女の作品に惚れ込んでいる熱狂的なファンと出会います。彼は38歳年下。長年にわたって大量のファンレターを送ってきていた彼を彼女は自分のアパルトマンに招きます。彼はバイセクシュアルだったみたいですね。初めのうち彼女は軽い気持ちだったんだろうと思う。

 でも、後にデュラスが81歳で亡くなるまで、彼は彼女の最後の恋人であり続けました。彼がデュラスとの日々について綴った本も出してるし、映画化もされてます。デュラスに限りませんが、恋愛関係において、年齢で括って、こうあらねばならないと決めてかかったり、偏見をもっていたりしがちな日本社会とは違って、初めから自由でいられる、という感覚が昔から好きです。

 どれだけ老いても、記憶だけは自由に蘇らせることができますしね。作家として作品に昇華させていくこともできる。生きている限り、そこに規制はない。自由です。

男女間の性差

――自由という意味では、男女間の差が昔に比べて少なくなってきている傾向がありますが、今回、この本では化粧をする男の人の話も出てきますね。実際、男性もたけだけしい人や、「恋をしよう〜!!」とぎらぎらした人は少なくなっている気が(笑)。

小池 そうですね。私もそう思ってます。

――そういう、男女の性差が以前よりなくなってきていることに関しては、どう思われますか?

小池 うーん、……平等になって喜ばしい、という以前に、決定的につまらなくなったな、と思うな(笑)。なんかいつの間にか、気がついたらそんなふうになってしまったんだな、という感じで。私や藤田は、団塊の世代の少しあとになりますが、当時の人間は今とは比較できないほどみんな、ぎらぎらしてました。生き方においても恋愛においても。それが当たり前でした。だから衝突もしょっちゅう起こった。女性として猛烈に腹のたつこと、忘れられない出来事も数えきれないほどありました。そうやって、必死になってみんながそれぞれの人生を生きてきたわけですが、ハタと気が付けばまわりでは性差がすべて許されなくなっていて、表向きの平等はいいとしても、なんだか人と人とが遠くなってしまったように感じています。性差についてあれこれ言及したり、逆に本気で相手を褒めたりしても、一種のセクハラと言われてしまうような社会に、いつの間にやら、なり変わったな、という印象です。

 男女のことでいえば、男女間で垣根がなくなったという意味では喜ばしいことなんでしょうけど、たとえば表現一つとっても、「髪の毛切ったんだね、可愛いじゃない?」「最近、きれいになったね」と言っただけでセクハラにされるのは、昭和という時代を生きてきた73歳の私にとっては、ショックでもある。

――ちょっと度を越しているようにお感じになりますか?

小池 相手が、可愛い、きれい……と感じることまで否定しなくてはならなくなったのは、いったいなぜなのか、といつも思います。人間の中から自然発生的に出てきた感覚が、すべて性差別になる、ということがよく理解できません。私は昔、フェミニズム以前の、けっこう急進的なウーマンリブの時代に思春期を送った人間ですが、あのころに培った感覚、影響を受けた考え方と現代のそれとが、必ずしも一致しないことが多い。

 今、年長の女性が若い男性に対して同じようなことを言っても、よくないこととされていますよね。たとえば、大学出たての、私の息子というより、孫みたいな若い男性が私の担当編集者になってやって来たとして、その人がすごく魅力的な美男で可愛かったとしても、「もてるでしょう。カッコいいものね」なんて言ったら、いけないんでしょうか(笑)。

 そういう時代を生きている若い人たちの間で、恋愛が成立しづらくなっているというのは、痛いほど理解できます。

(4回目に続く)

(小池 真理子,「文春文庫」編集部/文春文庫)