スポニチ

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 2年生になると、上に3年生がいるだけです。精神的にだいぶ楽になりました。体が出来上がってくるこの年代は、1歳違うと体つきは全然違いました。やっとバッティング練習ができるようになり、試合にも出させてもらえるようにもなりました。最初にもらった背番号は12でしたが、それが11となり、2年の終わりには10までなりました。

 3年生が抜け、いよいよ自分たちの世代のチームになると、レギュラーの証である1桁の背番号7になりました。最後の夏の地区大会が始まりました。センターで先発出場した下関工業戦。弾丸ライナーにダイビングキャッチを試みました。何とかグラブに収まり、ファインプレーとなりました。翌日の地元紙には「光る山本の超美技」という見出しがデカデカと掲載されていました。何か悪いことをしないと新聞に載らないと思い込んでいたので、鼻高々でした。

 好事魔多し、はこのことでしょう。西中国大会(当時)準決勝の相手は島根の益田農林でした。初回の守備。またしても打球が飛んできました。瞬間、頭の中に「再び、山本の超美技」という見出しが浮かびました。しかし、今回は無念の後逸。白球は無人の外野を転がっていました。失策こそつかず、記録は三塁打でしたが、誰の目にも自分のエラーにしか見えないでしょう。次の打者がスクイズを決めて、大事な先制点をプレゼントする形となってしまいました。

 結果的に逆転勝ちを収めて、早鞆は甲子園出場を決めました。でも、自分はせっかくつかんだレギュラーの座を明け渡すことになりました。背番号10をつけて憧れの甲子園の土を踏むことになったのです。

 「第49回全国高等学校野球選手権大会」が正式名称です。いわゆる夏の甲子園。8月13日の第1試合で長野の名門校・松商学園と対戦しました。試合は9回2死まで進み、0―3で敗色濃厚な場面です。ずっとベンチで試合を見守っていた自分の出番がここで来ました。代打で打席に入ったのです。不思議とこの打席のことは、ほとんど覚えていません。上がっていたのか?それとも集中していたのか?その両方だったのでしょう。

 無我夢中で振ったバットにボールが当たった感触はあります。アルプススタンドから降り注ぐ大歓声の中、必死に一塁目がけて走りました。抜けていれば、人生が変わっていたかもしれないセンター返しの打球。しかし相手の二塁手が追いつき一塁に送球。自分の足の方が一瞬早くベースを駆け抜けてセーフ。内野安打でもヒットはヒットです。ガッツポーズしたい気持ちもありましたが、高校野球では禁止です。必死に気持ちを抑えました。結果、次の打者で甲子園は終わりました。

 後日、石井英昭監督と飲む機会がありました。監督は「お前がこんな人気商売すると分かっとったら、背番号7のままにしとけば良かったかのう?」と真顔で言っていました。

 ◇山本 譲二(やまもと・じょうじ)本名同じ。1950年(昭25)2月1日生まれ、山口県下関市出身の76歳。早鞆高3年の67年、夏の甲子園出場。74年に「伊達春樹」として「夜霧のあなた」で歌手デビュー。北島三郎に師事し、78年「山本譲二」として再デビュー。80年発売の「みちのくひとり旅」が81年にかけてロングヒット、ミリオンセラーに。NHK「紅白歌合戦」に計14回出場。