レイカーズの八村塁とブルズの河村勇輝(C)AP=共同

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 3月13日、NBAロサンゼルス・レイカーズvsシカゴ・ブルズ戦で、八村塁(28・レイカーズ)と河村勇輝(24・ブルズ)が同時にコートに立ったことが大きく報じられた。ともにNBAの歴史に名を連ねる名門である。レイカーズは79年の歴史と17回の優勝を誇り、ブルズは60年の歴史と6回の優勝を果たした。

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 この6回の優勝は、マイケル・ジョーダンが率いた1991年〜1993年、1996年〜1998年にかけての2回のスリーピートで、間違いなく1990年代最強チームといえよう。ジョーダンは1993年オフの父親の突然の死やモチベーションの低下もあり、一旦NBAを離れた。ジョーダンはMLBを目指すことになったが、結局メジャーには上がれず、1995年シーズンの途中でNBA復帰。試合勘が鈍っていたこともあり、この年は優勝できなかった。

 1996年には、センターのウィル・パデューをサンアントニオ・スパーズへトレードし、リバウンド王の常連であるデニス・ロッドマンを獲得。結局、ジョーダンとスコッティ・ピッペン、ロッドマンのBIG3に加え、控えのトニー・クーコッチら優秀な選手を擁し、優勝。そこから2度目のスリーピートを果たした。

 そうした背景があるだけに、河村の所属するブルズは「名門」であり、「そこに所属する河村もすごい」という形になっているが、やはり1回目の3ピートの最初の年である1990-91シーズンに何があったのかを振り返っておいた方が、現在のブルズの持つ価値を理解できるだろう。

 当時筆者は高校生だったが、ブルズの本拠地があるイリノイ州に住んでいた。地元ケーブル局が全試合を中継し、その他の試合も3大ネットワークのNBCが放送するほか、CNN系のTNTも放送をしていた。そのため、ヘタすりゃ勉強もせず、1日3試合NBAを見ていたのである。合計7時間とは異常である。ブルズの試合は当然すべて見ていた。

 NBAの歴史は、ライバルチームを乗り越える歴史であり、東西カンファレンスのファイナルで負けたチームが翌年相手に勝ったり、NBAファイナルでも同様のことがあったりする。ブルズは1989年と1990年と連続して両年の世界王者となるデトロイト・ピストンズに東カンファレンス決勝で敗退した。1990年は最終第7戦までもつれ込み、「これはイケるのでは」と試合前は思ったのだが、チームNo.2のピッペンが片頭痛となり、まったく機能せず敗退。

 そこから4カ月後のNBA開幕となるわけだが、前年と何が違ったのか。ピストンズはブルズよりもベテランのチームであり、この年、ビル・ランビア(当時33歳)とジェイムズ・エドワーズ(同36歳)、ヴィニー・ジョンソン(同34歳)はキャリア晩期を迎えていたため、若いブルズからすれば勝てるのは当然という分析もあるだろう。さらに、NBAファイナルでは、レイカーズ(同じく高齢化していた)のマジック・ジョンソンの負傷などもあり、アッサリと4勝1敗で世界一となった。だからこそ、この年のブルズの優勝は当然という声もある。

 ただ、1990年と1991年の違いは抑えておく必要がある。要素としては、上記ピストンズとレイカーズの高齢化はあるにせよ、ブルズの選手の成長と、新加入選手の存在がある。

 1:ピッペン、グラントの2人が4年目になり成長した
 2:この2人の成長により、ジョーダンへのマークが緩くなったほか、2人に任せることができるようになった
 3:前年のルーキーポイントガードであるBJアームストロングの成長
 4:当初期待が薄かったルーキーで、パワーフォワードとセンターをこなせるスコット・ウィリアムズが意外と良かった

 これが重要要素なのだが、案外大きかったのがクリフ・リビングストンの獲得である。というか、私自身、リビングストンがいたから優勝できたのでは、とすら思う。アトランタ・ホークスに所属していたが、フリーエージェントになっており、ブルズはピッペンのバックアップとしての契約を検討していた。

リビングストンのハツラツプレーがブルズ王朝第一期を支えた

 身長は6フィート7インチ(201センチ)でピッペンと同じ。想像しやすいのが、八村が6フィート8インチ(203センチ)である点だ。スモールフォワードが本職だが、なんとかパワーフォワードもこなせる。そんなタイプの選手だということ。リビングストンも、やろうと思えばパワーフォワードもできる。何しろ頑丈なのである。6フィート9インチ(206センチ)の選手とぶつかり合ってもなんとかディフェンスをし、リバウンドを取れる。まさに「ハードワーカー」タイプの選手である。

 2年所属したブルズ1年目の成績は、1試合平均13.0分出場、4.0得点、2.9リバウンドだったが、この13分の出場がピッペンとグラントの貴重な休憩時間につながったわけだ。前年、リビングストンのポジションを担ったのは、エド・ニーリーだが、わずか46試合の出場にとどまり(信頼感がなかったのである)、平均10.9分出場、2.3得点、3.0リバウンドだった。

 リビングストンは全82試合中79試合に出場したわけで、信頼感はあった。そして、何よりもジョーダンと仲が良く、性格が明るかった。アトランタ時代のあだ名は“Good News(希望を届ける男)”であり、さらにブルズに入ってからは試合前に円陣を組み、“What time is it!(戦う準備はいいか?)”と叫び、チームメンバーが“Game Time!(よし勝負に行くぞ!)”と叫ぶコーラー(掛け声役)になったのである。

 ベンチではコートに立つ選手を常に鼓舞。これも主力選手にとっては励みになったことであろう。私自身、ジョーダンとピッペンのバックアップとして、90年オフに87年ドラフト全体3位指名のシューティングガードであるデニス・ホップソンを獲得したことこそ最大の補強だと思ったが、スコアラー(点取り屋)なのに平均4.3点しか取れず完全な期待外れだった。

 そんな中、75万ドル(当時の為替1ドル=135円として約1億125万円)で契約をしたリビングストンのハツラツとしたプレーがブルズ王朝の第一期を作る原動力になったと今でも思っている。とにかく90-91シーズン、ブルズは悲壮感が漂わず明るかったのだ。なお、リビングストンについては、契約時の楽観的なエピソードも面白い。

 ホークスとは4年間で400万ドル(同約5億4000万円)の契約で残留のオファーが来たのに、自分の市場価値を代理人とともに高く見積もり過ぎ、他チームも含め交渉を伸ばした。だが、ホークスも他チームもいつの間にか撤退しており、ブルズと年間75万ドルの2年契約をせざるを得なくなってしまったのだった。

 しかも、ホークスのスター、ドミニク・ウィルキンスのようにリムジンに乗りたい、といった夢を抱いていたという当時の書籍の記述もある。とことんおめでたい選手という印象だ。だが、ブルズに対して、そして河村への評価に対してもリビングストンの功績は案外大きいのではなかろうか。

(中川淳一郎/編集者・PRプランナー)