『映画ドラえもん 新・のび太の海底鬼岩城』©藤子プロ・小学館・テレビ朝日・シンエイ・ADK 2026

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 2月27日より公開中の『映画ドラえもん 新・のび太の海底鬼岩城』は、1983年公開の同名作をベースにしたリメイク作品だ。1980年の『のび太の恐竜』から続く『映画ドラえもん』シリーズは毎年春の恒例行事だが、今回は例年といくつか異なるポイントがある。

参考:『映画ドラえもん』が『海底鬼岩城』をリメイクした意義 “心”の在り方を捉える一作に

 公開時期がシリーズ初の2月であることや4DX/MX4Dの同時上映も初の試み、そして監督の矢嶋哲生と脚本の村山功はいずれも『映画ドラえもん』初参加。長い歴史の中でも比較的大胆な布陣と言える一本だったのではないだろうか。

■『海底鬼岩城』リメイクは何が新しいのか 本作を読み解くうえで重要なのが、矢嶋哲生監督がインタビューで語っているテーマ設定だ。監督が着目したのは、水中バギーに搭載されたコンピュータの思考だった。「AIというのは、理にかなっていることを並べてきて、最善策を並べてくると思うんですけど、今作では明らかに『何でそれを選択したの?』という選択をするんですよね」(※)。矢嶋監督はその不合理を「バグ」と表現し、そのバグこそが人間で言う「心」に近いのではないかと考えたという。  

 人間は必ずしも正解を選ばない。合理的な最適解ではなく、「これが正しい」と感じた選択に従ってしまうことがある。その感情の揺れこそが人間の心なのではないか。

 このテーマが、2026年のいま観ると一段と重く響くのは偶然ではないだろう。ChatGPTをはじめとする生成AIが日常に入り込み、仕事の相談から恋愛の悩みまでAIに打ち明ける人が珍しくなくなった今、機械との関係性はリアルな問題として語られる時代だ。そんな2026年に、「機械が合理を超えて心で動く」物語を差し出されれば、43年前と同じ筋書きでもまったく違う場所に届く。脚本の村山功と矢嶋監督は、旧作の感動をただなぞるのではなく、この時代の空気を脚本構造の中に織り込んでいたように思う。

■バギーがのび太に繰り返し投げかける問い では、その「心」は作品の中で具体的にどう描かれているのか。ここに脚本構成の巧さがある。旧作の水中バギーは「道具」というよりキャラクターとしての個性が強く、クライマックスの特攻(自己犠牲)の場面も印象に残る。新作はその土台を引き継ぎつつ、「友情から恋心へ」という段階的な変化を脚本の中に設計している。

 前半、バギーがのび太に繰り返し投げかけるのは「トモダチとは何か」「キブンとは何か」という問いだ。ところが後半になると、その問いの矛先が自然にしずかへ移っていく。友情として芽生えた感情が、言葉の手触りを変えながら、いつの間にか特別なものへと形を変えている。

■セリフで語らないクライマックス演出の巧さ さらに今作では「中古で買われたバギー」という設定にちなんだ、水中バギーの過去シーンの追加も。前の持ち主にモノ扱いされていた経験があることが強調され、その経験を経て、のび太たちとの交流を通して少しずつ心を獲得していく過程が描かれる。クライマックスの自己犠牲も唐突な美談にならず、しずかを守ることへの感情の到達点としてちゃんと必然に見えるからこそ、“大人でも泣ける”作品になっているのだろう。

 矢嶋監督は、この最大の見せ場であるバギーが飛び出すシーンについても演出意図を語っており、あえて直接的なセリフを置かなかったという。その代わり、前のシーンで「正しいと正解が違うのは、まるでバグみたい」というセリフを提示しておき、クライマックスでその言葉をフラッシュバックさせる構成にした。言葉で説明するのではなく、映像の呼応で「この子は心で動いている」と観客に理解させる設計だ。

■多層的に配置された対立構造 もうひとつ見逃せないのが、物語全体に仕込まれた対立構造の多層性だ。海と山、海底人と陸上人、ムー連邦とアトランティス、正しいと正解、人間とAI。あらゆるレイヤーに「互い違いの価値観」が置かれ、それに対し、のび太たちが示すのは「違いがあっても、いつか手を取り合えたらいい」という答えだ。

 ゲストキャラクターのエルが「法律という正解ではなく倫理として正しいこと」を選ぼうと葛藤するパートと、バギーが「正解と正しいは違うのか」と問うパートも同じテーマの表裏として統合されており、村山功が『スター☆トゥインクルプリキュア』などで描いてきた「多様性と相互理解」というテーマが、そのまま反映された構成だと言えるだろう。

 一方で、後半の展開に対する批判も少なくない。前半の海底探検が丁寧なぶん、ムー連邦との接触以降はどうしても駆け足に映る点や、旧作の核兵器のメタファーや恐怖描写がコンプライアンスの影響で薄まっている点を惜しむ声もある。エルを演じた千葉翔也の芝居が魅力的なだけに、エルとのやりとりにもう少し尺が欲しかったという気持ちも正直残る。

 ただ、そうしたマイナス面込みでも、前半の冒険描写だけでエンターテインメントとして成立する強度がある作品だとは言っておきたい。1983年版を観ていなくても問題なく楽しめるし、むしろ子どもと一緒に観る映画としては、今の時代にこそ意味がある気がしている。何もかもがきれいに解決するエンタメが増えた中で、子ども向け作品で「大切なものを守るために、何かを手放す」という結末を正面から描いてくれる機会は、実はそう多くない。その選択の重みを、観客にちゃんと手渡してくるところに、本作ならではの誠実さがあるように思う。

 子どもと楽しむ冒険譚として、大人が泣ける映画として。『映画ドラえもん 新・のび太の海底鬼岩城』は、どちらの入口からでも観る価値のある一本だ。

参照※ https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1772427535(文=すなくじら)