ボリス・ジョンソン氏に代わってイギリスの新首相となったリズ・トラス氏は何者なのか。ロンドン在住ジャーナリストの木村正人さんは「トラス氏は過去にダブル不倫を報じられたが、イギリスではプライベートな問題で不問とされている。彼女にはサッチャー元首相の呼称をもじった『鉄の女2.0』という異名がある」という――。
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漆黒の扉に「10」と記された英首相官邸に入るリズ・トラス英首相と夫のヒュー・オレアリー氏(2022年9月6日) - 筆者撮影

■「ダブル不倫」危機を乗り越えたしたたかな女性

英与党・保守党党首選の結果が9月5日発表され、ボリス・ジョンソン首相の支持層を受け継いだリズ・トラス外相(47)が、ジョンソン氏に反旗を翻したリシ・スナク前財務相(42)を予想通り大差で退けた。6日、スコットランド・バルモラル城で静養していたエリザベス女王の命を受け、組閣に着手した。女性首相は英国史上3人目だ。

エリザベス女王は直後の8日に死去。トラス氏は在位70年でエリザベス女王が任命してきた14人目の首相にして最後の首相になった。

決選投票の結果はトラス氏8万1326票、スナク氏6万399票。有権者4884万人超の0.17%にも満たない保守党員の支持を得て、トラス氏は先進7カ国(G7)、国連安全保障理事会常任理事国で核保有国の首相になった。党首選では、金利が上昇しているのに財政赤字を膨らませる「恒久減税」を唱えて市場を揺るがした。

トラス氏が君子なら早々と「恒久減税」を諦めて豹変(ひょうへん)するしかない。

家族で核軍縮運動に参加し、王政廃止を議論する自由民主党員から保守党員へ、欧州連合(EU)残留派から強硬離脱派へ、反マーガレット・サッチャー(英国初の女性首相)から自称・サッチャー主義の継承者へと変節したトラス氏は「鉄の女2.0」とも「鉄の風見鶏」とも呼ばれる。

保守党大会で出会った会計士の夫と娘2人の家庭を持つトラス氏にはタブロイド(英大衆紙)を騒がせた「ダブル不倫」の過去がある。チャーミングな外見とは全く正反対の肉食系女子、学生時代から政治の裏を生き抜いてきた冷徹な「マキャベリスト」。日本の主要メディアでは報じられないかもしれないが、「ダブル不倫」危機を乗り越えたしたたかな女性でもある。

■2006年に「ダブル不倫」のスキャンダルに見舞われる

トラス氏はオックスフォード大学で哲学・政治学・経済学を学ぶ傍ら、自由民主党支部長として活躍。卒業後は一転、保守党に入党した。公認会計士の資格を取り、エネルギー大手シェル、電気通信会社ケーブル・アンド・ワイヤレスで勤めた。2001年総選挙で労働党の牙城、イングランド中北部の選挙区で惨敗。05年総選挙では同じ中北部の別の選挙区で惜敗する。

この健闘が認められ、同年末に保守党党首になり政権奪還を目指していたキャメロン氏の「Aリスト(最優先のグループ)」に加えられる。同氏はお固くて古臭い保守党のイメージを一新するため80人の女性を擁立したことから「キャメロン・キューティーズ」と呼ばれた。その中でもトラス氏は「キューティー」と呼ぶにふさわしい若さと美貌を兼ね備えていた。

トラス氏は次の総選挙で保守党地盤イングランド東部ノーフォークの選挙区への“国替え”が決まった矢先の06年、タブロイドのスキャンダルに見舞われる。権力と欲が渦巻く「政界」は古今東西を問わず「性界」でもある。トラス氏は04年から1年半の間、10歳年上の実力者マーク・フィールド下院議員(当時)と「ダブル不倫」関係にあった。

■イギリスでは不倫は「プライベートな問題」として不問

英国政治では不倫が発覚しても、その場で配偶者か愛人のどちらかを選べば、プライベートな問題として政治責任は問われない。トラス氏は当時、保守党でロンドン地域の広報を仕切っていたフィールド氏の下に派遣された。フィールド氏はまだ若いトラス氏の「政治の師匠」として党から指名されていた。どちらも熱心な師弟関係、それが過ちの始まりだった。

「ダブル不倫」が終わってからも2人の友情はさらに3カ月続いた。そのあとトラス氏はフィールド氏と別れ、夫との結婚生活を正常化する道を選択した。しかし、総選挙を翌年に控えた09年、選挙区支部の守旧派数十人が「候補者を決める時に不倫の話は全く知らされていなかった」とスキャンダルを蒸し返した。

ノーフォークの選挙区は保守党の指定席。総選挙に出馬できれば必ず勝てる。ここまで来て候補者の座から引きずり下ろされればトラス氏の政治生命は潰える。この時、トラス氏は「鉄の女2.0」の片鱗を見せる。選挙区支部の会合でトラス氏は「彼女特有の魅力と厚かましさ」(英紙ガーディアン)で200人をはるかに超える聴衆を見事に説き伏せたのだ。

トラス氏は地元紙の取材に正々堂々と「私は過去から多くを学びました。私たちは結婚10周年を迎えようとしています。このことがあってから私たちはずっと強くなりました。不倫については申し訳なく思っています。あれは間違いでした。私が謝罪する相手は夫です。私たちは今、仲直りし、そこから前に進んでいます」と答えている。

保守党の刷新を図りたいキャメロン氏にとっても、若き女性候補トラス氏を守旧派から守り抜かなければならない理由があった。守旧派でさえ、トラス氏の「鉄」のようなタフさの前に引き下がらざるを得なかった。トラス氏は集合写真を撮られる時、必ず他の人より前に出る。その厚かましさのかいあって英国政治のトップに上り詰めた。

■トラス氏の首相就任は嵐の船出だった

エリザベス女王から組閣の命を受けたトラス氏は9月6日、就任演説のため、スコットランドからダウニング街10番地の首相官邸に舞い戻った。お世継ぎ、ジョージ王子の誕生を思い起こさせるほど多くの世界中のメディアが官邸前に陣取った。皮肉にも欧州連合(EU)離脱で外交のフリーハンドを得た英国から世界は目を離せなくなっている。

しかし雷雨で就任演説は屋外ではなく、急遽、屋内で行われる可能性もあった。トラス氏は世界メディアの前でデビューするチャンスを失うかもしれなかった。筆者も官邸前でびしょぬれになりながら、ひたすら雨がやむのを祈り続けた。「1日の中に四季がある」と言われる英国だが、首相就任の取材でびしょぬれになるのは初めての経験だった。

2016年のEU国民投票日の未明にも雷鳴が何度も鳴り響いたことを思い出さずにはいられなかった。魑魅魍魎の保守党政治を生き抜いたトラス氏の政治スキルをもってしても市場の目はごまかせない。英通貨ポンドの対米ドル相場は1ポンド=1.23ドル(8月1日)から一時1.15ドルまで急落した。1976年と1992年(暗黒の水曜日)のポンド危機を予感させた。

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首相官邸前で就任演説を行うトラス首相(2022年9月6日) - 筆者撮影

雨がやみ、官邸のあるダウニング街に到着したトラス氏は「首相として3つの優先課題に取り組む。第一に英国を再稼働する。減税と改革を通じて経済を成長させる。第二にウラジーミル・プーチン露大統領の戦争によって引き起こされたエネルギー危機に対処する。第三に医療サービスを強固なものにする」と誓った。

「嵐がどんなに強くても英国民はもっと強い。力を合わせれば嵐を乗り切れる」と力を込めたトラス氏の最優先課題はエネルギー危機への対処だ。ロシアは制裁が解除されるまで欧州への天然ガス供給は再開しないと宣言。2020年には1サーム当たり10ポンド(約1万6000円)を割っていた英国の天然ガス価格は一時640ポンド(約10万6000円)を突破した。

■減税を断行、消費者物価指数は約40年ぶりの高さに

一般的な家庭の光熱費(上限)は4月に年1277ポンド(約21万1200円)から1971ポンド(約32万6000円)に引き上げられ、10月から3549ポンド(約58万7000円)に値上げされる。トラス氏は400ポンド(約6万6000円)の払い戻しに加え、上限を最大2年間2500ポンド(約41万3500円)に据え置いた。

首相就任初日に財務官僚トップの財務省事務次官の首を切り、エリザベス女王の危篤が発表される直前に1500億ポンド(24兆8000億円)はかかる財政措置を下院で表明するという綱渡りをやってのけた。

これに恒久減税として1.25%の国民保険料引き上げと税率を19%から25%に上げる法人税引き上げを撤回(320億ポンド)、光熱費にかかるグリーン課税を一時停止(110億ポンド)、結婚減税(67億ポンド)。国防費の国内総生産(GDP)比3%への引き上げ(100億ポンド)。年間で総額597億ポンド(約9兆8700億円)の歳出削減か、財源が必要になる。

英政府の歳出は9000億ポンド台からコロナ危機で一時1兆1000億ポンド台に膨らみ、現在は1兆ポンド台で落ち着く。トラス氏の公約を実行に移すにはコロナ危機を上回る財政措置が求められるが、すべて借金で賄われることになる。7月の消費者物価指数は前年同月比で10.1%も上昇。1982年前半以来、約40年ぶりの高さである。

英中央銀行、イングランド銀行は10月に13.3%になると警鐘を鳴らす。10年物英国国債の利回りは20年当時の0.1%から3%台にハネ上がっており、長期金利が上がっている時に政府債務を膨らませるのはとても正気の沙汰とは思えない。すでに多くの専門家が「最大25%に達した1970年代の慢性インフレと同じ轍を踏む」と警告を発している。

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保守党党首選で勝利演説を行うトラス氏(2022年9月5日) - 筆者撮影

■「外交を喧嘩にした女」と呼ばれる日も近い

小泉純一郎元首相は「外交を喧嘩にした男」(読売新聞)と呼ばれたが、「鉄の女2.0」のトラス氏は「外交を喧嘩にした女」と呼ばれるかもしれない。ナンシー・ペロシ米下院議長が訪台したことへの報復として中国が台湾を取り囲んで実弾演習を行った際、外相だったトラス氏は駐英中国大使を呼びつけて中国の真意を問いただした。

トラス氏は外相時代の演説で「日本やオーストラリアのような同盟国と協力して太平洋を確実に守る必要がある。台湾のような民主主義国家が自らを守れるようにしなければならない」と強調した。英紙タイムズは、側近の話としてトラス氏が首相に就任すれば中国はロシアと同列の「深刻な脅威」に位置付けられると報じている。

首相になった暁には中国新疆ウイグル自治区での少数民族弾圧を「ジェノサイド(民族浄化)」と公式に認めると保守党下院議員の集まりで約束したとされる。中国共産党系国際紙「環球時報」は「新首相の対中タカ派姿勢や反中の政治家を外交や国家安全保障担当に任命する恐れがあることから、中英関係に影響が出る懸念がある」との見方を伝えている。

ロシアがウクライナに侵攻する前、トラス氏はセルゲイ・ラブロフ露外相と会談したが、非妥協的なトラス氏との会談をラブロフ氏は「口のきけない人と耳の聞こえない人の会話だった」と皮肉った。戦争が始まると、トラス氏は「ロシアの侵略に抵抗するためにウクライナに行って武器を取ることを望む英国人を支援する」と発言して物議を醸した。

「英国の櫻井よしこ」という表現がピッタリ来るトラス氏は「エマニュエル・マクロン仏大統領は敵か、味方か」と尋ねられ、「首相になったら、言葉ではなく行動で判断する」と答えた。欧州に対してもこんな調子でケンカ外交を続ければ、北アイルランド和平を台無しにする英国のEU離脱を白眼視するバイデン米政権からも愛想を尽かされてしまう恐れがある。

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木村 正人(きむら・まさと)
在ロンドン国際ジャーナリスト
京都大学法学部卒。元産経新聞ロンドン支局長。元慶應大学法科大学院非常勤講師。大阪府警担当キャップ、東京の政治部・外信部デスクも経験。2002〜03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。
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(在ロンドン国際ジャーナリスト 木村 正人)