ハイジャック事件の現場、スターたちの知られざる素顔…なべおさみ氏が語る昭和の芸能界 - BLOGOS編集部

写真拡大

※この記事は2015年12月29日にBLOGOSで公開されたものです

勝新太郎、ハナ肇、森繁久彌の付き人を務め、自らも司会業でお茶の間から絶大な支持を受けたなべおさみ氏。「昭和の芸能界」を生き抜き、その裏も表もすべてを知る同氏が、12月17日に「昭和の怪物 裏も表も芸能界」を書き下ろした。本書の中では、昭和の芸能界で活躍したスターたちの素顔やなべ氏が実際に遭遇したハイジャック事件の全貌などが詳細に記されている。発売されたばかりの本書の読みどころをなべ氏自身に語ってもらった。

勝新太郎、森繁久彌、石原裕次郎…スターたちの知られざるエピソード


-今回の著書「昭和の怪物」では、時代を彩ったスターたちの様々なエピソードや昭和という時代に起きた事件の裏側が明かされていますね。その中でも、なべさんご自身が体験された1974年7月のJAL124便ハイジャック事件のエピソードは、非常に驚きました。

なべおさみ氏(以下、なべ):さすがに、「もういいだろう」と思って、ハイジャックされた機内で起きたことを、今回書きました。あれでも「書かないでおこう」と思っていることの方が多いぐらい。だって、同乗していた、とある芸能人が泣きながら「なべさん、どうすんの~」とすがってきたのを「落ち着け、バカ野郎」って殴ったぐらいだから(笑)。

-最終的には、コックピットに立てこもる犯人と戦う覚悟もあったと書かれていますね。

なべ:そこまで決めないとダメですよ。それぐらい追い詰められた状況だった。その時に協力者を機内で募ったんだけど、手を挙げた8人は全員中小企業のおとっつぁん。だから、僕は思ったよ、どんなすごい名刺の肩書きをもらったって大したことないよと。

そういえば、この間、東京の経営者の集まるクラブで講演をしたんだけど、ここの会長は、現職のメガバンクの頭取。そこで講演した後に、僕は「買ってください」って出したばかりの本を並べて待ってたの。60冊持って行ったんだけど、売れたのは6冊ですよ。

僕がそのクラブのトップだったら「なべさん、いくら売れましたか?」「6冊です」「そうか。残り全部僕がもらうから、おいくら?じゃあ、ここに本を送ってくれる」ってしたと思うよ。でも、彼は何にも言わないで出て行った。

その時、正直「大したことねえ男だな」って思ったの。それに比べて、八百屋のオヤジが僕に「なべちゃん、暮れ困っているんだろ?大したことねえけどよ、今日明日の食い扶持になるだろう」って、ポンと渡されたのを見てみたら数十万あったなんてことがある。そういう親父は何人もいるんだよ。

―勝新太郎、森繁久彌、石原裕次郎といった昭和のスターたちの知られざるエピソードも数多く紹介されています。

なべ:「森繁さんってこういう人だったか」と森繁ファンに、勝新太郎を好きだっていう人間には、「ああ、こうなんだ」っていうのを教えてあげたいなと。

森繁を好きじゃない人間が、森繁さんのすごくいい話を読んだって何も思わないでしょ。だからいろんな人間達を出して、自分が好きな人間の新しい発見をしてくれればいいなと思って書いているんですよ。

「講釈師、見てきたような嘘をいい」ってことわざがある。だから、こんなちっぽけな僕の心を震わせたものを、でっかく膨らませて語っているかもしれないし、でっかいものを、ちっちゃく言っているかもしれない。それは読んだ人間が、どう捉えるかですよね。

今回のエッセイではヤクザを書いていないですし、「カタギでない人」ぐらいの文言しか出て来ないですから、何か賞がもらえるかもしれないと期待しています(笑)。

-芸能プロダクションのトップの方々たちのお名前も随所に出てきます。

なべ:この前、田辺昭知さん(田辺エージェンシー社長)に会った時、「ショウちゃん、俺アンタのこと本に書いておいたからね。事前にゲラなんか渡さねえよ」って言ってやりましたよ。何十年も年賀状のやり取りだけだけど、彼とは同い年で、同じように生きてきているからこそ、裏も表もよく分かっている。

田辺社長は、昔はバンドのリーダーをやっていたわけだけど、そんな時代から現在まで続いている奴といえば、堀威夫さん(ホリプロ創業者)だとか渡辺晋さん(渡辺プロダクション創業者)とか田辺さんぐらいですよ。ほとんどはもう現役を退いたり、亡くなったりで次の時代の子供が事務所やっていますよ。

もしくはマネージャーから経営側にまわった周防さん(バーニングプロダクション社長)だとか井澤健さん(イザワオフィス社長)とかですね。芸能界でへなちょこの存在から始めて、現在まで生き残れる人間というのは、そういませんよ。でも、首領と言われているのは、今の音事協(一般社団法人 日本音楽事業者協会 JAME)。音事協から外れたジャニー喜多川さんにしても、やっぱり僕たちと同じような時代を同じように生きてきたわけですから。

-石原裕次郎、勝新太郎、美空ひばりといった面々が水原弘のために声をかけて、パーティーに1000人近い人を集めたといった話が出てきますが、今考えると、当時よくそれがニュースにならなかったなと思います。

なべ:マスコミなんか誰一人呼んでないですから。だって、3分の1ヤクザだもん。ヤクザの方が、金払いがキチッとしているからっていうんで、電話でガンガン呼んでましたから。

パーティーは15分ぐらいで終わっちゃいましたけど、文句なんか一つも出なかったよ。なんの軋轢もなかったんだから。携帯がない時代だから、いなくなったら連絡取れないでしょ。だから後日、みんないろんな形でフォローしたんじゃないんですかね。そのことで裕次郎さんとひばりさんと勝さんと水原弘の4人の仲が壊れちゃったかっていうと、壊れないんだよね。

あんな話は誰も書いたことも無ければ、覚えているやつもいないかもしれない。まともな奴は知らないし。ヤバイ奴ばっかりだからね。お金集めの“華興行”なんだから、あんなことがまかり通ったんですよね。美空ひばりと関係が深かった山口組の田岡一雄さんなんかはこっそり来てたかもしれない。

「おい、“いい加減”に生きようぜ」

-かつてと比較すると芸能界もかなり窮屈になっていると思いますが。

なべ:確かにそうかもしれませんが、深夜番組はタガを外しすぎている、と僕はそう思います。やっぱり言っちゃいけないことと言っていいことの限界はあるんでね。その線の引き方がもう分からなくなっている。線は引かなきゃダメですよ。

正に今、そういうものが問われている時代なんですよ。ある面は厳しくてやりにくい。「こう言っちゃいけない」「ああ言っちゃいけない」と。僕は、部落解放同盟でも、全日本同和会でも、頼まれて講演に行くから、いろんなことを勉強してなきゃいけない。そういうところで講演するからには、古い古い色んな事例を、僕が調べて把握してなきゃいけない。そんなことは僕の稼業には役に立たない。立たないけど、やっぱりそういうところしっかりしないといけない。

自分の中で、そういう姿勢が出来たのは、今回の本の中でも書いたように落合博満とゴルフをして、彼の話を聞いてからです。そういうちょっとした付き合いでも、そこからいろんな刺激を受けたから、僕はそれ以来ずっと落合に年賀状を出してます。落合は一度もくれないよ。だけど、俺は出している(笑)。

-明大事件(息子であるなべやかん氏の明治大学入試における替え玉受験)の後のテレビ復帰に至るまでの経緯も明かされていますね。

なべ: 明大事件の後、僕の後援会長が「しばらくシンガポールに逃げとけ」と言って、付き人まで連れてシンガポールに行ったんですよ。

そうしたら飛行場に車の迎えが来ていて、よく見たら日本領事館なの。これには僕も驚いたね。僕は明大事件で逃げて来ているのに、領事館が迎えに来ている。ということは、それなりの人間達が手配してくれているということだから。

とりあえず「お越しください」といわれて、領事館に入ったら「今、おもしろいもの見せますから」と。それで待っているとおばちゃんが荷物を持って飛んできて、テーブルに中身をバーっと並べたの。そしたら、全部ニセブランドの腕時計。「なべさん、欲しいものを買いなさい」といわれたんだけど、みんな1000円ぐらい。笑っちゃったよ。「こんなの領事館でやっていいのか、このヤロウ」って言ったんだけど、ああいう機微に触れると、やっぱりいい加減っていうのがいいなと。

だから、僕は今講演のタイトルは全部「おい、いい加減に生きようぜ」です。宗教だろうが、学校だろうが、ビジネスコンサルタント主催だろうが、全部同じタイトル。“いい加減”に生きろと。自動車のハンドリングにはね、遊びが必要なんだよと。「昭和」という時代には、そのいい加減さがいっぱい詰まってました。これを“いいかげん”と捉えるか、 “良い加減”と捉えるかの違いですね。

それは昭和のいいところで、その名残は新聞にもあります。僕が渡辺プロを辞めて、あるプロダクションと揉めて、生かすの殺すのになった時、政界の大物先生に「銀座に行って来い」と言われ、塚本総業ビルに連れていかれた。連れていったのは小針暦二福島交通社長、児玉誉士夫先生(右翼活動家。「フィクサー」などと言われている)の秘書で太刀川恒夫さんだもん。「なべさんは筋を通す方だなあ」と言われたけど、太刀川さんは東スポの社長になって会長になっちゃうわけでしょ。そして、明大事件の時に、家の中まで入り込んで記事を取っていった東スポの酒井さんが今の社長ですからね。

そんな感じですから、生きていて楽しいよ。僕も負けていられないと思うのよ。テレビなんか出れなくたって、どうやっても生きていこうと思ってますから。例えば今、テレビにガンガン出ている人間がね、1人だけになって地方の島に行った時、おばちゃんが駆けてくるか、って言ったら来ないですよ。便所だって借りられない。藪がいっぱいあるんだから野糞してこいって言われちゃうでしょう。

僕はそんな島に行ったって、若い人は気づかないけど、おばちゃんは向こうからきて「アンタ、なべちゃんじゃないけ?なんでここにおると?」ってなるよ。そうすると、俺は中高年にはメジャーだってことですよ。

-最後に読者にメッセージをお願いいたします。

なべ:一番大事なことは、自分の家族とどう協調できるか。今、協調しているかってことですね。自分のお母さんやお父さんを褒めたことあるかと。兄弟でもいいですが、まず褒めるってことを自分の武器に出来る人間にならないとダメだと思います。

小学校や中学校の先生に、今それを教えているんですよ。僕時々、小学校の授業に借り出される時があるんだけど、「一番嫌いな人間を褒めよう」という話をしています。そうしたら、学校が楽しくなるぞと。

今の若い人たちが可愛そうなのは、あらゆるメディアがマイナス面ばかり強調している中で生かされちゃっているから、飲み会でもなんでもパッと集まると、話題がマイナス面なんだね。これは、自分の人生のプラスにはならないね。「あの部長には参ったよな。あの人の頭はどれだけすごいの」みたいな、お互いに人間の優れた部分を言い合っているというのは、すごいプラスになるんだよね。だけど、それを面白くないと思わされちゃっているの。

例えば、この間銀行員から相談を受けたんだけど、そいつは「上司が1日1回僕を責める、『ネクタイのセンスがよくねえな』とか、そんなことばっかり言われる」と言っていました。だから、僕は、「反撃することは簡単だろ」と言ったんです。

「あっ、やっぱりセンスないですか。これ女房のセンスなんですよ。部長のはやっぱり奥さんが選ぶんですか?奥さんの目が違いますね。僕いつも思ってたんですよ。ネクタイを変えるたびにいいセンスだな」って。そうしたら、部長は「ネクタイをセンスない」って言えなくなるでしょう。ただブスッと「面白くねえ」と思っていても、今度は洋服だ、髪型だ、髭を剃ってねえとか毎日毎日言われるでしょうから。髭について嫌味言われたら「本当にすいません、部長は毎日キレイにそって。それだけ早く起きているってことですよね?参った、僕もマネしよう」と言ったら、相手だって悪い気はしないですよ。だから褒めようと。

とりあえず今は褒めていないですよ。だから褒めましょう。誰でもいい。お母さんだろうが、お父さんだろうが、妹だろうが、友達だろうが。イヤな奴だと思うほど褒めると、いいことが起こる。そう思いますね。

プロフィール

なべおさみ
1939年、東京生まれ。本名は渡辺修三。1958年、明治大学演劇科入学後、ラジオ台本などの執筆活動に入る。その後、水原弘とともに渡辺プロダクションに入り、水原や勝新太郎、ハナ肇の付人となる。62年明治大学卒。64年、『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ系列)でデビュー。「安田ぁー!」の決めセリフのコントが人気を博した。68年、山田洋次監督の『吹けば飛ぶよな男だが』で映画主演も果たす。74年に渡辺プロを退社し、森繁久彌の付人になる。78年から『ルックルックこんにちは』(日本テレビ系)内の人気コーナー「ドキュメント女ののど自慢」の司会も務めた。91年、明大裏口入学事件により、芸能活動を自粛。現在は、舞台や講演を中心に活動中。


リンク先を見る
昭和の怪物 裏も表も芸能界
posted with amazlet at 15.12.28
なべ おさみ
講談社
Amazon.co.jpで詳細を見る