このように、どうやら「直感と信頼」の組み合わせが、科学不信の有力な容疑者のようだ。だが、ちょっと待ってほしい。少なくとも「信頼」については、科学不信者ではない私たちも、科学知識を得る際に使っているのではないか。

 測量や調査を行って「地球が丸い」ことを自分自身で証明したという人は、ほぼ皆無だろう。二酸化炭素がオゾン層を破壊して温暖化の原因を作ったという科学的な証明ができる人も少ないはずだ。

 地球が球体であることも、地球温暖化の原因や進化論も、私たちは、学校の教室で教師から教えられたか、メディアを通して国際機関の見解を知るなどのプロセスで知識を得たにすぎない。要は、「信頼」できる人や組織が言っているから、という理由だけで、エビデンスを深く追究することなく「科学的事実」を知識として呑み込む。

 『ルポ 人は科学が苦手』の著者、三井誠さんは、そもそも人類は「科学的に考えるのが苦手」なのではないか、との仮説を立てている。長い人類の歴史の中で、「科学」が登場したのは、ごくごく最近だ。まだ人類は「科学」に慣れていないというのだ。

 原始時代の狩猟採集生活や、その後の農耕社会で、人類は、集団生活を守り、子孫を残すべく生活を営んできた。そこに科学が入り込む余地は、ほとんどない。何より、生き残るために大切なのは「信頼」や「共感」だったはずだ。

 その頃からの思考の習慣が染みついた人類は、今でも、信頼、あるいは共感できる存在からもたらされる知識を、そのまま受け取りがちだ。その信頼・共感する対象が、「科学的には正しくないとされている主張」をする人や組織だったりすると「科学不信」が生まれる。

 だから三井さんは、科学を伝える際に「信頼」と「共感」をもたせる工夫が必要であると説く。これは、さまざまな場面での教育やコミュニケーションにも当てはめられる。

 ところで、「この科学常識は間違っているのではないか」という問いかけは、それ自体悪いことではない。常識を疑うことで科学は進歩し、たくさんのイノベーションも生まれてきた。

 だが、「科学不信」は、それとは異なるのではないか。

 科学者のあるべき態度として「常識を疑う」のは「動的」である。つまり、“常に”疑う習慣を持っているのであり、「これが正解」と満足して止まることはない。「正しい答え」や「真実」などどこにもないと認識した上で、少しでもそれに近づくために、疑い、思考し続けるのだ。

 一方、典型的な科学不信の人々が「常識を疑う」のは「静的」だ。ある事実を「疑う」のは、一度だけだろう。「常識とは異なる新しい“真実”」が見つかれば、それを固定させ「信念」に変える。

 私たちがめざすべきは、正しく「信頼」して知識を得ながらも、常に「違う答えもあるのではないか」と思考すること。そして、それに信頼と共感を加味しながら他者に「伝える」ことに他ならない。

(文=情報工場「SERENDIP」編集部)

『ルポ 人は科学が苦手』
-アメリカ「科学不信」の現場から
三井 誠 著
光文社(光文社新書)
248p 840円(税別)