「まちづくり」はなぜ平仮名なのか? 〜「ゴミ出し」から見える地域社会の本質

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■「まちづくり」とは何か

あいかわらず、全国各地で「まちづくり」が叫ばれていますね。でも、「まちづくりって、何?」と聞かれて、それを具体的に答えることができる人は、けっこう少ないと思います。

ある研究者グループの著書によると、「まちづくり」というのは「都市計画」から発展・変遷してきた言葉だそうです。交通機関や公共施設などの“ハード”をつくり、都市機能としての画一的なインフラを計画的に整備してきた時代から、その環境の中で、市民が地域社会の日々の生活をいかに楽しくて充実したなものにしていくかという“ソフト”が大切な時代に変わってきた、ということのようです。

そこで議論される地域社会とは、漢字の「街」でも「町」でもなく、市民がなんとなく生活している共有空間としての「まち」であり、それを地域ごとにいろいろな方法や考え方で「つくる(創る・造る・作る)」ものであるということから、「まちづくり」は平仮名で定着したのだそうです。つまり「まちづくり」には、従来の都市計画のように正解やパターンはなく、まちやひとの数だけ無数に存在するというわけです。

つまりそこでは、役人主導の「計画」や仕組みよりも、それぞれのまちに暮らす市民の多様な「感覚」が大切になってきます。すると、「まち」というぼんやりしたものを全体的にとらえるのではなく、そこで暮らす「ひと」1人ひとりの存在に注目しなければなりません。いや、「注目」というよりも、具体的に人間同士の関わりを持つということが大切なのでしょう。「まちづくりは現場でおきている!」みたいな。

では、「まちづくりの現場」とは、一体どのようなものなのでしょうか?

■「まち」の最小単位は「近所付き合い」?

前回(http://president.jp/articles/-/18039)ご紹介した、福井県鯖江市の体験移住事業「ゆるい移住」プロジェクトの参加者の1人が、面白いことを教えてくれました。

彼は、「まちづくり」という言葉のあいまいさにごまかされることなく、自分と「まち」との関わりの中で、より現実的で確かなものを捉えようとしていました。そして、彼はそれを「近所付き合いだ」と言いました。

「まち」なんて意識しなくても、近所の人に会えば挨拶するし、お隣からうるさい音がすればストレスを感じます。そして、お互いがご近所にあまり迷惑をかけないように気を配りながら「人間としての付き合い」を積み重ねことによって、自分たちが生活するまちのコミュニティが成り立っている。彼には、「まち」の最小単位である「近所付き合い」をおろそかにして「地域やまちを元気にしたい!」などと言うことが、とても滑稽なことのようでした。

そして彼は、体験移住の期間中、共同生活をしている団地内で「共有」する空間や時間をとても大切にしていました。共有通路の脇の草むしりや、団地の駐輪場に置かれた自転車の整理を黙々と行い、団地で行われるイベントなどにもみんなで参加して楽しんでいました。そして、「よそ者」たちの移住に不安を感じていたご近所の人たちにもすっかり気に入られて、いつの間にか一緒に「宅飲み」を楽しむようにまでなっていたのです。

そんな「近所付き合い」や気配りを、なんか面倒くさいなぁと感じる人もいるかと思います。でも、「まちづくり」なんてそもそも、人間同士の湿度を感じる、ものすごくウェットで面倒くさいものなのだと思います。その面倒くささを楽しめる人だけが、「まちづくり」なるものを考えたり、語ったりすればいいのではないでしょうか。

■「ゴミ出しの場所」という接点

市の事業としての「ゆるい移住」は3月で終了し、彼は他のメンバーと共に、引き続き鯖江市内のアパートで共同生活を始めました。すると今度は、集落内での「ゴミ出しの場所」を地域との“接点”として、ものすごく重視するようになっていました。

情報化社会は、僕たちの暮らしを「個人化」させて分断したと言われています。人に道を訪ねなくてもスマホがあれば目的地にたどり着くことができて、ほとんどの欲しい「もの」や情報は1人でも手に入れることができます。そして、お金を払えばどこでもご飯は食べられるし、電車に乗れば誰ともしゃべることなく自分の都合で移動ができます。

しかし、そんな分断された社会の中でも、人間として生活をしていれば必ず物理的な「ゴミ」が発生します。そして、ほとんどの人はそれを、地域や集落(場合によってはマンション内)ごとの共有スペースである「ゴミ出しの場所」に捨てています。どんなにネット社会が進んでも、そこだけは物理的な距離の「ご近所さん」と共有しているのです。

「ゴミ出しの場所」では、時間がかぶらなければお互いの顔を直接意識することはあまりないかもしれません。しかしその一方で、そこには自分にとってもっとも身近な「まち」の人たちの暮らしぶりが詰まっています。そして、顔が見えないからこそ、ルール違反やだらしない使い方は、非常に悪い心象を生み出します。

都市部の成熟と飽和に伴い、地方のコミュニティの価値が注目されるようになってきました。昔はあたり前だった地域内の「相互扶助」が見直され、市民同士の「交流」や「シェア」が盛んに叫ばれています。でもそれは、別になにか特別な能力や情報を提供しなくてもいいわけです。人間として生活する中で、1人では完結しない社会との接点や共有の場所をすこし丁寧に扱う、ということでいいのだと思います。

「まちづくりを身近なものに!」なんていうスローガンをよく見かけますが、自分の暮らしのごく身近なところに「まちづくり」の入り口や本質がある、というだけのことかもしれません。

(若新雄純=文)