未完の夢に終わった東急線と京急線を結ぶ連絡線構想 横浜・野毛に新駅誕生の可能性もあった800メートルの鉄道延伸計画

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日中戦争から太平洋戦争という先の大戦下の時代。当時の東京横浜電鉄(現・東急電鉄)は、横浜市中区にあった東横線の終点・桜木町駅(2004〔平成16〕年1月廃止)から線路を延伸させて、800m離れた湘南電気鉄道(現・京急電鉄)の日ノ出町駅とを結ぶ「連絡線構想」を企て、鉄道敷設免許を出願した。この計画は、神奈川県庁や横浜市なども巻き込み、調査・検討などに7年の歳月を費やしたものの、時局下での資材調達は相当困難として一度は保留とされ、最終的には“実現見込みなし” として取り下げられた。異なる軌間(レール幅)という課題を抱えていた両線であったが、もし実現していたならば便利な路線になっていたに違いない。今も残る未成線の痕跡をたどりながら、その歴史を振り返ることにしたい。

※トップ画像は、1937(昭和12)年に出願された東京横浜電鉄(現・東急電鉄)桜木町駅と、湘南電気鉄道(現・京急電鉄)日ノ出町駅間とを結ぶ「連絡線構想」を描いた路線計画図=資料/国立公文書館蔵

計画は1937(昭和12)年8月に出願

省線(鉄道省の路線/現・JR)桜木町駅の混雑緩和を目的に、横浜市中区桜木町(桜木町停車場)から同区花咲町・野毛町・宮川町を経て、同区日ノ出町(湘南電気鉄道)へと至る連絡線の建設構想が出願されたのは、1937(昭和12)年8月17日のことだった。実にいまから89年も前の出来事であった。この構想に関係した鉄道会社は、東京横浜電鉄(現・東急電鉄)と湘南電気鉄道(→京浜電気鉄道→現・京急電鉄)だった。

湘南電気鉄道(現・京急電鉄)は、のちに京浜電気鉄道と合併し、現在の京急電鉄の礎となった会社であるが、東京横浜電鉄(のちの東急電鉄)は湘南電気鉄道の株主であり、予期された師弟関係を築いていた。五島慶太ひきいる東京横浜電鉄は、のちに京浜電気鉄道を手中に収め「大東急」を組織するが、この連絡線構想はその布石だったのかもしれない。

連絡線でつながる両社のレール幅が異なっていた由縁は、当初、湘南電気鉄道(日ノ出町〜浦賀など)のレール幅は、東京横浜電鉄や他の私鉄・国鉄(現JR)に多く見られる1067mmを採用する計画だった。しかし、のちに直通運転を行う京浜電気鉄道(品川〜日ノ出町)にレール幅を合わせて、1435mmで開業した。東京横浜電鉄は、連絡線の出願後、新たに新造した電車(モハ1000形→東急デハ3500形)には連絡線の完成を見越して、線路の幅を湘南電気鉄道側に合わせられるような構造の台車(長軸台車)を履かせた。これは、東京横浜電鉄の連絡線構想への本気度が伺え、もしかしたらその後の東急各線の線路幅にも大きな影響を与えていたかもしれない。

桜木町駅〜日ノ出町駅間連絡線の出願記録が記された鉄道省文書。右上に「出願12年8月」の文字が読み取れる=資料/国立公文書館蔵

連絡線構想に基づきレール幅の改軌を想定して“長軸台車”を履いていた東急デハ3500形(旧・東京横浜電鉄モハ1000形)の晩年の姿=1993年、東急・長津田検車区(町田市南成瀬)

戦時下での早期実現は不可能

1941(昭和16)年9月、正式に東京横浜電鉄より地方鉄道敷設免許申請が行われ、これを受けて鉄道省をはじめ神奈川県庁や横浜市では、種々の検討を重ねた。その調査書には「無難な企画路線ではあるが、時局下、資材調達は相当困難が見込まれるため、工事施工認可期間を先延ばし、地元横浜市の意見を聞き入れたうえで免許を下付する」と記されていた。いうなれば「一時保留」である。この文書には、資材に関することは記されていたものの、“線路用地の取得状況”に関しては、何も書かれていなかった。

そして、東横線と湘南線(京浜線との合併前)の連絡を図るのであれば、むしろ東横線の横浜駅と京浜線の平沼駅(かつて京急本線の横浜駅〜戸部駅間にあった駅/1931〔昭和6〕年開業〜1944〔昭和19〕年廃止)間に連絡線を建設したほうが、建設費、建設資材の量は半分以下で足りるとの見解が示され、さらなる検討が必要との意見も出されていた。総評としては、「戦時という情勢下における早期実現は不可能」といった意見が多勢を占めていた。

東京横浜電鉄から1941(昭和16)年9月に地方鉄道敷設免許申請が提出されたときの鉄道省文書=資料/国立公文書館蔵

地方鉄道敷設免許申請に対し、神奈川県庁から出された回答文書=資料/国立公文書館蔵

新駅設置の要望と建設計画の断念

「保留」となった連絡線の建設については、地元横浜市も「社会情勢の急変は著しく実施困難なる事業」という認識でおり、実現のあかつきには地域交通の便に寄与するものとして将来適当の機会に実施することを願っていた。そのうえで、横浜市の中心地帯を通す路線であることから、次のような意見を聞き入れるように東京横浜電鉄へ申し入れを行っていた。

建設する線路は「スラブ式高架線」として街の美観を保ち、その高架下は店舗として利用できる構造とすること、野毛通りに面する出入口を設けた「新駅」を設置すること、鉄道および関連するバスの運営は市の要望を聞き入れること、などであった。

その後、先の大戦の戦局は悪化の一途をたどり、1944(昭和19)年11月になると運輸通信省(当時)は、東京急行電鉄(旧・東京横浜電鉄)に対し、「緊要度を勘案するに時局下では資材の配当困難と認め、本鉄道の実現見込み無きをもって申請書を返付する」旨の通知が発出された。結果、連絡線建設計画は断念せざるを得ない状況となり、東横線と京急線との相互乗り入れという夢は、実現することはなかった。

横浜市から出された要望の一部。「野毛駅」新設に関する一文が記載されている=資料/国立公文書館蔵

桜木町駅〜日ノ出町駅間の地方鉄道敷設免許申請書を東京急行電鉄へ返付した際の鉄道省文書=資料/国立公文書館蔵

未成線跡をたどる

JRと横浜市営地下鉄が乗り入れる桜木町駅と、京急電鉄の日ノ出町駅を結んだ中間地点に位置する横浜の歓楽街のひとつである「野毛町」。まさにここを通る予定だったのが、未成に終わってしまった連絡線なのだ。その存在を知りつつ、何度となく夜の街に繰り出したことがあったものの、ここが未成線跡地だと意識して歩いたことはなかった。鉄分より酒分が勝ってしまったというわけだ。

未成線を追い求めて、さすがに日が暮れてからというわけにはいかないので、明るい時間帯に「花咲町・野毛町・宮川町・日ノ出町」を散策することにした。スタートは桜木町駅から歩を進めた。思えば、東横線の桜木町駅が廃止されたのが、22年前の2004(平成16)年のことなのだが、つい最近の出来事のように思えてならない。駅前は当然、再開発などで未成線の跡などあるわけもなく、駅前を通る国道16号線を渡り、ペデストリアンデッキを通って新横浜通りを越えて花咲町へと向かった。

連絡線の計画線形は、地図上でも確認しやすく、線路敷(路盤)として見込んでいたであろう用地は、現地でもすぐにわかるような地形をしていた。当時の文書には、鉄道用地の取得有無に関しては触れられておらず、用地確保が済んでいたのかまではわからない。ただ、線路予定地だろうと想像できる土地を挟むように、左右には道路が造られており、ここが高架線用地だったのではないかと、頭のなかにパース画を描くことができた。

周辺案内地図に「連絡線未成線跡」を落とし込んだもの。(朱書きは筆者加筆)=2026年6月2日、横浜市中区

駅前のペデストリアンデッキから桜木町駅方向を見たところ。旧東横線桜木町駅があったところから、連絡線は日ノ出町駅へと向かって敷設される計画だった=2026年6月2日、横浜市中区

新横浜通りを越えるペデストリアンデッキから花咲町の連絡線計画線上を見る。正面の白い中層階ビルが建っている場所を挟むように左右に道路があり、この挟まれた場所が連絡線建設予定地だったと想像する=2026年6月2日、横浜市中区

花咲町から野毛1丁目へと線路計画線上に沿って進むと、懐かしい昭和の雰囲気ただようパン屋さんがあった。小腹もすいたので、ふらっと立ち寄りクリームパンとクロワッサンを購入した。お店の人に「鉄道計画」のことを伺うと、「目の前の道路が線路予定地だ」と教えてくれた。しかし、この計画は高架線だったことを考えると、その道幅では狭かろうと思われ、やはり裏手にある道路との間に挟まれたこの場所(土地)が、線路予定地なのではないかと、ひとり想像をふくらませた。

連絡線の計画線上にある「手づくりパン・キムラヤベーカリー」=2026年6月2日、横浜市中区

野毛町1丁目から桜木町駅方向を見たところ。地元の方に伺うと、この道路が線路予定地だと話されていた=2026年6月2日、横浜市中区

野毛本通り越しに連絡線の計画線上をみると、一瞬、鉄道高架橋と見間違うような外観をした建物が目に入る。実際に高架線が完成していたら、こんな感じだったのだろうか=2026年6月2日、横浜市中区

さらに日ノ出町駅方向へ進むと、道路に挟まれた線路計画地と想像される場所も、用地幅を保ったまま続いていた。ここまで整然と用地が連なっていると、もはや疑う余地はないのではないかと思ってしまった。一瞬、鉄道高架橋と見間違うような外観をした建物が視界に入る。いまにもこの上を電車が走ってきそうな雰囲気で、もし連絡線が完成していたのなら、こんな感じの景観だったのかなと見入ってしまった。

そうこうしているうちに、連絡線計画線上にある土地も大岡川に沿いに出た。ここから先は日ノ出町駅方向へとは進まず、大岡川に沿ってそのまま道なりに京急本線との合流地点へと進む。現在の日ノ出町駅とこの合流地点とは、少し離れた位置関係にあるが、当時、どのような形で両線の駅を造る計画だったのか、今となっては知るすべもない。

わずか800mという連絡線は、戦後その建設計画が再燃することはなかった。

宮川町仲通り沿いにある連絡線の計画線上にある駐車場用地とその一角。複線の鉄道高架橋が通るにはちょうど良い空間だ=2026年6月2日、横浜市中区

連絡線の計画線上にある用地は、大岡川に沿って京急本線との合流地点まで進む=2026年6月2日、横浜市中区

この二つの建物のあたりに連絡線が通る計画だったのかも知れない。線路計画地は横浜駅根岸道路を横断して京急本線との合流地点へと進む。右手は大岡川の長者橋=2026年6月2日、横浜市中区

連絡線はこの先で京急本線と合流して終点となる。もし、連絡線が完成していたら、おそらくこのあたりに京急線日ノ出駅と東横線日ノ出町駅とを取り囲む一大ターミナルビルが建てられていたのではないかと想像する=2026年6月2日、横浜市中区

文・写真/工藤直通

くどう・なおみち。日本地方新聞協会特派写真記者。1970年、東京都生まれ。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物に関連した取材を重ねる。交通史、鉄道技術、歴史的建造物に造詣が深い。元・日本鉄道電気技術協会技術主幹、芝浦工業大学公開講座外部講師、日本写真家協会正会員、NPS会員、鉄道友の会会員。

【資料画像】戦前に計画され未成に終わった東急線と京急線の連絡線構想の貴重な資料と未成線現地風景の数々(16枚)