2010年大会は、スペインが初優勝を飾った。 (C)Getty Images

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 北中米ワールドカップが6月11日に開幕を迎える。4年に一度、これまでも世界中のサッカーファンを魅了してきた祭典は、常に時代を映す鏡だった。本稿では順位や記録の先にある物語に光を当て、その大会を彩ったスター、名勝負、そして時代背景などをひも解いていく。今回は2010年の第19回大会だ。

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●第19回大会(2010年)/南アフリカ開催
優勝:スペイン
準優勝:オランダ
【得点王】トーマス・ミュラー(ドイツ)、ダビド・ビジャ(スペイン)、ヴェスレイ・スナイデル(オランダ)、ディエゴ・フォルラン(ウルグアイ):5得点

 スペインが明確なアイデンティティを表現して世界をリードしていた。基盤を成したのはバルセロナの哲学だった。

 バルセロナでドリームチームを築いたヨハン・クライフは、1992年に初の欧州制覇を遂げた。この時20歳で中盤を支配したペップ・グアルディオラが、2008年に古巣に戻り監督に就任。互いの距離を狭めてテンポ良くボールを回して主導権を握り、相手の守備網を切り裂く「ティキタカ」スタイルを磨き上げる。

 バルセロナの基軸はそのままスペイン代表にも転出され、同クラブのカンテラ「ラ・マシア」で育ったシャビ・エルナンデス、アンドレス・イニエスタ、カルレス・プジョル、セスク・ファブレガスらが、シャビ・アロンソ、ダビド・シルバ、フェルナンド・トーレスなどと協演。2008年にはEUROを制し、欧州王者として南ア大会に乗り込んできた。
 
 だがアフリカ大陸初の大会は、2大会前の日韓大会同様に冒頭から番狂わせを用意していた。

 スペインの初戦の相手はスイス。当然序盤から圧倒的にゲームを支配し、ポゼッションは63パーセントを記録し、24本のシュートも試みた。だが流麗なパス回しは逆に「非効率」の落とし穴にはまり、スイスにワンチャンスを活かされて敗戦。バルセロナと比べてしまえば、パスとは別の手段で圧倒的な打開策を持つリオネル・メッシの不在が際立つことになった。

 南アフリカでのワールドカップ開催は、FIFA会長ゼップ・ブラッターの肝煎りで実現した。1998年の会長選で当選できたのはアフリカ票を取り込めたからで、その見返りとしてワールドカップの大陸持ち回りシステムを理事会で通し、2010年大会はアフリカ、さらに4年後は南米で開催されることが決まった。アフリカでは、ほかにモロッコ、エジプトが最終候補に残ったが、FIFA理事会で投票の結果、14票を獲得した南アが、10票のモロッコを抑えた。

 ただし南ア開催には課題が山積していた。何より世界で最も犯罪率が高い国のひとつで、年間で殺人事件が1万8000件、レイプも5万件以上発生し、武装強盗やカージャックなどは日常茶飯事だった。またスタジアム建設、輸送手段や宿泊施設等の準備も遅々として進まず、一時はブラッター会長も代替国開催を検討したほどだった。

 それでも大会期間中は、南ア政府が4万人規模の警察、治安部隊を導入し、軍や民間警備も総動員して通常とはかけ離れた安全空間を創出。ポルトガル代表宿舎が襲われ、各国のメディア関係者が機材を奪われる等の事件は報告されたが、人命に関わるような犯罪は防止することが出来た。
 
 日本代表は、前回大会を終えるとイビチャ・オシムが指揮権を引き継ぎ、2007年秋にはスイスを下すなど成果が挙がり始めていた。ところが同年11月に脳梗塞で倒れ、再び窮地に岡田武史が就任する。「接近、展開、連続」のキャッチフレーズを打ち出し、ハイプレスでのボール奪取からショートパスを駆使した連動を目ざした。

 だがワールドカップ予選は突破したが、限界を超えるような運動量を求めたため強豪国との対戦では失速が顕著で敗戦が続く。大会直前合宿が行なわれたスイス・ザースフェーでは選手間で激論が交わされ、堅守から少ない人数でゴールを目ざす戦い方への軌道修正で意見がまとまり、代表者が監督に直訴したという。こうしてイングランドとのトレーニングマッチでは、従来の遠藤保仁、長谷部誠の2ボランチの後ろに阿部勇樹をアンカーに配す形に変更。敵将のファビオ・カペッロからは「4−1−4−1なのか9−1なのか」と守備的スタイルを揶揄されたが、この試合から中村俊輔が外れてGKは川島永嗣がチャンスを掴み、本番までには本田圭佑のワントップ起用が決まるなど、土壇場で慌ただしくチームは激変した。