「割り箸を何本も穴に入れて」ピアスを拡張していたヤンキー少年→必死の努力を経て大学病院の医師に「キャリアチェンジ」した男性(43)が語る、“悪い遊び”を覚えた10代の記憶〉から続く

 大学病院に勤める医師・澤田政史さん(43)。医師といえばエリートの代表的な職業だが、白衣姿が似合う澤田さんには実は意外な過去があった。若い頃は“悪い世界の人たち”と付き合っていたこともあるという「元ヤン」ドクターなのだ。

【仰天キャリアチェンジ】大学病院で働くエリート医師(43)の「割り箸を何本も穴に入れて」ピアスを拡張していた“ガチヤンキー”時代の写真を見る

 身長という変えられない部分での挫折をきっかけに、勉強に熱中するエリート少年から“ガチのヤンキー”へと180度の変貌を遂げた澤田さん。一時はさらに「悪い世界」に足を踏み入れることも考えたというが、医学への再挑戦を決めたきっかけは何だったのだろうか。ライターの内田朋子さんが詳しく聞いた。(全3回の2回目/最初から読む)


澤田政史医師 本人提供

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将来の夢は「外科医」から「黒人」に

――澤田先生の変貌ぶりに周囲はどんな反応でしたか?

澤田さん(以下、澤田) 自由な校風の学校で、僕が金髪でも「おい、澤田」と言われておしまい。先生はいろいろ察していたと思いますが、呼び出されて指導を受けることはありませんでした。

 母はとても悲しんでいたと思います。でも何も言ってきませんでした。終電近くで帰宅したときも「何してたの? お酒飲んでないよね?」と聞いてくるので、「飲んでない」と答えると、「分かった。明日も学校あるから早く寝なさい」と言うだけ。普通、子どもがお酒を飲んだりタバコを吸っていれば匂いで気づきますよね。見て見ぬふりをしていたのか、優しく見守ってくれていたのか。おそらく後者だったのだと今では思います。

 父も昔からコミュニケーションが得意なほうではないため、僕に強く何かを言うことはなく、「好きにしていいよ」というスタンスでした。

――ご自身は、変わっていく自分をどう捉えていましたか?

澤田 優等生だったときよりも、目の前の山を着実に登っているような感覚があって、不思議と焦りはありませんでした。同級生に対して「俺は勉強だけじゃなくて、もっといろんな世界を知っているのに」と、優越感さえありました。

 当時、出稼ぎで新宿に来ていた黒人の仲間たちとも仲良くしてて、気づけば将来の夢は「外科医」から、「黒人」になっていました。なれないものになってみたいという気持ちからですかね(笑)。当時はゼロか100かという狭い視野でしか物事を捉えられていなかったし、ヤンキーを突き詰めた先にどんな未来があるのか、完全に自分を見失っていたんだと思います。

 幸い中3まで死ぬほど勉強したので、その貯金で勉強はどうにか間に合い、高校はギリギリでなんとか卒業できました。

全身に入れ墨を入れることまで考えた

――大学受験はされたのですか?

澤田 親の手前、医学部に数回挑戦しましたが、受かるはずもありません。浪人時代は雀荘や競輪に通い、勉強はまともにしていませんでした。3浪目はセンター試験の数日前にバイク事故を起こしてしまい、骨が見えるぐらいの激しい裂傷で1カ月の入院となりました。その時は、超ポジティブにその事故を捉え「神様が受験を辞めろと言っているんだ」と思い、受験から離れることにしました。

 母にとって、このときの事故は今もトラウマになっているそうです。救急車のなかから実家に電話をしたので、今も母は電話の向こうで救急車の音がすると、当時の衝撃を思い出してしまうと。

――そのあとはどうされたのですか?

澤田 20歳を過ぎてからはもっと悪い世界の人たちと付き合うようになり、本格的にその世界の人間になるか、一般社会で生きていくか真剣に考えることもありました。そっちの世界にいるなら、全身に入れ墨を入れて決意を固めるつもりでいました。

――結果的にそうならなかったのはなぜでしょう?

澤田 家庭環境だと思います。親にもらった身体に入れ墨を入れることにためらいがありましたし、仮に僕の子どもが、僕と同じような道を行ったら絶対に口を出すし、許さないでしょう。でも両親は何も言わずにずっと見守ってくれました。家から放り出すことなく、育ててくれた。親は裏切れないと思いました。

 とはいえ、その後は家にずっと引きこもり、たまに悪い友達と遊びにいって、バイトして、小銭を稼いでの繰り返し。1年間は本当に何もやっていませんでした。そんな生活をしていたところ、建設会社の社長をしている高校時代の友達のお父さんが、うちで働かないかと声をかけてくれたのです。

社会人になって突き付けられた「受け入れがたい」劣等感

――働いてみて、いかがでしたか?

澤田 不動産関係の仕事も含め、様々なことを経験しましたが、もともと与えられた課題に対し、一つ一つ解決しながら進めていく作業は好きなので、楽しいなと思うこともありました。のちに宅建の資格も取りました。

 一方、社会というのは、僕にとっては劣等感を思い切り突き付けられる場でもありました。人と話していると、雑談で「大学どこなの?」とごく自然に聞かれるのですが、僕が高卒だと分かった途端、マウントを取ってくるというか、空気が変わるのが分かるんです。

 中高生のときは、通っている学校名を伝えたら、「すごいところに行っているね」と言われるのが当たり前で、僕もそれを普通に受け止めていました。それが社会人になって、自分が下に見られる側になった。最初は嫌で、受け入れがたかったです。

 僕には双子の兄がいるのですが、兄は一足先に歯学部へ進学していました。僕がヤンキーをしたり、引きこもったり、社会で劣等感に苛まれている間に、兄は着実に経験を積み、待遇も上がっていく。自分だけが取り残されているように感じました。

放置していた心の中の荷物に向き合う

――何がきっかけで、再び医学部を目指すようになったのでしょう?

澤田 一つは、僕に手を差し伸べてくれた、社長の存在です。豪快で、面白くて、博識で。折に触れて僕の背中を押すような言葉をかけてくれる、僕にとって第二の父のような人です。

 社長はかつて医師を志していましたが、事情が重なり、父親の会社を継ぐことになりました。社長は、僕によく「いつか一緒に医者になりたいな」と声をかけてくれていました。

 小学生の頃に外科医になりたいと思ったのは、単純に父が医者だったからです。でも社会人として働きながら、自分や知人が体調を崩して医療のお世話になるなかで、医師は人の健康を支える素晴らしい仕事だと改めて思うようになっていました。社長と行った旅先で、「きっと医者になれるぞ」と言いながら、彼と一緒にかわらけ投げ(素焼きの小さな皿【かわらけ】を投げて、厄払い・願掛けをする縁起行事)をしたことは、今も忘れられません。

 とはいえ、具体的な行動にはなかなか移せませんでした。心の片隅に、捨てきれないまま置き去りにしている荷物がある――そんな感覚だけがずっと残っていました。

――背中を押したのは?

澤田 転機は28歳のときです。母が人工関節の手術を受けることになり、忙しい父に代わり僕が付き添うことになりました。ところが、医師の説明を受けてもちんぷんかんぷんで、手術の話も頭に入ってこないし、「質問はありますか」と聞かれても何も出てこない。命に関わる手術ではありません。でも、もし僕が医師だったら、状況を理解して、分かりやすく説明して、母を安心させてあげられるのに――。自分が医師にならなかったことが、こういう形で返ってくるのかと、深く胸に突き刺さりました。

 放置していた心の荷物を、今すぐどうにかしなければ。想いが爆発した瞬間でした。今でもその日を覚えています。2011年3月1日。母の見舞いの帰り道、近所の本屋へ参考書を買に行きました。

〈「長年の苦労がやっと報われた」と母は喜んだ…かつては渋谷をヤンキーとして走り回った「元ヤン」ドクター(43)が28歳で医学部受験を決意して夢を現実にするまで〉へ続く

(内田 朋子)