「納得できる環境でプレーしたいんで...自分の一生ですから」 18歳の内海哲也は巨人で投げることだけを見据えていた
流しのブルペンキャッチャー回顧録
第7回 内海哲也(元巨人など)
時のドラフト1位クラスの剛腕、快腕にお願いして、ブルペンでの全力投球を自らのミットで受け、その後に話を聞いて記事にする──。そんな「流しのブルペンキャッチャー」という連載企画が雑誌『野球小僧』で始まったのは、ミレニアムイヤーの西暦2000年のことだった。

高校ナンバーワン左腕と称されていた敦賀気比時代の内海哲也 photo by Sankei Visual
別に画期的な企画を始めようと意気込んでいたわけではない。その年の秋、私はふつうのインタビュー記事を書くため、当時「高校ナンバーワン左腕」と評されていた敦賀気比高(福井)の内海哲也の取材に向かうことになっていた。
その数日前のこと。
「内海って、どんなボール投げるんですかね。受けてみたいですね」
編集長との立ち話のなかで、何気なくつぶやいてしまったひと言が、すべての始まりとなった。
「それ、面白いですね。やっちゃいましょうよ!」
それだけで決まってしまった"企画"が、以降、複数のメディアに広がりながら20数年にわたって、250人近い逸材たちの剛球を受けることになろうとは......その時は夢にも思っていなかった。
なにより最初は、「相手が受け入れてくれるわけがない」と、どこかタカをくくっていた部分もあった。だから、敦賀気比からOKが出たと聞いて、とても驚いた。
「どうぞ」と言われて断るわけにもいかず、何年かぶりにユニフォーム一式をバッグに詰め、福井県敦賀市へ向かった。だが案の定、こちらの意図は先方に伝わっていなかった。
野球部の部長の先生に「あの......着替えはどこでできますか?」と尋ねると、キョトンとした表情をされた。あらためて取材の趣旨を説明すると、「えっ、受けるんですか??」と驚かれてしまった。
そりゃそうだ。元プロや有名選手ならいざ知らず、どこの馬の骨ともわからない40歳過ぎ(当時)のおっちゃんが、突然「ドラフト1位候補のボールを受けさせろ」と言うのだから、当然の反応だろう。
どうやら、編集部からの伝え方がよくなかったようだ。そんなやり取りのさなかに現れた内海だったが、その態度に今度はこちらのほうが驚かされた。
「内海、おまえのボール受けてくださるそうだから、準備しろ」
ちょっとあわてた様子の部長先生の指示にも、「はい、わかりました! よろしくお願いします!」と、まるであらかじめ聞いていたかのように、なんの動揺もなく、こちらに向かってあいさつまでして、悠然とグラウンドへと出ていった。「高校生なのに、腹の据わったヤツだなぁ......」と深く感心したものだ。
【どんな状況でもやるべきことはやる】高校3年秋の、もうすぐドラフトという時期。日が短くなって、放課後のグラウンドはもう薄暗くなってきている。日本海からの冷たい風が吹き抜けるなか、ブルペンで内海が来るのをひたすら待った。
外野後方で走り込み、体をほぐし、ストレッチで関節の可動域を広げている。そんなウォーミングアップを繰り返す内海の姿が目に入る。30分が過ぎ、やがて1時間が経っても......まだブルペンに姿を現さない。
あたりはだいぶ暗くなり、コンタクトレンズの私は次第に厳しい状況に追い込まれる。ハラハラしながらも、こんな寒い中で投げるのだから、十分すぎるほど体を温めて、万が一にも故障することがないように、投手にとっては当たり前の心がけを実践しているだけなんだと気づいた。
「いいピッチャーって、こうなんだよな......」
そうつぶやきながら、内海の意識の高さにあらためて感心したものだ。
そして、待ちに待った内海の立ち投げの初球は、"山なり"のボールだった。
「そりゃそうだ」
ミットを構えた正体不明の男を相手に、いきなり全力で投げるわけにはいかないだろう。こちらだってドキドキだ。この10年ほどは草野球をする程度だったのに、いきなり目の前にあの内海が立っているのだから......。
こちらの様子をうかがうように、ボールの軌道を少しずつ下げてくる。「パチン!」といい音をたてて捕ると、ちょっと力を入れて投げてくれる。そしてまた「パシン!」と音が出ると、またちょっと力を入れてくれる。
ひたすら用心深く、こちらの"腕前"を見極めるかのように、少しずつボールの強さを上げながら、丁寧に、丁寧に投げてくる。「こういう投手を"クレバー"って言うんだな」と、心の中でつぶやきながら、30球も投げてもらった頃にはもう暗くてボールが見えず、こちらがギブアップとなった。
なので、記念すべき「流しのブルペンキャッチャー」の初回は、凄まじいボールに悲鳴を上げながら受けるような場面はなかったのだが、むしろそうした状況だったからこそ、内海哲也の本質の一端を垣間見たような気がした。
【憧れの巨人で後進を育成する日々】「すみません、最初はやっぱり、誰だかわからないので、投げるのも怖かったんですけど、途中でちゃんと受けられる人だってわかったんで、ちょっとだけ力を入れて投げました」
そう語る内海の姿は、まさに泰然自若。高校野球を終えたあと、見違えるように大人っぽくなる球児がたまにいるが、まさにその典型。京都育ちのはんなりした話しぶりでも、その内容には"芯"のようなものがあった。
「もちろん、進路はプロ一本で考えているんですけど、最近よくあるような、指名されたところに喜んで......みたいな気持ちはあんまりないんです。同じ野球じゃないかっていう人もいますけど、球団によっていろんなことが違っていると思いますし、納得できる環境でプレーしたいんで......自分の一生ですから」
当時の内海は、プロに入ることだけを夢見る少年ではなかった。見据える視線は、間違いなく、もっと前を向いていた。
「オカンに......」と言いかけて、「母に......」と言い直した内海は、こう続けた。
「大きな負担をかけてきたんで、いろんな形で恩返しは絶対にせなあかんし、そういう意味では、ほかの選手たちより考えていることが多いかもしれないですね」
その年のドラフト会議が行なわれたのは、取材にうかがってからひと月ぐらい経った頃だったと思う。巨人以外は指名拒否の姿勢をあらかじめ表明していた内海は、オリックスから1位指名を受けた。
入団交渉は難航。オリックスも粘り強く、年を越しても交渉を続けたが、内海の強い思いを崩すことはできなかった。
その後、内海は社会人野球の東京ガスへ進み、3年後の2003年に自由獲得枠で念願の巨人へ入団。西武を含めた2球団で135勝を積み上げ、2022年限りで引退すると、現在は巨人の一軍投手コーチとして、二度の最多勝に輝いた技術と経験を後輩たちに惜しみなく伝えている。
編集長のノリで始まった前代未聞の奇想天外な企画。最初は「イヤだな......」と思ったが、内海を取材してみて、前向きに気持ちが変わっていた。その理由は、100分話し込むよりも、10分ボールを受けたほうが、ピッチャーのことは100倍わかるという実感があったからだ。
ただそうは言っても、おそらく世界で初めての取材手法であり、「ボールを受けさせてくれ」なんて、やっぱり変な話だ。もし私が監督で、そんな話が舞い込んできたら、きっとお断りしている。
事実、その先の数年、10人にお願いして9人に断られるという"イバラの道"が待ち構えていたのである。
内海哲也(うつみ・てつや)/1982年4月29日生まれ、京都府出身。投手。敦賀気比高では2年秋の福井大会、北信越大会で優勝も3年春の選抜は他部員の不祥事により出場辞退。2000年ドラフト1位でオリックスから指名を受けるも入団を拒否し、東京ガスへ入社。03年自由獲得枠で巨人に入団。11年から2年連続で最多勝のタイトルを獲得し、12年には日本シリーズMVPにも輝くなど巨人のエースとして活躍。19年に西武へ移籍し、22年限りで現役引退。西武のファーム投手コーチを経て、現在は巨人の一軍投手コーチを務めている。
