【細田 昌志】桑田真澄に「二刀流」の選択肢があったら…高校時代に桑田と相部屋になった選手が語る「ケタ違いの野球センス」
プロ野球史上最大のミステリー「KKドラフト」から41年、いま初めて明らかになる物語――。あのとき、球界に渦巻く虚々実々に翻弄されたのは桑田真澄と清原和博だけではなかった。脚光を浴びた2人の周縁で、誰が動き、誰の運命が書き換えられたのか。本当の主役は誰だったのか。
連載『1985 英雄たちのドラフト』
第2回「相部屋」(後編)
【前編記事】KKコンビを破った取手二高の主将が59歳になったいま語る「桑田を打てた理由」
「桑田は年上に好かれるタイプ」
1984年8月25日から始まった日韓親善高校野球大会の大阪合宿において、選手団の団長に選ばれた取手二高主将・吉田剛と相部屋になったのは、PL学園のエース・桑田真澄だった。3年生の吉田剛にとって2年生の桑田は「部屋子」だった。
すでに述べたように、甲子園の決勝で、吉田は桑田のストレートをレフトスタンドに放り込む特大アーチを放っている。それから4日しか経っておらず、熱戦の記憶も生々しかったはずだが「すぐに打ち解けたんよね」と吉田は42年前の夏を懐かしむ。
「桑田って人懐っこいと言うか、年上に好かれるタイプで、合宿中も夜遅くまでいろんな話をして」
──例えばどんな?
「そこは高校生だから普通の話よ。学校とか部活の話とか」
──「好きなアイドルがどう」とか「クラスの女子がどうした」とか?
「まあ、そんな感じ。高校生の他愛もない話よ。そんなこんなで打ち解けて、自由時間とか一緒に行動したし」
──ちなみに、そのとき、プロに行くかどうか訊きました?
「そんなん訊かんでもわかるやん。桑田も清原も、ゆくゆくはプロに行くのはわかりきってるもん。何だったら『おい、今のうちにサインくれ』って言ったりして」
渡韓前日の8月30日に西宮市内の大阪ガスのグラウンドで行われた壮行試合において、桑田真澄はホームランを打つなど投打に活躍。大阪・兵庫社会人連合を8対6で破っている。
9月1日から5日までソウル蚕室野球場で行われる予定だった日韓親善試合だが、雨天のため前半2試合が中止、後半3試合のみ行われた。
──ソウルでも桑田真澄と相部屋でしたか。
「いや、ソウルでは違った。投手と野手に分かれてたん違うかな」
──となると、清原和博と一緒だったわけですね。
「そうだけど……清原の記憶は、何か薄いよね」
──何ででしょうね。プロ入り後は同じパリーグの球団に在籍するわけで、近鉄対西武戦とか、顔を合わせる機会は桑田より多かったと思うのですが。
「ただ、今みたいに敵の球団の選手と大っぴらに会話の出来ない時代だったから、近鉄対西武のときとか、試合前にグラウンドで顔を合わせると軽く言葉を交わす程度で」
──そうなんですね。
「あるいは、あいつファースト守ってたから、俺が出塁すると『吉田さん、ナイスヒット』って声をかけてきたりとかはあったけど、それくらいかな」
──ソウルでは投手と野手に分かれて泊まったということは、桑田は石田文樹とも仲良しになったのではないですか。
「もちろん、話したりとかしたとは思うよ。でも、ソウルでも桑田と一緒に夜の街に繰り出した記憶はあるんよ。自由時間があると『吉田さん、吉田さん』って来るしね。かわいい奴で」
──1週間前に激闘を繰り広げたとは思えないですね。
「そうね。あんまり、そういうのは気にしない性格なのかも」
事実、吉田剛と桑田真澄の打ち解けた様子は、当時のスポーツ紙も報じている。
《桑田は帰りのバスで吉田主将のヒザ枕でグーグー。「こいつは本当によくなつく。PLに戻さないで取手に連れて帰るぞ」と吉田がジョークをとばしたが、それも聞こえない熟睡ぶりだった》(『スポーツニッポン』1984年9月2日付)
桑田からの電話
3試合行われた日韓親善試合において、日本代表チームは3対1、4対3、11対1といずれも韓国代表チームを退け、桑田真澄は1、2戦は5番センターでスタメン出場。最終戦のみ先発マウンドに立ち、5回2安打1失点6三振、打っては2ランと、甲子園と変わらず投打に非凡な才能を見せた。──吉田剛は述懐する。
「桑田のバックで守ってみて思ったのは、コントロールがいいからテンポもいいし、打球がどこに飛んでくるかもわかるから守りやすいってこと。『こいつの後ろで守るん楽だなあ』ってつくづく思ったもんね」
「そのときに、少し思ったのは『こいつ、将来は投手と野手のどっちでいくんかな』って。今の大谷翔平みたいに、二刀流とか考えられへん時代だもん。当時の桑田の才能だったら、全然どっちでもいけただろうね」
大阪合宿〜ソウル遠征が終わっても、吉田剛と桑田真澄の関係は続いた。
「取手に戻ってきてからも、ちょいちょい電話で話したりしたんよ。この頃は3年生は部活を引退する時期じゃん。寮から電話をかけるのに遠慮がなかったのもあったと思う」
10月16日には奈良国体も終わり、高校球児としてすべての公式行事が終わると、取手二高主将の吉田剛も退部届を提出。当時は11月下旬に行われていたドラフト会議に向けて、プロ志望者は退部届を出す慣例に従った。
「ドラフト前のこの時期、西武のスカウトが現れて『監督が高く評価してるから』って言うんよ。当時の西武の監督は広岡(達朗)さんで、広岡さんも現役時代はショート。そんな人に認められたわけだから、嬉しくないわけがない。指名されたら、西武に行くつもりでおったんよ」
ドラフト会議直前の11月中旬頃、吉田剛の実家の電話が鳴った。
「もしもし」
電話の主は桑田真澄だった。
「吉田さん、今度、取手に行こうと思ってるんですけど」
【毎週水曜日更新】4月22日配信の第3回に続く
【連載の過去回を読む】
●第1回前編【「高校球児はネクラ集団」…タモリが揶揄した高校球界に突如現れた「ネアカ軍団」の快進撃】
●第1回後編【「桑田にすまんという気持ち」清原和博が2年夏の甲子園決勝で敗れたあとに明かした「胸の内」】
