古代中国に学ぶ4000年変わらない国際関係の「原理」〜戦乱の『キングダム』前史には「外交の時代」があった

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マンガ『キングダム』の舞台でもある中国の「戦国時代」。その前史には、国々が「外交」によって生き残りを図る「春秋時代」があった。離合集散を繰り返し、一見混沌とした古代中国の国際関係を解きほぐすと、たったひとつのシンプルな法則が浮かび上がってくる。

現在の中東やウクライナにも当てはまる、4000年変わらない「原理」とは?

※本記事は落合淳思『「王」の誕生 古代中国文明の戦争・祭祀・階層』(角川新書)から抜粋・編集したものです。

諸侯の自立と独自外交

西周王朝の内乱は長期間におよび、しかも王畿の西側を放棄する結果になった。そのため、東周王朝の平王以降は東方で王位を保ったものの、大きな権力を行使することができなくなった。一方、各諸侯は自律的な外交を展開するようになり、事実上の独立国になっていった。これ以降、諸侯を「国」と呼ぶことがある。

後掲の図表1に、春秋時代(紀元前8〜前5世紀)の主な諸侯を挙げた。この時代の形勢の大きな特徴は、辺境地域に大諸侯が出現したことであり、「◎」で国都を示した。また中原の東半(東周王朝が都を置いた洛邑の東側)には中規模の諸侯が多く、「○」で国都を示した。そのほか、当初は多数の小諸侯が残っていた(そのうち一部のみ「・」で国都を示した)。

春秋時代は、その後の戦国時代(紀元前5〜前3世紀)ほどは戦争が激しくなく、外交によって様々な連合が形成された時代である。最も原始的な「外交」であるが、実のところ現代に通じる要素も少なくない。

なお、春秋時代の基本資料は、『春秋』と『春秋左氏伝』である。『春秋』は同時代資料に近いため信頼できるが量が少なく、『春秋左氏伝』は量は多いが同時代資料ではないため必ずしも信頼できないという、異なる特徴がある。そのため、春秋時代を分析するにあたっては、基本的には『春秋』を使いつつ、『春秋左氏伝』のうち比較的信頼できる地の文を併用するという形になる。

周王朝の衰退

西周末の内乱に勝利した平王が王畿西部の支配を断念して洛邑を正式に首都としたのは、内乱発生から30年以上を経た紀元前737(あるいは738)年である(『繫年』による)。そして、平王は紀元前720年に死去したが、太子が夭逝していたため、孫の桓王が後を継いだ。

この頃に執政大臣を務めていたのが、周王室の分家である鄭の荘公であった。桓王よりも年上であるだけではなく、王畿内で大きな権力を持っており、王から自立する傾向にあった。西周代末期の「弱い周王と強い上級貴族」という構造が残っていたのである。

その状況において、桓王は荘公の領地に干渉し、さらに大臣資格の停止におよんだ。こうして両者の対立は決定的となり、紀元前707年に桓王は衛・陳・蔡の三国の軍隊を率いて鄭を攻撃した。これが繻葛の戦いであるが、逆に鄭が勝利する結果となった。

その後、鄭は狭くなっていた王畿をさらに分割して自立し、正式に諸侯になった[松井2002]。なお、図表1は鄭が自立した後の状態を示している。一方、周王の政治的権力の衰退は決定的となり、これ以降は伝統的権威を保持するだけになった。

諸侯間の会盟と戦争

周・鄭の抗争と並行して起こっていたのが中原東半の外交と戦争である。春秋時代の外交においては、諸侯間で「会盟」がおこなわれることがあった。「会」は会合すること、「盟」は盟約(軍事同盟)を結ぶことを意味する。ただし、会合はするが同盟は結ばないこともあり、その場合は単に「会」と呼ばれる。

『春秋』や『春秋左氏伝』の記述は、紀元前722年に始まる。最も早い時期の紀元前722〜前710年における主な諸侯間の会盟・戦争の記録を抜き出すと、図表2のようになる(便宜上、小規模の諸侯や野蛮視された夷狄は省略した)。

このように列記しても、関係する国が7ヶ国と多いため、国際関係はすぐには判断が難しいだろう。また関係の変化もあり、例えば、魯は当初は鄭と敵対していたが、紀元前717年には鄭と和睦している。

しかし、一貫して重要な関係があり、それは鄭と宋との敵対関係である。もう一度、図表2を見ると、多くの戦いに鄭と宋(一覧表では太字にした)が関係しており、しかも両者は基本的に敵対している。紀元前716年のみ一時的に和睦したが、紀元前713年の戦いでは再び敵対しており、互いに協力国とともに相手を攻撃している。

そのため、各々の諸侯が鄭と宋のどちらに加担しているか(そして敵対しているか)を見ることで、おおよその関係が把握できる。例えば紀元前719年における宋と鄭の戦いでは、宋の連合国が多く、鄭との友好国は前年に会盟した斉だけであるため、「鄭・斉vs.宋・魯・衛・陳・蔡」という構造になる。また、紀元前713年の段階では双方に同盟国があり、また陳は紀元前716年の和睦関係が残っているため、「鄭・斉・魯・陳vs.宋・衛・蔡」という構造である。

このように、春秋時代初期の複雑な国際関係を理解するうえでは、敵対関係を把握することが重要である。

外交は敵対関係を軸とする

春秋時代初期に限らず、国際間の外交は、中心となる敵対関係を軸とすることが多い。近現代の例を挙げると、戦後の冷戦では、アメリカとソ連(当時)の対立が軸となっていた。また、第二次世界大戦はやや複雑であるが、ドイツとフランス・イギリスの対立、および日本とアメリカの対立が軸となった。

そして、軸となる国以外の各国も、それぞれの利害によってどちらかの側に参加することで、「両陣営」が形成されることになる。つまり、先に友好関係があって、そのうえで非友好国と敵対するのではなく、先に敵対関係があって、そのうえで「敵の敵は味方」という理由で同盟関係が発生するというのが基本なのである。

模式的に考えてみたい。仮に、A国とB国の対立が軸であるとする(以下、模式図は図表3を参照)。そこにC国が参加する場合、「より利害の対立が大きくない方と同盟する」という形になる。もしA国と多少の利害の対立があったとしても、B国との対立がより大きければ、「敵の敵」はA国になるので、それと同盟することになる。一方、B国からすれば、C国は自身が敵対するA国の側についたのであるから、「敵の味方は敵」という関係になる。同様に、次に参加する国もどちらかの側につくことで、「A国陣営」と「B国陣営」が形成されていく。

このように、基本的に国際関係は「敵」のほか、「敵の敵は味方」という関係で構築される。そのうえで、「敵の味方は敵」や「味方の敵は敵」、あるいは「味方の味方は味方」などの関係が成立していくことになる。

現代においても、日米同盟が長く続いているのは、アメリカが日本を軍事的保護国にしているという面もあるが、それよりも、冷戦時のソ連、そしてその後の中国と、共通の敵が存在していることが要因である。結果的に長く「敵(ソ連・中国)の敵(アメリカ)は味方」という関係が続いているということに過ぎない。今後、もし利害関係が変化すれば、同盟関係も変化することになるだろう。

逆に、第二次世界大戦末期には、ソ連が日ソ中立条約の失効以前に日本を攻めた(条約の不延長はすでに通知していた)が、ソ連からすれば、独ソ不可侵条約が守られている間はともかく、独ソ戦が始まってからは「敵(ドイツ)の味方(日本)は敵」ということになる。道義上の善悪という点は問題になるが、国家の方針としては、ごく当然のことである。当時の日本(大日本帝国)は、ソ連に対して対米講和の仲介を期待したという[庄司2010]が、ドイツが降伏するまで同盟を守った日本をソ連が敵と見なすという発想に至らなかったのは、国際関係に対する無知と言わざるを得ない。

図表制作:本島一宏

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〈参照文献一覧(著者の五十音順)〉

小倉芳彦 訳(1988〈〜1989〉)『春秋左氏伝』岩波書店

顧棟高/呉樹平・李解民 点校(1993)『春秋大事表』(点校本)中華書局

庄司潤一郎(2010)「戦争終結をめぐる日本の戦略」『平成21年度戦争史研究国際フォーラム報告書』防衛研究所

松井嘉徳(2002)『周代国制の研究』汲古書院

李学勤 主編(2011)『清華大学蔵戦国竹簡(貳)』中西書局

◆略歴◆

落合淳思(おちあい・あつし)

1974年、愛知県生まれ。立命館大学大学院文学研究科史学専攻修了。博士(文学)。現在、立命館大学白川静記念東洋文字文化研究所客員研究員。専門は甲骨文字と殷代史。主な著書に、『甲骨文字辞典』(朋友書店)、『漢字字形史字典【教育漢字対応版】』(東方書店)、『殷─中国史最古の王朝』『漢字の字形─甲骨文字から篆書、楷書へ』(以上、中公新書)、『甲骨文字の読み方』(講談社現代新書)、『古代中国 説話と真相』(筑摩選書)、『部首の誕生 漢字がうつす古代中国』(角川新書)などがある。

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