『ばけばけ』は間違いなく“スバラシイ” 脚本・ふじきみつ彦が挑み続けた“なにげない日常”
終わってみて思うのは、朝ドラことNHK連続テレビ小説『ばけばけ』はこれまでの朝ドラとはかなり違うテイストの意欲作だったということだ。最終回直前までヒロイン・トキ(髙石あかり)が言い方は悪いが夫に寄生し日本、あるいは家庭に縛り付けた妻という役割だったことを突きつけるとは前代未聞だろう。
参考:髙石あかり×トミー・バストウ×ふじきみつ彦、『ばけばけ』全話を終えて感謝のコメント
いやこれ、筆者的には褒めている。最終的には夫ヘブン(トミー・バストウ)との愛の日々を確信し『思ひ出の記』を執筆して名誉挽回を果たす。とはいえあんまりすぎて。でもそこが筆者はおもしろく感じた。
トキのモデル小泉セツとヘブンのモデル・小泉八雲との長男・一雄が書いた『父小泉八雲』を読むと、セツが文章をほかの人に整えてもらったことを隠そうとしたり、わりとヒステリックだったり、素朴な人だったようなのだ。一雄が書いた母セツ像から考えると、夫を縛り付け経済的に依存しまくったという人だった可能性もなくはない気がしてくる。ドラマはそこに光を当てたと考えるとそれはそれでおもしろい(あくまで想像です)。
人間は一緒に暮らせば大なり小なり相手に合わせることになる。その結果、どちらかが忍耐する比重が大きくなりかねない。『ばけばけ』ではヘブンがトキに縛られ(和装ではなく洋装を強いるなど)ながらも、そんなトキを愛おしく思い、彼が縛られることを楽しんでいた。「フロックコート」を「フロッグコート」と言い間違い続けるトキがヘブンはたまらなく好きだったという、ふたりだけにしかわからない関わりはとてもすてきだ。長らく朝ドラを定点観測し続けている筆者の認識ではBK(大阪制作)の朝ドラは最終回ですべてを凌駕する渾身の技を決めてくることがよくあって、『ばけばけ』もそうであったと思う。そのなかでもとりわけ見事なまとめかただった。
夫を縛りたがりのヒロインがいてもいい。なにも自立するばかりでなくても社会のために戦うばかりでなくてもいい。だが筆者が評価したい『ばけばけ』の良さはそこではない。ここまでは長いアヴァン。ここからが本題である。
『カムカムエヴリバディ』(2021年度後期)や『カーネーション』(2011年度後期)の演出を担当した叙情派・安達もじりがNHKを辞めて筆者はディレクター不在を心配していた。だが村橋直樹がチーフディレクターとして東京から異動したことで『ばけばけ』の絵作りのクオリティは申し分のないものだった。藤沢周平の世界のような世話物のビジュアル化に何度しびれたことか。ヘブンが感動した松江の朝、宍道湖の夕日の前で手をつなぐトキとヘブン、錦織(吉沢亮)の悲劇、トキとヘブンの別れ……どれもすばらしかった。
絵を見て想像が膨らむのが『ばけばけ』のよさで、作り手が意図したかわからないことまでやたらと妄想してしまう。さあここからが今度こそ本題だ。『ばけばけ』では妻トキがヘブンの作家性を理解しない学のない者(トキがそう自覚している)として描かれた分、美しく立ち上ったのが文学的な親友としての錦織とヘブンの関わりだった。生い立ちゆえ他人との関係を希薄にしがちなヘブンと、情が深く他人に対して密度の濃い関わりを求める錦織。その考え方の違いゆえ、一時は哀しい別れをしたが、やっぱり文学を通じてふたりは離れがたい関係にあった。そしてふたりの死の描写には似たところがある。
それは虫の声だ。第122話、ヘブンが亡くなるシーンは30秒を超える無音だった。無音になる前に、虫の声がしている。ヘブンの好きだった虫の声。一方、第95話、錦織が死を目前にしたシーン(正しくは亡くなるシーンではない)、濡れたような瞳の錦織のアップのみで長い無音が続いたあと、虫の声が入る。
虫の声がヘブンと錦織を繋いでいる。虫をこよなく愛したヘブンに錦織は舟形の虫かごを贈った。それを抱えてヘブンは松江から熊本に向かった第95話を観て、筆者は錦織に小泉八雲の『草ひばり』に書かれた虫が恋心を叫ぶように鳴く記述を重ね合わせた。その後、熊本編を経て東京編ではヘブンの晩年こそ籠のなかの虫のように見えてくる。彼を「縛ってしまった」トキによって籠に入れられていたのではないか。よく社会進出できない女性が籠の鳥に例えられるが、ヘブンは籠の虫。
東京のヘブンの書斎は大好きな西日の当たる部屋で彼好みに万事日本風のしつらえになっていた。お気に入りの雑貨の数々が飾られ、自著をはじめとしてたくさんの本が棚に並び、満足のいくものであっただろう。その部屋はふすまよりも格子が細かい障子が多く、欄間も格子だ。松江や熊本よりも木のテイストが色濃く、それが虫籠を思わせる。
八雲の『草ひばり』では彼が飼っていた虫がある日ふいに死んでいることに気づく。昨日まで元気そうに鳴いていたから死ぬなんて思ってもいなかった。その生命のあっけなさ、誰のせいでもない定められた命の終わり。まるでヘブンの死のようではないか。
命の儚さ、誰にでも訪れる命の終わりや別れというものをヘブンは淡々と捉え、自分が死んでも泣かずに笑って子どもたちと遊ぶようにとトキに言い残す。ヘブンは熊本にふいに行くときも「それが人生」的な乾いたことを言っていた。ヘブンは日本に帰化するまで長いこと流浪の人で自身を「通りすがり」と言っていたくらいだから、人生に過剰な夢や希望を持っていなかっただろう。「さみしい」ものが好きで、寺に惹かれていたことからも、人は皆必ず死ぬという死生観を持っていたと考えられる。そんな彼の唯一の憩いがトキだったのだ。
難しいことを考えず、いつも笑っていられて、怪談の楽しみを共有できた人。その彼女の肩に頭をもたせかけて、眠るように亡くなったヘブン。それまでずっとヘブンが執筆で遅くまで起きていて、トキがお先に休んできたのに、ヘブンは「失礼ながらお先にやすませていただきます」とたぶんはじめて言ったのではないだろうか。「失礼なことありません」とトキはやさしく受け止める。この会話が筆者は一番泣けた。死という言葉を使わずに、日常のような、でも日常とちょっと違うふたりだけがわかる、別れのいたわりの言葉。
そして亡くなったヘブンは虫(蚊)になって最終回、トキのもとを訪れるのだ。トキとヘブンの心が通じるきっかけも蚊帳であった。
ヘブンが亡くなった第122話は、この感動シーンだけでなくなにげない日常シーンも凝っていた。花田旅館の平太(生瀬勝久)は達者だろうかと思い出すヘブンとトキ、ふたりの前に座ったフミ(池脇千鶴)と司之介(岡部たかし)も平太の話をしだす。でも4人は一緒に話さない。2組の会話は平太を分岐点に列車のジャンクションのように枝分かれする。並んで走る列車が次第に離れていくように2組の会話は続く。
日常ではこんなふうにあっちとこっちで別の話をしていることがあるものだが、ドラマや映画ではそういう描写はあまり描かれない。それぞれの台詞が聞きづらいし、焦点がぼけるからだろう。近年、舞台ではこういう表現がよくあるのだが、これを朝ドラでやったことこそ、なにげない日常を描くことの最たる挑戦だったのではないか。なにげない日常――食卓などで交わされるたわいない話そのものではなく、それが交わされる現象を描く。スキップもオノマトペも言い間違いも、他者から見てどうでもいいことが、本人たちには楽しい。一寸の虫ならぬ一瞬の「タッタタッタ」(スキップ)にも五分の魂。小さくてあっけないけれど、とても貴重なこと。これがヘブン的な言い方で言えば「スバラシイ」。(文=木俣冬)
