1721年から1917年まで続いたロマノフ王朝の帝政ロシア。暗殺や謀殺など、数々の悲劇が起こったことでも知られる。西洋画の名画を紹介する井上響さんは「当時の絵画は、自分の手で息子を殺してしまったイヴァン雷帝など、権力者の光と闇を描いている」という――。

※本稿は、井上響『ムンクは何を叫んでいるのか?』(サンマーク出版)の一部を再編集したものです。

■血まみれの息子を殺した犯人は?

血まみれの青年が倒れている。

イリヤ・レーピン『イヴァン雷帝と皇子イヴァン』(1883-1885年)(画像=トレチャコフ美術館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

頭から血を流し、力なく横たわる若者。そして、その体を必死に抱きかかえる父親と思しき老人。老人の目は大きく見開かれ、恐怖と絶望に満ちている。

一体何が起きたのか。

誰かが息子を襲ったのだろうか。父親が駆けつけた時、すでに息子は血の海に沈んでいた。そんな場面に見える。老人の表情からは、「なぜ」「誰が」という叫びが聞こえてきそうだ。

では、犯人は誰なのか。

床に目を向けてほしい。1本の杖のようなものが落ちている。

これは王笏(おうしゃく)。皇帝だけが持つことを許された、権力の象徴だ。そして、その先端には血がこびりついている。

この王笏の持ち主は、息子を抱きかかえている老人だ。

つまり、犯人は父親なのである。

■かんしゃく持ちの残忍な「雷帝」

この老人の名はイヴァン4世。16世紀ロシアに君臨した皇帝である。

「雷帝」の異名で恐れられた男。その残虐さは凄まじく、気に入らない貴族を次々と処刑し、街1つを虐殺したこともあったという。

そんな暴君が、最愛の息子を手にかけてしまった。

きっかけは些細なことだった。

息子イヴァンの妻エレーナが、宮廷のしきたりを破り、薄着で過ごしていた。それを見た皇帝は激怒し、彼女を殴打した。妊娠中の彼女を。

これに反発したのが息子イヴァンだった。「なぜ妻を傷つけるのか」と父を罵った。

その瞬間、雷帝の理性は消し飛んだ。

手にしていた王笏を振り上げ、息子の頭を打ち据えた。何度も、何度も。我を忘れて。

そして、気がついた時、息子は血の海に沈んでいた。

■後継者の皇子と妊娠中の妻を殺した

この絵が描いているのは、その直後だ。

息子を抱きかかえる皇帝の表情を、もう一度見てほしい。大きく見開かれた目。浮き出た血管。逆立つ髪。

それは「犯人を捜す父」の顔ではない。自分が何をしてしまったのか、ようやく理解した男の顔だ。

取り返しがつかない。どんなに権力があっても、どれほど後悔しても、息子の命は戻らない。絶対的な権力を持つ皇帝が、その瞬間、完全に無力な1人の老人になっている。

息子イヴァンはこの傷が原因で亡くなった。そして、暴行を受けたエレーナは流産。これにより有力な後継者を失ったロシアは混乱に陥り、やがて王朝は断絶することになる。一瞬の怒りが、国の運命まで変えてしまったのだ。

怒りに任せて振り下ろした一撃は、取り返しがつかない。そして、最も深く傷つくのは、結局、自分自身なのだ。

この絵は、そのことを永遠に語り続けている。

 どんなに権力があっても、どんなに後悔しても、亡くなった命が戻ることはない。

■18世紀ロシアの血塗られた歴史

豪華なドレスを着た女性が、必死でベッドの上に立っている。足元をネズミが走り回る。まるで悪夢のような光景だ。

コンスタンチン・フラヴィツキー『皇女タラカーノヴァ』(1864年)(画像=トレチャコフ美術館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

しかし、よく見るとさらに恐ろしいことに気づく。

部屋全体が水没しているのだ。

ベッドの脚はすでに水に浸かり、奥の窓は破れて濁流が流れ込んでいる。水位は刻一刻と上昇し、彼女に残された時間はわずかしかない。

なぜ彼女は逃げられなかったのか。それはここが牢獄だからである。

では、ドレスを着た女性……そして、皇女ともあろう人物がこんな汚い牢獄で溺死しようとしているのはなぜか?

答えは、18世紀ロシアの血塗られた権力闘争にあった。

■捕らわれたピョートル大帝の孫娘

当時のロシア皇帝は女帝エカチェリーナ2世(在位1762〜96年)。

フョードル・ロコトフ、アレクサンドル・ロスラン『エカチェリーナ2世の肖像画』(1780年)(画像=エルミタージュ美術館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

しかし彼女には致命的な弱点があった。

ロマノフ王朝の血を引いていなかったのだ。ドイツから嫁いできた彼女は、クーデターで夫を廃して即位した「よそ者」だった。

そんな時、パリに衝撃的な人物が現れる。

「私こそ、偉大なるピョートル大帝の孫娘、タラカーノヴァである」

ピョートル大帝といえば、ロシアを列強に押し上げた伝説的皇帝。その直系の子孫を名乗る女性の出現は、エカチェリーナにとって悪夢だった。

真偽は不明だった。しかしこの話が本当なら、正統な血筋を持つ彼女こそが真の皇帝だと主張する者が必ず現れる。

■絶対君主エカチェリーナ2世の決断

エカチェリーナの決断は迅速かつ冷酷だった。タラカーノヴァを騙して捕らえ、ペトロパヴロフスク要塞の地下牢に幽閉した。

そして1777年、運命の日が訪れる。

ネヴァ川が氾濫し、要塞全体が浸水した。

地下牢の囚人たちには、逃げる術がなかった。

この絵が描くのは、まさにその瞬間だ。

■逃げ場のない恐怖を描いた名画

かつて皇女を名乗った女性が、ネズミと共に溺死を待つ最期の時。窓から流れ込む濁流、上昇する水位、そして逃げ場のない恐怖。

井上響『ムンクは何を叫んでいるのか?』(サンマーク出版)

公式記録では、タラカーノヴァは「病死」したことになっている。しかし、この絵が制作された19世紀には、誰もがその「真実」を知っていた。

なぜ皇女は水没する牢獄にいるのか?

それは、権力者にとって「正統性」を主張する者ほど危険な存在はないからだ。

真偽などどうでもいい。脅威は排除する。それが権力の論理だった。

豪華なドレスは、彼女がかつて名乗った高貴な身分の名残。

しかし最期は、ネズミと共に汚水に沈む運命だった。

この絵は、権力闘争の非情さを描いた、ロシア史の暗部なのだ。

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井上 響(いのうえ・ひびき)
美術史ソムリエ、クリエイター
東京大学文学部人文学科美術史学専修卒。「美術館が2割面白くなる解説」というTikTokアカウントをメインに、西洋絵画の背後にある物語や美術史を誰でも楽しめるように発信。2025年5月現在、SNS総フォロワーは19万人を超えている。著書:『美術館が面白くなる大人の教養 「なんかよかった」で終わらない 絵画の観方』(KADOKAWA)。
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(美術史ソムリエ、クリエイター 井上 響)