プロ野球「行く人、来る人」2013

 今シーズン限りでユニフォームを脱いだ宮本慎也は、誰からも称賛される存在だった。ゴールデングラブ賞を10回獲得した高い守備力、2012年には41歳5カ月で2000本安打を達成した。輝かしいのは個人記録だけない。2004年アテネ五輪、2008年北京五輪では日本代表の主将を務め、強烈なキャプテンシーでチームを牽引。また、プロ野球選手会の会長も務め、球界改革にも一役買った。野球に対しての真摯な姿勢は、チームの枠を越えて多くの選手から人望を集めた。

 宮本はPL学園高(大阪)から同志社大を経て、プリンスホテルに進むなど、野球界のエリート街道を歩んできた。そして1994年のドラフトでヤクルトを逆指名しドラフト2位で入団。大きな期待を背負ってプロの世界に飛び込んだ。

 まず宮本が高く評価されたのが守備だった。当時を知る、池山隆寛(現ヤクルト二軍打撃コーチ)は次のように語る。

「とにかく入団当初から守備は抜群にうまかった。ボールに対しての反応の速さ、スピード、そしてグラブさばき。タコの吸盤みたいにグラブにボールが吸いつくんです。当時、名手と言われていた辻(発彦)さんに匹敵するぐらい、モノが違っていました。『いずれ抜かれるな』と、内心思いました」

 宮本が入団した時、池山はヤクルトの不動のショートだった。その池山ですら、宮本の守備力に脅威を感じていたという。それは首脳陣も認めるところで、当時ヤクルトの監督だった野村克也は、守備の負担を減らしバッティングに集中させるため、池山にサードへのコンバートを打診したという。

「けど僕は、まだショートでやれると思ったし、サードに回るのは『まだ早い』という思いもあったので、ショートを守らせてもらったんです」(池山)

 しかし、池山が予言した通り、入団2年目の1996年、シーズン後半から宮本がショートに固定され、池山はサードに回ることとなった。

「足のケガ(アキレス腱痛)を悪化させてしまったこともあったしね。ショートのポジションを奪われたことに関しては、納得していました。(宮本)慎也も成長していたし、これなら安心して任せられるなって。僕にないモノを慎也は持っていたし、僕が持っているモノを慎也はすべて持っていましたから」

 同じく当時チームメイトだった飯田哲也は言う。

「難しいプレイでも、慎也がやると簡単に見えてしまう。他の選手がギリギリ追いつく打球でも、慎也は正面に入って処理できる。一歩目のスタート、ポジショニング、すべてが完璧でした。最後まで守備はチームでナンバーワンでした」

 池山も続く。

「例えば、ピッチャーの頭を超えてセンターに抜けそうな打球があるじゃないですか。その時、捕球したら普通は踏ん張って一塁へ投げるのですが、慎也はクルッと1回転して送球するんです。その方がスピードも落ちないし本当はいいのですが、一度、一塁から目を切って投げるのはすごく難しいんです。だけど慎也は、いとも簡単にそれをやってしまう」

 その一方で、バッティングはどうだったか。打者として一流の証である2000本安打を達成している宮本だが、入団当初はほとんど期待されていなかったという。野村監督も宮本に「脇役に徹しろ」とアドバイスするなど、チームバッティングを命じた。再び池山の証言。

「バッティング練習で、僕らが気持ちよくガンガン打っている時も、慎也はバントや右方向に打つ練習ばかりさせられていた。そんな練習ばかりしていた選手が、まさか2000本安打を達成するなんて、誰も想像できなかったと思います。ただ、慎也にはよく激励のつもりでこう言っていたんです。『打てるようになれば、すぐ1億円稼げるよ』って」

 ヤクルトの不動のショートになった宮本は、守備に磨きをかける一方で、バッティングでも成長のあとを見せるようになる。大きく影響を与えたのが、野村監督が掲げた「ID野球」だった。

「とにかく相手を観察していましたね。いつからか、配球を読んで打てるようになっていました。あのあたり、野球センスの良さを感じますね」(飯田)

「あらゆるデータを参考にした努力家。野村監督の野球を打撃面で一番理解していたのは間違いなく慎也だったし、時間をかけて自分のバッティングを完成させたことが2000本安打や選手生命の長さにつながったと思います」(池山)

 そしてもうひとつ、宮本を大きく変えた出来事があった。それが、西鉄時代は"怪童"と恐れられ、引退後は西鉄、ヤクルト、阪神、近鉄などでバッティングコーチ、監督を務めた中西太との出会いだった。1999年の秋季キャンプで野村監督のあとを継いだ若松勉監督が臨時コーチとして招いたのが中西だった。そこで中西は宮本に「下半身を重視して、ボールを呼び込み、ボールを強く叩くように」とアドバイスした。さらに、「逆方向だけでなく、強く引っ張ってもいいんだ」とも。その甲斐あって、2000年は自身初の3割をマーク。「守備の人」だけではなくなった。

 バッティングで急成長を見せた理由を、池山は次のように分析する。

「普段は、あまり人に悩みを打ち明けることもないんですが、バッティングで疑問があったりするとすぐに訊きに来て、納得すれば受け入れる素直さがありました」

 池山はそう言うと過去を振り返るように、ちょっとはにかんだ表情をみせた。

「慎也がプロ2年目になる時から一緒に自主トレをするようになったのですが、毎年、体を作りこんできて、初日から追い込んで練習していました。若いときから常にコンディションに気を使っていたし、そのあたりも長年やれた秘訣でしょうね。慎也ほど、『野球=仕事』に徹した人間はいませんでした。そうそう、昨年まで慎也が若手を連れて行なっていた自主トレの場所は、じつは僕の代から引き継いだ場所なんですよ。そうやって若手の面倒を見ながら継承してくれるのも嬉しいことです。また裏方さんもすごく大事にするし、きっと脇役としてプレイしてきたからこそ、そういった気遣いができるんだと思います」

『野球』という名のパズルがあったとしたら、宮本は不断の努力でひとつひとつのピースを揃えていった選手だったのだろう。そう思いこちらが言葉を失っていると、池山はニヤリと笑いあることを教えてくれた。

「慎也の引退試合で、僕はつば九郎(ヤクルトのマスコットキャラクター)に絶対フェンスに上げるんだぞって指示したんですよ」

 ヤクルトの選手にとって、右翼席のフェンスによじ登りファンに感謝を伝えるのはステイタスであり、憧れの瞬間だという。

「僕も登ったことがありますが、あれは許された人間しかやってはいけないんです。ヘタに行くと『オマエがなんでやねん!』と突っ込まれるのがオチですから。慎也は2001年の日本一の時はレギュラーで、しかも2番打者としてチームの勝利に貢献しているのに、『まだあそこに登れる選手じゃない』って遠慮したんです。そこで今度こそは登らせたいと、つば九郎をけしかけたんだけど、見たらもう自分から登っていました(笑)」

 宮本はフェンスを登ると金網をまたいでファンに対し「ありがとう!」と叫んだ。そして後に、こう語った。

「あれが一番やりたかった。本当は優勝してやりたかったけど、01年の時はまだそういう選手じゃなかったのでできなかった。あれだけはやろうと決めていた」

 日本一の名脇役が、惜別の雨の中、主役となった最後の一瞬だった。

石塚隆●文 text by Ishizuka Takashi