「じゃんけん負け」で始まった審判人生…W杯初選出の荒木友輔主審が決意表明、評価高めた大一番の秘話「控室に戻って大きな声で叫んだ」
北中米ワールドカップの担当審判員に選出された荒木友輔主審(40)が13日、東京都内のJFAハウスで記者会見を行い、「こうして我々がW杯のピッチに立てるようになったのも日本サッカー協会を始め、Jリーグの方々、我々に関わる皆さんの後押しがあってこういう結果が得られたと思う。そういう方々の思いを胸に、アメリカ、カナダ、メキシコの地で我々にできることを精一杯やっていきたい。少し長い大会になるが、2人で力を合わせて、他の審判団と協力をしながら大会の成功に向けて頑張って参りたいと思います」と決意を述べた。
1986年生まれの荒木氏は2014年にJ3主審デビューを飾り、16年にJ1主審デビュー。18年からはプロフェッショナルレフェリーに任命され、昨年度は初めてJリーグ最優秀主審に輝いた。17年からは国際審判員としても活動し、23年のU-20W杯で世界大会デビュー。24年1〜2月のアジア杯で評価を大きく高め、W杯審判員候補に日本人で唯一選ばれると、昨年はW杯アジアプレーオフ決勝という大一番にも抜擢され、安定したレフェリングでW杯レフェリーの座を勝ち取った。
荒木主審が審判員を始めたのは都立北多摩高のサッカー部1年生の頃。当時はチームから2人の部員が審判員を担当する必要があり、「じゃんけんで負けたのが一番のきっかけ」だったという。それでも試合担当を続けるにつれて「きっかけは不純なものだったけど、やっていく中で試合を無事に終わらせる楽しさとか、選手が一生懸命にプレーして判定に試合が影響されることなく、お客さんが大きな歓声を上げて無事に90分を終えられるというのが心の中で『今日、審判をしてよかったな』という大きな醍醐味になる」と魅力を認識。法政大進学後には2級審判員の資格を取得した。
大学時代には全日本少年サッカー大会の決勝戦を任され、これが将来へのターニングポイントとなったという。「大きなモチベーションになったし、この世界でもっと上を目指していきたいと思った」。その後はJFAレフェリーカレッジを修了し、大学卒業後は地元の総合型スポーツクラブに勤務する傍ら、審判員としての活動を継続。18年からはPRとして日本のトップを争う存在となった。
国際的な評価はこの2年間で急速に高めてきた。近年、アジアの審判界は中東優位の構図が見られ、前回大会は史上初のW杯担当女性審判の一人となった山下良美主審のみが日本から参加。有力候補とみられていた佐藤隆治主審(現JFA審判マネジャー)も無念の落選に終わった。日本人審判全体が厳しい立場に立たされるなか、荒木主審は先輩の飯田淳平主審、木村博之主審らとともに北中米W杯への決意を共有し合っていたのだという。
「もちろんW杯に行かないといけないという意識はありました。最初のうちは誰が行くのか分からないところもあったので、『日本人の国際審判員の中で誰かが必ずW杯に参加しなければいけない』ということを国際審判員の中で話していました」
荒木主審にとって大きな転機となったのは24年1〜2月のアジア杯だった。よりアジアの中で豊富な経験を持っていた飯田、木村両氏が荒れ模様の試合を立て続けに担当するという不運に見舞われ、序列を大きく落としていたなか、荒木主審は唯一決勝トーナメントの試合も担当。大会後に発表されたW杯候補者リストに日本人で唯一、生き残りを果たした。
JFA審判委員会も荒木主審をW杯に送り込むべく、審判交流プログラムなどを通じてサポート体制を強化。その結果、海外リーグ担当時のレフェリングがFIFAレフェリングダイレクターのマッシモ・ブサッカ氏らの目に留まり、昨年11月には北中米W杯大陸間プレーオフに臨むアジア代表を決めるアジアプレーオフ決勝イラク対UAE戦の担当という大役も任された。
超満員のイラク・バスラで行われたイラク対UAE戦では、後半アディショナルタイムのハンドを巡ってVARが介入するという緊迫した局面もあったが、荒木主審は試合を混乱させることのないまま適切なPK判定を導いた。
実は荒木主審自身にとってこのシーンは悔しい思い出の一つだ。「正直に言えば、(ハンドが)見えなかった自分が悔しかったので、どちらのチームが勝つとか、どういう会場の雰囲気になるというよりは自分が判定できなかった悔しさが大きい。今でも覚えているけど、試合が終わって控室に戻った時に『チクショー!』と大きい声で叫んだのを覚えている。一つ一つの判定でミスをしたら我々の評価が下がることにもつながるし、特に両チームもW杯がかかっていたけど、我々もW杯がかかっている中での判定の正しさを求められていたところだったので、そういう悔しさが自分の中ではあった」。ただ、W杯を争う最終決戦を無事に決着させるのは高難度のタスク。極限状態での堂々たる振る舞いがW杯への道を切り拓いた。
そうしたゲームコントロールのスキルは荒木主審が長年にわたって積み上げてきた確固たる強みだ。「自分の強みでもあるしっかりピッチの中で動いて、自分でベストの判定をするというところ。もう一つはどんなにお客さんが入っても、どんなに選手が興奮をしていても冷静でいられるのは自分の強み。それをいつも出そうと思っていたことがこういう結果になっていると思う。また他の国よりも我々日本人審判が強いのはチームワーク。僕が見えていないものを両副審が必ずサポートしてくれて、お互いに補いながらやってきたのがこういう結果として出てきた。そういう部分でも強みが出せた歩みだった」。選出に至らなかった日本人審判員への感謝も胸に大舞台に立つつもりだ。
「W杯候補者が発表されて周りの面々を見てみた時、やはり実力者というか、AFCの中で大きな大会を担当したことがあったり、FIFAに関わる大きな大会に参加しているメンバーばかりだったので、その中でどのようなパフォーマンスを発揮し、実力を上げていくかという不安はもちろんあったし、いろんな感情があった4年間だった。いま振り返って思うのは、毎試合毎試合無事に終わらせることが一番の近道かなと思っている。一つ一つ、僕の力だけでなく、関わってくれたみんな、特に副審、VAR、第4の審判員始め日本のチームで、一つ一つの試合を無事に終えられたことがこの結果につながったと思っています」(荒木主審)
日本人審判員がW杯に選ばれるのは8大会連続。その一方、主審を割り当てられたのは14年ブラジル大会開幕戦の西村雄一氏が最後となっている。18年ロシア大会に選出されながらも第4審判員のみの担当となった佐藤隆治JFA審判マネジャーは現役引退後の昨年、「なんとかして継続的にピッチに立ってほしい」と日本人審判員の主審担当を熱望しており、W杯での主審割り当てが次の目標となる。
荒木主審も「ここ2大会、日本人が主審として笛を吹く機会がなかったので、僕も自分が主審を担当したいと強く思っている」と力強く決意表明。「ここまでできることはやってきたし、新しい何かが必要かというとそうではないと思っているので、大会までコンディションを調整して、アポイントに向けて全力で臨みたい。次の大会にも選ばれるように今大会で爪痕を残して、次の大会に出られる位置に行って、引き続き帰ってきてからも頑張っていこうと思っている」と意気込んだ。
(取材・文 竹内達也)
荒木主審が審判員を始めたのは都立北多摩高のサッカー部1年生の頃。当時はチームから2人の部員が審判員を担当する必要があり、「じゃんけんで負けたのが一番のきっかけ」だったという。それでも試合担当を続けるにつれて「きっかけは不純なものだったけど、やっていく中で試合を無事に終わらせる楽しさとか、選手が一生懸命にプレーして判定に試合が影響されることなく、お客さんが大きな歓声を上げて無事に90分を終えられるというのが心の中で『今日、審判をしてよかったな』という大きな醍醐味になる」と魅力を認識。法政大進学後には2級審判員の資格を取得した。
大学時代には全日本少年サッカー大会の決勝戦を任され、これが将来へのターニングポイントとなったという。「大きなモチベーションになったし、この世界でもっと上を目指していきたいと思った」。その後はJFAレフェリーカレッジを修了し、大学卒業後は地元の総合型スポーツクラブに勤務する傍ら、審判員としての活動を継続。18年からはPRとして日本のトップを争う存在となった。
国際的な評価はこの2年間で急速に高めてきた。近年、アジアの審判界は中東優位の構図が見られ、前回大会は史上初のW杯担当女性審判の一人となった山下良美主審のみが日本から参加。有力候補とみられていた佐藤隆治主審(現JFA審判マネジャー)も無念の落選に終わった。日本人審判全体が厳しい立場に立たされるなか、荒木主審は先輩の飯田淳平主審、木村博之主審らとともに北中米W杯への決意を共有し合っていたのだという。
「もちろんW杯に行かないといけないという意識はありました。最初のうちは誰が行くのか分からないところもあったので、『日本人の国際審判員の中で誰かが必ずW杯に参加しなければいけない』ということを国際審判員の中で話していました」
荒木主審にとって大きな転機となったのは24年1〜2月のアジア杯だった。よりアジアの中で豊富な経験を持っていた飯田、木村両氏が荒れ模様の試合を立て続けに担当するという不運に見舞われ、序列を大きく落としていたなか、荒木主審は唯一決勝トーナメントの試合も担当。大会後に発表されたW杯候補者リストに日本人で唯一、生き残りを果たした。
JFA審判委員会も荒木主審をW杯に送り込むべく、審判交流プログラムなどを通じてサポート体制を強化。その結果、海外リーグ担当時のレフェリングがFIFAレフェリングダイレクターのマッシモ・ブサッカ氏らの目に留まり、昨年11月には北中米W杯大陸間プレーオフに臨むアジア代表を決めるアジアプレーオフ決勝イラク対UAE戦の担当という大役も任された。
超満員のイラク・バスラで行われたイラク対UAE戦では、後半アディショナルタイムのハンドを巡ってVARが介入するという緊迫した局面もあったが、荒木主審は試合を混乱させることのないまま適切なPK判定を導いた。
実は荒木主審自身にとってこのシーンは悔しい思い出の一つだ。「正直に言えば、(ハンドが)見えなかった自分が悔しかったので、どちらのチームが勝つとか、どういう会場の雰囲気になるというよりは自分が判定できなかった悔しさが大きい。今でも覚えているけど、試合が終わって控室に戻った時に『チクショー!』と大きい声で叫んだのを覚えている。一つ一つの判定でミスをしたら我々の評価が下がることにもつながるし、特に両チームもW杯がかかっていたけど、我々もW杯がかかっている中での判定の正しさを求められていたところだったので、そういう悔しさが自分の中ではあった」。ただ、W杯を争う最終決戦を無事に決着させるのは高難度のタスク。極限状態での堂々たる振る舞いがW杯への道を切り拓いた。
そうしたゲームコントロールのスキルは荒木主審が長年にわたって積み上げてきた確固たる強みだ。「自分の強みでもあるしっかりピッチの中で動いて、自分でベストの判定をするというところ。もう一つはどんなにお客さんが入っても、どんなに選手が興奮をしていても冷静でいられるのは自分の強み。それをいつも出そうと思っていたことがこういう結果になっていると思う。また他の国よりも我々日本人審判が強いのはチームワーク。僕が見えていないものを両副審が必ずサポートしてくれて、お互いに補いながらやってきたのがこういう結果として出てきた。そういう部分でも強みが出せた歩みだった」。選出に至らなかった日本人審判員への感謝も胸に大舞台に立つつもりだ。
「W杯候補者が発表されて周りの面々を見てみた時、やはり実力者というか、AFCの中で大きな大会を担当したことがあったり、FIFAに関わる大きな大会に参加しているメンバーばかりだったので、その中でどのようなパフォーマンスを発揮し、実力を上げていくかという不安はもちろんあったし、いろんな感情があった4年間だった。いま振り返って思うのは、毎試合毎試合無事に終わらせることが一番の近道かなと思っている。一つ一つ、僕の力だけでなく、関わってくれたみんな、特に副審、VAR、第4の審判員始め日本のチームで、一つ一つの試合を無事に終えられたことがこの結果につながったと思っています」(荒木主審)
日本人審判員がW杯に選ばれるのは8大会連続。その一方、主審を割り当てられたのは14年ブラジル大会開幕戦の西村雄一氏が最後となっている。18年ロシア大会に選出されながらも第4審判員のみの担当となった佐藤隆治JFA審判マネジャーは現役引退後の昨年、「なんとかして継続的にピッチに立ってほしい」と日本人審判員の主審担当を熱望しており、W杯での主審割り当てが次の目標となる。
荒木主審も「ここ2大会、日本人が主審として笛を吹く機会がなかったので、僕も自分が主審を担当したいと強く思っている」と力強く決意表明。「ここまでできることはやってきたし、新しい何かが必要かというとそうではないと思っているので、大会までコンディションを調整して、アポイントに向けて全力で臨みたい。次の大会にも選ばれるように今大会で爪痕を残して、次の大会に出られる位置に行って、引き続き帰ってきてからも頑張っていこうと思っている」と意気込んだ。
(取材・文 竹内達也)
