(※写真はイメージです/PIXTA)

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地方出身の多くの若者にとって、上京は単なる移動ではなく「人生のアップグレード」を懸けた挑戦である。しかし、その通行手形として手にした奨学金が、皮肉にも東京での自由を奪う足かせとなる現実がある。「東京へ行けばなんとかなる」という18歳の無邪気な憧れが、10年後の人生の選択肢にどのように影響するのか。29歳女性の事例を通して、奨学金利用者の実態を紐解く。

18歳のときの「軽い決断」

地方出身のAさん(29歳)は、両親共働きの一人っ子として育った。家庭の経済状況が特別に厳しかったわけではない。だが、大学進学の費用を全額親に頼める雰囲気でもなかった。両親から「行くなら自分でなんとかしてくれ」と突き放されたわけでもないが、高卒の両親とのあいだには「行きたいなら、学費は自分でどうにかするものだ」という空気が自然と漂っていた。

Aさんが進学を選んだ動機は、お世辞にも高い志とは呼べないものだ。

「特に学びたいことがあったわけではないし、なりたい職業があったわけでもありません。周りが行くし、就職のためには大学を出ておいたほうがいいかな、くらいの気持ちでした。あとは、東京への憧れ。上京したかったというのもあります」

東京の私立大学の文系学部に進学する際に、彼女は、日本学生支援機構の第二種奨学金を選んだ。Aさんはできるだけ借入額を抑えようと、月額5万円を選択。在学中はアルバイトで生活費を賄いながら、4年間で総額240万円の貸与を受けた。

奨学金があったからこそ、彼女は地元を離れ、東京の大学へ進むことができた。その意味で、奨学金が彼女に「機会」を与えたのは紛れもない事実だ。だが、その機会と引き換えに負った「240万円の負債」が、卒業後の人生をどれほど硬直させることになるのか。返済のシミュレーションをしたことはなく、「就職して働けば返せるだろう」という漠然とした感覚だけがあるなか、18歳の彼女がその重みをリアルに想像することは、あまりに難しかった。

卒業を前に届いた返済開始の通知には、月約1万2,000円という数字が書かれていた。そのときもまだ、それほど重くは感じておらず、「これくらいなら大丈夫だろう、すぐ返せるだろう」という、その程度の認識だった。

当時、それが自分の毎月の生活や将来の選択にどう影響するか、具体的に想像したことは一度もない。その感覚が、あとになって少しずつ揺らいでいくとは、当時のAさんには想像できなかった。

IT系企業に入社後、気がついた現実とのギャップ

就職活動では、「ITは将来性がある」「稼げそう」というイメージから、AさんはIT系企業に絞って活動し、都内のITベンチャー企業に就職した。しかし入社後に実感したのは、「IT=高給」というイメージとのギャップだった。

新卒時の手取りは月18万円ほど。社会人7年目となった現在でも、手取りは月22万円前後に留まる。生活費、家賃、食費、通信費……物価高が進む東京での一人暮らしの出費はかさむ。そこに毎月約1万2,000円の返済が加わる。

「スマホ代より少し高いくらいですよ。ジムの月会費と同じくらい。だから金額としては大きいとは思っていないんですけど……実際には全然見直せていなくて」

スキルアップのための「月3万円のスクール」に通わない理由

現在のAさんの仕事において、スキルアップへの投資は収入に直結する。資格取得や新しい技術の習得、オンラインスクールへの参加それらが転職市場での評価を高め、年収の上昇につながるのだ。

「本当はスキルアップのためにお金を使いたいんです。オンライン講座とか、気になるものはいくつもあって。でも、毎月の支出が積み重なるなかで、なかなか踏み切れないんです。月3万円のスクールも、普通に考えたらそこまで高くないと思うんですけど、固定費がある状態でさらに支出を増やすのが怖くて」

転職も視野には入れている。しかし、実際には動けずにいる。

「転職すればもっと伸びると思うんですが、収入が一時的に下がるのが怖くて動けません。いまの会社なら返済ペースが崩れない。それだけで、ここに留まる理由になってしまっている気がします。副業も考えましたが、リスクを取ってまで動く余裕が、気持ちの上でないんです」

こうした判断の積み重ねが、結果として現状維持を選び続けている。ボーナスが出るたびに、繰上げ返済も頭をよぎるが、「なにかあったときのために」という不安がそれを上回り、毎回見送ってしまうという。

友人にも、恋人にもいえない理由

返済の悩みを誰かに打ち明けることは難しい。

「200万円くらいでしょ、って軽くいわれそうで、あまり話していません。金額が少ないから、逆に大げさにみられそうで」

現在、交際している男性がいる。彼は奨学金を借りていない。結婚を意識しはじめたことで、奨学金のことをいつ伝えるか、ずっと気になっている。

「結婚の話が出る前にいわなきゃとは思っているんですが、タイミングがわからなくて……。お互いの収支の話をするような関係になれば自然といえるのかもしれませんが、自分だけなにかを背負っているような感じがして、言い出しにくいんです」

SNSを開くと、同世代の友人が転職や副業、起業の投稿をしている。その画面をスクロールしながら、Aさんは、自分だけが前に進めていないような感覚にとらわれることがあるという。蓄積された鬱屈は、ある日、思わぬ形で噴出した。

実家の母親から電話があったときのことだ。何気ない「最近どう? 結婚の話は出ているの?」という問いかけに対し、Aさんは唐突に感情を爆発させた。

「私が一番焦っているの! 毎月、お金が引かれるたびに惨めな思いをしてるの、お母さんにわかるわけないじゃない!」

受話器の向こうで沈黙する母に構わず、彼女は泣きだした。電話を切ったあと、激しい自己嫌悪が襲った。進学を決めたのは自分であり、両親もまた決して裕福ではなかったことは理解している。しかし、SNSで転職や起業、海外旅行を楽しむ同世代を眺めるたび、自分だけが「過去の清算」のために足踏みしている感覚を、誰かにぶつけずにはいられなかったのだ。

「少額」が生む、みえにくいキャリアの停滞

Aさんの返済額は生活を破綻させる金額ではない。しかしその「少額」であることが、逆に問題をみえにくくしている。

20代〜40代の貸与型奨学金を利用していた会社員100名を対象としたアンケート調査では、返済により日常的にストレスを感じると答えた人は67%。「転職・挑戦を控えた」が21%、「自己投資を控えた」が25%に上り、7割強が返済の悩みを相談することにためらいを感じているという。

月々1万2,000円という金額は、家計簿の上では些細に見えるかもしれない。しかし、若年層のキャリア形成において最も重要な「リスクテイク」を阻害している事実は深刻だ。自己投資を控えることでスキルアップが遅れ、結果として生涯賃金が上がりにくくなる。この「機会損失の連鎖」こそが、奨学金問題の真の実態といえる。

「なんとなく進学」のツケと、社会が用意すべき「出口」

Aさんの事例は、単なる個人の金銭トラブルではない。複数の要因が絡み合ったことで「停滞」の現状がある。

まず、Aさん自身の選択に「主体的な覚悟」が欠けていた点は、厳しく指摘されなければならない。18歳という若さゆえとはいえ、目的意識の低い進学のために負債を負うリスクを軽く見積もりすぎた。そのツケが、いま、人生の選択肢を狭める足かせとなっているのは事実だ。

しかし、一方で彼女を責めるだけでは解決しない構造的な問題もある。日本の労働市場において、いまだに「大卒」が事実上の採用条件(フィルター)として機能している以上、学生は「進学しないことによる不利益」を避けるために、借金をしてでも大学へ行かざるを得ない。企業は大卒人材というリソースを安価に活用しながら、その獲得コスト(奨学金)には無関心を貫いてきた。

この「個人の覚悟の甘さ」と「社会の採用構造」の歪みが、いまのAさんのような停滞を生んでいるのだ。現在、注目を集めている「奨学金代理返還制度」は、この歪みを解消する一つの手段だ。企業が返済を肩代わりすることで、個人は挑戦への余力を取り戻し、企業は優秀な人材を確保できる。

奨学金が進学の助けになったという「感謝」を、その後の人生で「返済の恐怖」に変えてはならない。それを個人の失敗と切り捨てるのではなく、奨学金利用者のリテラシーを上げること、雇用と教育をリンクさせた「社会全体の出口戦略」として再構築すること。社会として向き合う視点が、停滞を打破する道ではないだろうか。

大野 順也

アクティブアンドカンパニー 代表取締役社長

奨学金バンク創設者