廃止から57年、玉川と渋谷を結んでいた玉電・玉川線 在りし日の貴重画像に驚く渋谷や三軒茶屋の今昔

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玉電(玉川電気鉄道)玉川線の生まれ変わりとして誕生した新玉川線は、長らく沿線住民から「しんたま」の愛称で親しまれていた。2000年に田園都市線に統合され、その名を変えてすでに26年の歳月が経過した。幼い頃の記憶のなかに、新玉川線が建設中のころは国道246号線(玉川通り)が大渋滞し、新玉川線で7分の距離をバスで1時間ほどかけて渋谷駅へたどり着いたことを思い出す。現役時代の玉電を知らない世代からすると、ここに路面電車が走っていたことなど想像もできないほど、現代の街並みは変貌を遂げている。そんな玉電のいまむかしを振り返ることにしたい。

※トップ画像は、廃止まもない頃の玉電(世田谷線)三軒茶屋駅のようす。いまではこのあたりに三軒茶屋交番などが立ち並ぶ=1969年5月、世田谷区太子堂、写真提供/大塚勝利

玉電の生い立ち

玉電(玉川電気鉄道)の創始は、1896(明治29)年に玉川砂利鉄道として玉川(世田谷区玉川)〜三宅坂(千代田区隼町〔はやぶさちょう〕)間の路線免許を願い出たことにはじまる。当時の東京市内は、日清戦争に大勝利し、好景気により土木・建築業界は活況を得ていた。その工事に必要な砂利や砂が不足し、東京都神奈川県の境界を流れる多摩川の砂利を東京市内へと運ぶ狙いがあっての路線免許出願だった。

1902(明治35)年に、渋谷から大山街道(のちの国道246号線)を通り玉川に至る路線敷設免許を取得し、社名を玉川電気鉄道に改称した。沿線となる農村地域の地主や農家を中心に設立したものの、資本金不足となり大都市資本家からの投資で補うようになり、次第に経営権は投資家らに握られてしまう。それだけ砂利輸送は、投資家たちから注目されていたということだろう。

開業は、1907(明治40)年3月から8月にかけて順次、線路を伸ばすように渋谷〜玉川の間を全線開通させた。開業当時は、路面電車15両、附随車(増結用)7両のほか、貨車を20両所有していた。電車は2両連結(1両定員40人)で、さらに貨車を連結して玉川→渋谷へと向かう列車は、満載した砂利輸送も行った。

1907(明治40)年頃の三軒茶屋のようす。三軒茶屋の地名は、大山道(現・国道246号/玉川通り)と登戸道(現・世田谷通り)の分岐するあたりに三軒の茶屋(信楽〔のちの石橋楼〕、角屋、田中屋)があったことに由来する=写真/駒沢小学校80周年記念誌より

ひとつ前の写真とほぼ同じ位置で撮影した現在の三軒茶屋(追分)の様子。高速道路などがある左側が国道246号線(玉川通り)で、右側が世田谷通り=2026年2月13日、世田谷区三軒茶屋

三軒茶屋駅のスタンプには三軒の茶屋が描かれている。1977(昭和52)年4月7日の新玉川線開業を記念したスタンプ帳より=資料所蔵/筆者

トップ画像とほぼ同じ位置から撮影した現況写真。この交番のあたりに1992(平成4)年11月10日まで世田谷線の三軒茶屋駅があった=2026年2月13日、世田谷区太子堂

路線総延長は14.2マイル(21.72km)

玉川電気鉄道は開業当初、いわゆる路面電車のレール幅(軌間)1372mmを意識せず、現在も多くの鉄道が採用しているレール幅1067mmで開業した。その後、1920(大正9)年にレール幅を1372mmへと改軌した。これは、渋谷で接続していた東京市電(のちの都電)と同じレール幅にすることで、砂利輸送のための貨車を市電に乗り入れさせるためでもあった。このころは、沿線に多くの軍事施設が建設され、新興住宅地も増加するなど旅客誘致にも力を入れており、三軒茶屋〜玉川間を複線化して輸送力を向上したのもこの時期だった。

1922(大正11)年には、渋谷〜渋谷橋(渋谷区広尾)間を延長したが、その名残として今は取り壊されてしまったが、東急百貨店の西館と東館を結んでいた通路が、その線路跡だったことはあまり知られていない。1924(大正13)年には、以前に取り上げた記事で紹介した玉電「砧線」も開業し、渋谷橋より先の天現寺橋(港区南麻布)まで天現寺線を延伸し、玉川〜天現寺橋まで直通運転が行われるようになった。

1925(大正14)年になると、世田谷の奥地とよばれた地域の開発を目的として、三軒茶屋〜世田谷(世田谷区世田谷)、次いで世田谷〜下高井戸(世田谷区松原)と今も走り続ける”世田谷線”を開業させた。さらに、多摩川を渡る二子橋の建設費用を30%負担して、道路橋の中央に単線の線路を敷設する権利を取得し、1927(昭和2)年に玉川〜溝ノ口(川崎市高津区)まで溝ノ口線を開業させた。このころになると、渋谷橋〜中目黒(目黒区上目黒)まで中目黒線を延伸するなど、その総延長距離は14.2マイル(21.72km)にも達した。

渋谷駅前にあった砂利積卸場。いまでは写真の後方をJR山手線が走り、その右側に渋谷駅のハチ公口がある=写真/駒沢小学校80周年記念誌より

ひとつ前の写真とほぼ同じ位置で撮影した現在の渋谷駅前(道玄坂からハチ公口方向を見る)=2026年2月13日、渋谷区道玄坂

玉電の”生き残り”世田谷線を走る「玉電復刻カラー電車」。前面には「世田谷線(三軒茶屋〜下高井戸)開通100周年」を祝うヘッドマークが掲出されている=2026年2月13日、世田谷区太子堂

ビルの2階から発車していた玉川線

今は渋谷マークシティの一部となっている場所には、渋谷駅に隣接するように東急百貨店の東横店(2020/令和2年3月31日閉店)があった。その2階には、1969(昭和44)年5月10日まで玉電玉川線の渋谷駅があり、その上の3階からは地下鉄銀座線も発車していた。その昔、北海道から遊びに来た親戚に「デパートの3階から地下鉄に乗る」と説明すると、「地下鉄なのに地上3階?!」と驚かれたことを思い出す。玉電玉川線も“デパートの2階”から発車していたのだから、同じような思い出がある方もいるのではないだろうか。

東急百貨店東横店の建物は、古くは「玉電ビル」といい、1937(昭和12)年から建設に着手した建物だった。当初は地上7階、地下2階として計画していたが、この当時は日華事変の拡大による鉄鋼統制令などの規制を受け、工事は4階までで打ち切られた。そのビル内に、駅を開業させたのは、のちの東急グループ総帥となった強盗慶太の異名を持つ五島慶太氏率いる東京高速鉄道(現在の東京メトロ銀座線の渋谷〜新橋間)で、その開業は1938(昭和13)年12月20日のことだった。玉電渋谷駅は、その翌年となる1939(昭和14)年6月1日に開業した。当時はすでに玉川電気鉄道は、東京横浜電鉄(のちの東急電鉄)と合併して「東京横浜電鉄・玉川線」となっていたが、「玉電」の愛称は廃止(1969/昭和44年)されるまで、多くの利用者に親しまれた。

その後は、1954(昭和29)年に玉電ビルの名称を「東急会館」と改め、増改築などを行って地上12階(R階含む)、地下2階建ての延床面積約47336平方メートル(14319坪)を誇る、渋谷の一大複合ターミナルビルとして君臨した。

東急会館(旧・玉電ビル)完成予想図。中央の建物が東急会館。図の右が恵比寿方向。東急会館工事報告(1955年/東京急行電鉄刊)より=資料所蔵/筆者

夜の玉電渋谷駅で撮影された1枚。正面に写る大きなビルが東急会館(旧・玉電ビル)。電車は80形93号=写真提供/飯島巌コレクション、1969年5月1日

東急会館(玉電ビル)完成当時の2・3階部分を示した平面図。玉電や地下鉄銀座線改札口の位置関係が図示されている。東急会館工事報告(1955年/東京急行電鉄刊)より=資料所蔵/筆者

東急会館(玉電ビル)完成当時のビル全体図。ビルの2・3階に玉電のりば、地下鉄銀座線のりば、が図示される。東急会館工事報告(1955年/東京急行電鉄刊)より=資料所蔵/筆者

昭和〜平成の渋谷駅といえば、床に貼られたカラータイルを思い出す方も多いことだろう。JR渋谷駅中央口から井の頭線へ向かう乗り換えコンコースで=2026年2月13日、渋谷区渋谷

バスターミナルになった玉電の渋谷駅跡

乗り物に興味を抱きはじめた幼少期は、東急百貨店東横店といえば夢のような場所だった。すでに玉電の姿こそなかったものの、2階には“国電”山手線とバスターミナル、3階は営団地下鉄銀座線、そして6階には“おもちゃ売り場”、さらに8階へ行けば「お子様ランチ」にありつける“東横お好み食堂”があった。

2階にあったバスターミナルは、玉電の渋谷駅跡を活用して、1970(昭和45)年5月15日に開業したものだった。今では、その面影はなにもなくなってしまったが、当時は東名急行バス(東名高速道路を通り渋谷駅〜名古屋駅間を運行)や路線バス(品川区役所線)、東急百貨店本店行き無料連絡バスが発着していた。

玉電の駅だったそのスペースは細長く、バスが転回して折り返すことができなかった。そのため、バスの折り返し用として「ターンテーブル」が設置されていた。3分おきにバスの発着が繰り返され、それを飽きずに何時間も見ているものだから、連れ立っていた母親はあきれ返っていたことだろう。

当時は、その場所が玉電の駅跡だったことなど知る由もなく、後年になり改めて訪れてみると、かすかに玉電の面影を見ることができた。それは、架線支持物と呼ばれる玉電に電気を送電するための銅線(架線)を吊るすための鉄柱などだった。現在は渋谷マークシティへと建て替わっており、これらを見ることはできない。近年、東急百貨店東横店を解体した時には、東急会館(玉電ビル)にあった玉電渋谷駅の線路(レール)が出てきたという。

東急百貨店東横店に面していたJR山手線の改札口が「玉川口」だったことは、玉電の名をいまに伝える唯一の名残りだったが、もうその改札口もなくなってしまった。生まれ変わりの「新玉川線」の名も、2000(平成12)年に田園都市線へと統合され消滅しており、玉電の名は人々の記憶から消え去ろうとしている。

渋谷バスターミナル(玉電渋谷駅)があった周囲は一変しており、当時の痕跡などあるわけもない=2026年2月13日、渋谷区道玄坂

渋谷バスターミナルにあったバス折り返し用のターンテーブル=1986年6月、渋谷区道玄坂

東急会館(旧・玉電ビル)に遺されていた玉電遺構「架線引き留め金具」=1986年6月、渋谷区道玄坂

渋谷バスターミナルに遺されていた玉電遺構のひとつ「架線柱」=1986年6月、渋谷区道玄坂

新玉川線が建設中当時の東京急行沿線案内(昭和48年11月版/東京急行電鉄発行)=資料所蔵/筆者

文・写真/工藤直通

くどう・なおみち。日本地方新聞協会特派写真記者。1970年、東京都生まれ。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物に関連した取材を重ねる。交通史、鉄道技術、歴史的建造物に造詣が深い。元・日本鉄道電気技術協会技術主幹、芝浦工業大学公開講座外部講師、日本写真家協会正会員、NPS会員、鉄道友の会会員。

【貴重画像】玉電・玉川線の古写真や廃止直前の思い出写真の数々。玉電渋谷駅の対比写真も。(17枚)