【ばけばけ】“時の人”で親友とギクシャク程度じゃない 「小泉セツ」の悩みは深く暗かった
いよいよはじまるトキとヘブンの家族生活
NHK連続テレビ小説『ばけばけ』では、第16週「カワ、ノ、ムコウ。」(1月19日〜23日放送)で、松野トキ(高石あかり)とレフカダ・ヘブン(トミー・バストウ)の夫婦が一躍、時の人になった。そればかりか、トキの養父母の司之介(岡部たかし)とフミ(池脇千鶴)までが、街を歩くだけで注目されるようになった。
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きっかけは、ヘブンが執筆していた日本滞在記が完成し、家族を中心に完成祝いパーティを開いていたところに、松江新報の記者の梶谷吾郎(岩崎う大)が現れ、ヘブンと松野家の日常を記事にすべく密着取材を申し出たことだった。その結果、「ヘブン先生日録」なる連載がはじまると、一家は毎晩、西洋料理を食べているとか、夫婦はいつも英語で会話を交わしているとか、あることないことが記事に掲載され、トキもヘブンも、それにトキの両親までもが、町中の人から声をかけられるようになったのだ。

こうしたトキを見て、複雑な心境に陥ったのが、トキと幼馴染で一番の友人である野津サワ(円井わん)だった。ずっと同様の長屋住まいだったトキが、いきなり別世界に行ってしまったのを目の当たりにしたサワは、素直に受け入れられず、2人の関係はぎくしゃくしてしまう。その状況が第17週「ナント、イウカ。」(1月26日〜30日放送)でも続き、トキにとってもサワにとっても悩ましい状況となっている。
そんななかで教員資格を取るために勉強に励んでいたサワは、東京から帰ってきた帝大卒の庄田多吉(濱正悟)から声をかけられ、勉強を手伝ってもらうようになる。そうするうちに、サワの心も次第に開いていくようだが、トキへの複雑な感情を吐露したサワに、庄田がかけた言葉が印象的だった。「おトキさんは松江のシンデレラだよ」。
朝ドラだから、2人の結婚が、サワのような幼馴染の感情は別にして、広く市民から「シンデレラ」のように前向きに受け入れられたように描くのは悪くない。ただ、現実には明治中期の、異人を見る機会などほとんどなかった環境での国際結婚は、『ばけばけ』で描かれるほど手放しにはチヤホヤされず、トキのモデルである小泉セツは、『ばけばけ』のトキが抱かないような悩みを抱えることになった。
「洋妾(ラシャメン)」と呼ばれるのが嫌だった
セツは後年、ヘブンのモデルであるラフカディオ・ハーン(のちの小泉八雲)の「洋妾(ラシャメン)」だと、すなわち西洋人の妾だと、後ろ指を指されるのが本当に嫌だった旨を明かしている。当時、西洋人の妾となると、日本人の妾よりはるかに偏見をもたれた。しかもセツはしばらくのあいだ、実際に「洋妾」と呼べる状況にいたから、なおさらだった。
『ばけばけ』のトキは、通いの女中としてヘブンのもとで働きはじめ、ある時期からたがいの心が通い合い、結婚することになった。つまり、トキが「妾」であった時期はない。ところが、セツは明治24年(1891)2月上旬ごろから、ヘブンのもとに住み込みで働き、間もなく事実婚の状態になった。つまり、当初は正真正銘の「洋妾」だったといえる。
だから、『ばけばけ』の錦織友一(吉沢亮)のモデルである西田千太郎も、セツのことを日記に「ヘルン氏(註・ハーンのこと)ノ妾」と書き記した。また、ハーンの私生活を報道した6月28日付「山陰新聞」の記事からして、「ヘルン氏の妾」と表記した。2人は6月22日、松江城の内堀に面した北堀町の旧武家屋敷(現・小泉八雲旧居)に転居しており、このころには2人はかなり心を通わせ、事実上の夫婦に近かったのに、「妾」と記されてしまった。
この年の7月26日から、ハーンと西田は杵築大社(現・出雲大社、島根県出雲市)の近くに逗留し、遅れて2日後にセツが合流した。それから10日ほど経った8月7日、3人は杵築にあったセツの縁者の家に招かれた。この日から西田は日記に、セツのことを「せつ氏」などと書くようになった。逆にいえば、ハーンの親友でセツとも親しく交際していた西田にして、それまではセツのことを「妾」と見ていたのである。街中の偏見はいかばかりだっただろうか、と思う。
「赤鬼が住むから近づくな」
松江でハーンが住んだ界隈は、「赤鬼が住むから近づくな」といわれたこともあったという。西洋人が恐ろしい赤鬼にたとえられているのである。ハーンのひ孫である小泉凡氏はこう書いている。「明治の社会では、外国人はともすると、そうした得体の知れない存在だったのでしょう。それに来日したばかりの八雲が知事に次ぐような高給取りだったことが、地元の人々に複雑な感情を招いた面もあるようです」(『セツと八雲』朝日新書)。ハーンの月給は100円で、いまの貨幣価値でいえば数十万円前後だろうか。
ハーンの没後にセツが語った話が聞き書きされた『思ひ出の記』には、夫妻が熊本に転居してのち、隠岐を訪れた際のこんな話が書かれている。「西洋人は初めてというわけで、浦郷などでは見物が全く山のようで、宿屋の向かいの家のひさしに上って見物しようと致しますと、そのひさしが落ちて、幸いに怪我人がなかったが、巡査が来るなどという大騒ぎがありました」。
当時、西洋人といえば、それほど好奇の目で見られ、しかも「赤鬼」あつかいする人も多かった。当然、その妻も同様の目で見られただろうし、妾となればなおさらで、さらに偏見が加わったということだ。松江を離れてのちの話として、前出の『セツと八雲』にはこんな記述もある。「(註・ハーンは)自分の家に寄宿させ、面倒を見ていた少年が洋妾の唄を歌ったのを聞きとがめ、実家に送り返した、という話も伝わっています」。
「洋妾」と揶揄されることが、セツにとってもハーンにとっても大きな苦痛だったことが伝わるエピソードである。セツを「シンデレラ」にたとえる人など、ほとんどいなかったのではないだろうか。
大都市の匿名性のなかに逃げ込んだ
現在、『ばけばけ』で描かれているのは明治24年(1891)の話で、それから5年後の明治29年(1896)9月、夫妻は東京に引っ越している。帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)の英文学の講師として招かれたからだった。大抜擢だったが、ハーンは必ずしも乗り気ではなかった。
この転身について、セツは『思ひ出の記』に次のように語っている。
「ヘルンはもともと東京は好みませんで、地獄のようなところだと申していました。東京を見たいというのが、私のかねての望みでした。ヘルンは『あなたは今の東京を、廣重の描いた江戸絵のようなところだと誤解している』と申していました。私に東京見物をさせるのが、東京に参る事になりました原因の一つだといっていました」
実際、セツは廣重の錦絵が大好きだったから、東京に惹かれた面もあったのだろう。しかし、セツが東京に住みたかった最大の理由は、おそらく別のところにあった。小泉凡氏は前掲書にこう書く。
「なによりセツは、大都市の匿名性を好んでもいました。地方では当時たいへん珍しかった外国人の妻として心ない視線にさらされることもありました。大都会ならあまり目立たずに暮らしてゆけますから」
「セツは古くからの思考が生きる城下町の松江より、後に長く住んだ東京の方が落ち着いて暮らせました。首都の無名性の中で、のびのびできた人です。もちろん、郷愁の念は抱きつづけていたと思いますが」
セツが松江でハーンと暮らして抱いた悩みは、『ばけばけ』のトキがヘブンと暮らして抱いた悩みよりも、はるかに深くて暗いものだったと思われる。
香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。
デイリー新潮編集部
