栗原恵 山あり谷ありのバレーボール人生 前編

 6月4日に引退を発表した栗原恵。三田尻女子高校1年の時に高校バレー三冠を達成して全国に名を広めると、3年次には全日本に初召集。2度五輪に出場し、2010年の世界選手権では銅メダル獲得の原動力になるなど、長らく日本女子バレーボール界をけん引した。

 高校卒業後はVリーグでも活躍を続け、「プリンセス・メグ」とも呼ばれアイドル的人気を誇りながら、バレーボール選手として成長を目指すことを忘れなかった。その道のりを、栗原本人が振り返る。


17年の現役生活に幕を閉じた栗原恵 photo by Tanaka Wataru

――あらためて、現役生活お疲れさまでした。

「ありがとうございます」

――まずは、栗原さんのバレー人生の原点となった、小学生時代の話から聞かせてください。

「小学生4年生の頃から、父が指導者だった地元(広島県・能美島)のチームでバレーボールを始めました。父は、私が娘ということもあって特別に厳しかったですね。『うまくなってほしい』と思ってのことなのはわかっていますし、家に帰ってからも仕事で疲れているのに練習に付き合ってくれました。時にはケンカもしましたが、そこでバレーボールを大好きになることができたので、とても感謝しています」

――その後は地元の中学校に進学しましたが、2年生の時に兵庫県の大津中学校に”バレー留学”をすることになります。それはどのように話が進んだのでしょうか。

「『もっと本格的にバレーをやってみたいな』という思いが芽生え始めていた頃に、強豪校の大津中学校からお話をいただいていることを両親から聞かされたんです。とても嬉しくて練習見学に行ったら、見学だけではなく一緒にやろうということになって、あまりのレベルの高さに衝撃を受けて家に帰りました。

 大津中に行きたいという気持ちはあったのですが、島でずっと一緒に育ってきた友達や両親とも離れて暮らすことになるので、すごく悩みましたね。なかなか決断ができずに毎日のように泣いていたら、しばらくして母が『行っても行かなくても後悔はあると思うよ。どっちを選ぶかは自分で決めなさい』と話してくれて、私は『じゃあ行く』と泣きながら返事をしたんです」


高校時代は1年生からエースとして活躍 photo by Sakamoto Kiyoshi

――実際に大津中学校に入学してからはいかがでしたか?

「入る直前はワクワク感もあったんですが、人見知りだったので、周りとうまく付き合っていけるかという不安もありましたね。でも、実際に大津中に通うようになってからは、本当にバレー部の練習がハードで、家に帰ったらご飯を食べるだけですぐに寝てしまうという日々が続きました。バレーのレベルはすごく上がったと思うんですけど、それを実感する暇もないくらいに緊張感があって。そこで必死にやっていく中で、コートで感情を表現することに頭が回らなくなっていたかな、と思います」

――それでも中学を卒業後、三田尻女子高校(現誠英高校)では1年生からエースとして活躍しました。気持ちの面で変化した点はありますか?

「高校に入ったばかりの頃は、あまり表情を変えずにプレーしていたんですが、当時のバレー部のコーチだった田渕正美先生(現監督)から『ポーカーフェイスはあまり好きじゃない。そんな顔でプレーしちゃいけないよ』と言われました。そこで、ボールは使わずに、先生が『決まった』と言ったらガッツポーズをしてコートを走り回るという練習から始めたんです。すると自然に、感情が表に出てくるようになりました」

――インターハイ、国体、春高バレーの三冠を達成した頃は、”無敵感”のようなものがあったんでしょうか。

「それはなかったですね。どの大会でも決勝まで行くのが当然という感覚でしたが、『負けられない』というプレッシャーのほうが大きかったです。先生からも『ただ、目の前の試合に集中しよう』と常に言われていたので、余計なことは考えずに試合に臨んでいました」

――そして翌2001年には、高校2年生で全日本に初選出されます。その時の心境はいかがでしたか?

「正直、気が引けていました(笑)」

――「嬉しい!」ではなかったんですね(笑)。

「翌年の日米対抗で代表デビューするんですが、『え、無理です』という感じでしたよ」

――それでも、2003年のワールドカップなどで活躍し、その後も全日本で長くプレーすることになります。先日の引退会見では、現役生活で一番印象に残ったことについて、アテネ五輪出場を決めた2004年5月の世界最終予選を挙げていましたね。

「それまでの全日本の試合は、高校1年生の時と同じように、先輩たちにサポートしてもらいながら一生懸命やるだけでした。2003年はVリーグでの初めてのシーズンということもあり、もがき苦しんだシーズンでしたが、その上で全日本の戦いに臨むことができたことが大きかったと思います。最終予選を戦う中でチームも一試合ごとに結束していって、バレーボールの形が見えてきた大会だったんです。もちろんプレッシャーは大きかったんですけど、思いきりプレーできましたし、振り返ると『楽しめていたのかな』と」

――アテネ五輪の本戦は、予選グループを2勝3敗の4位で決勝トーナメントに進んだものの、準々決勝で中国に敗れて結果は5位。厳しい試合が多かったと思いますが、初めての五輪はいかがでしたか?

「日本は、その前のオリンピック(2000年のシドニー五輪)出場を逃していたこともあって、本当にたくさんの方に応援してもらいました。当時の主将だった吉原(知子)さんが、大会前からミーティングでオリンピックについての話をしてくれていたのですが……私は『オリンピックはすごいもの』というイメージを大きくしすぎていた部分があったのかなと思います。個人としてもチームとしてもなかなか結果が出ず、苦しい、悔しいという思いが強かった大会でした」


自らのキャリアを振り返る栗原 photo by Tanaka Wataru

――アテネ五輪が終わって間もない2004年10月、栗原さんはNECレッドロケッツからパイオニアレッドウィングスに移籍します。その決断をした理由を教えてください。

「高校時代から、パイオニアで指揮を執っていた(アリー・)セリンジャー監督のもとでプレーしたい気持ちが強かったんです。もちろんNECにもお世話になりましたし、Vリーグを1年しか経験していない私がそんな決断をしていいのかなど、さまざまなことを考えました。でも、最後は自分の意思を貫かせてもらい、本当に感謝しています」

――当時パイオニアを率いていたセリンジャー監督は、現役時代にイスラエル男子代表としてプレーし、引退後はアメリカ女子代表やオランダ男子代表を率いて、それぞれ五輪の銀メダルに導いた名将です。栗原さんは、指導者としての魅力をどこに感じたんでしょうか。

「セリンジャー監督の指導はすべてが新鮮でした。例えば、『助走の動き出しが0.8秒速くなったら、トスにバッチリ合う』など、それまで自分になかった感覚から言葉が出てくるんです。やったことがないブロードやクイックも打つことがあって、それを私が『無理です』と言ったら、『日本人はすぐ無理と言う。やってみないとできるかどうかわからないじゃないか。最終的な判断は監督がするからやってみよう』と。そんなことも初めてでしたね」

――新しいタイプの指導に、戸惑うことはありませんでしたか?

「まったく戸惑いはなく、考え方の幅が広がるきっかけになりました。セリンジャー監督は『メグがどう思っているかは、主張しないとわからない。プロでは監督と選手は対等だ。意見交換していいものを作っていくんだから』とも言ってくれたんです。私はずっと監督に対して受け身でいることが多かったんですが、それから『疑問に思ったことは質問してみよう』と思うようになったんです」

――そこからだいぶ先の話にはなりますが、2011年にはロシアスーパーリーグにも挑戦されましたね。ロシアの練習はいかがでしたか?

「『海外のクラブはあまり練習しない』と聞いていたんですけど、ロシアは違いました。組織的な練習やブロックフォローの練習など、日本に近いことをするイメージがすごくあります。あとは、移動時間がすごく長かったですね。寝台列車で12時間くらい移動することも多かったんですけど、その移動時間がチームのお休みという感覚でした」

――それはきついですね。

「そうですね。それまで私は、日本国内の移動も苦手だったんです。首や腰を痛めないようにすごく気を使っていましたから。でも、ロシアリーグから帰ってきたら、『日本って、どこに行くにもこんなに近いんだ』って(笑)。おかげで、移動の苦手意識はなくなりました」

(後編に続く)