これは誰? 18世紀の有名肖像画に描かれた黒人奴隷の少年、研究者が身元を解明

ロンドン(CNN)名高い18世紀の肖像画家、ジョシュア・レノルズによる黒人奴隷少年「ジャージー」の描写は長年、美術史家の頭を悩ませてきた。この少年は誰で、どんな人生を送ったのか――。そもそも少年は実在したのか。
英文化財保護団体ナショナル・トラストによれば、ロンドンの研究者は今回、英政府の公文書や当時の書簡、艦長の日誌を丹念に調べた結果、ついに幾つかの答えにたどり着いた。ナショナル・トラストはロンドンのナショナル・ギャラリーや王立グリニッジ博物館と共同で調査を行った。
絵が完成したのは1748年ごろ。洒落(しゃれ)た身なりの少年――ネイビーブルーのコートに赤いチョッキ、刺繍(ししゅう)入りの白いターバン、真珠のイヤリングという格好だ――は、後に艦長となる若き英海軍大尉ポール・ヘンリー・オーリーを見上げている。
研究者によれば、18世紀の画家は絵を華やかにして主役の高い地位を際立たせる目的で、裕福な白人の肖像画に有色人種を登場させることが多く、時には架空の人物を描くこともあった。
このため「定番表現として考えると、有色人種の人物、つまり黒人のモデルが実在するとは限らない」。CNNにそう指摘するのは、英南西部プリマスにあるサルトラム邸でナショナル・トラストの財産管理人を務めるゾーイ・シアマン氏だ。「だからこそ、それを裏付け、背景にある物語を前面に押し出す作業に着手することが本当に重要になる」
ナショナル・トラストの8日の声明によると、研究者は公文書の中から少年の名前にまつわる様々な詳細を発見。「ジャージー」は姓で、以前の名に代わる一種のニックネームになっていた可能性もあることが分かった。
英プリマス大学の名誉教授で、サルトラムのボランティア研究員を務める歴史地理学者、マーク・ブレイシェイ氏の声明によれば、乗組員の記録簿に「ボストン・ジャージー」という少年のフルネームが記載されていたという。
ナショナル・トラストによれば、少年が「ジャージー」の姓を授けられたのは、オーリーが英仏海峡に浮かぶチャンネル諸島ジャージー島のセントヘリアで生まれたためかもしれない。ユグノー(フランスのカルバン派)だったオーリーの家族は、迫害から逃れてフランスを離れた。イングランドに来る前の少年が米マサチューセッツ州ボストンに住んでいて、そのためにボストンと名付けられた可能性もあるが、ファーストネームの由来は定かではない。
ただ、ボストン・ジャージーの洗礼名はこれとは別だった。10代だった1752年7月30日、おそらくロンドン・ウェストミンスターの礼拝堂で、「ジョージ・ウォーカー」の名で洗礼を受けたとされる。
洗礼証明書には「ボストン・ジャージーと呼ばれる黒人少年、ジョージ・ウォーカーの名で洗礼を受ける。15歳」と記されており、肖像画が描かれた当時の年齢は11歳前後だったことが示唆される。
1700年代前半、10歳に満たないアフリカ系の少年を英国へ送り、裕福な家庭の家事奉公人として働かせるのは珍しくなかった。
シャーマン氏はジョージ・ウォーカーという洗礼名について、「彼自身が選んだのかもしれないし、あるいはそれ以前から使っていた名前かもしれない」と指摘する。
海軍での経歴シアマン氏によると、少年が「生い立ちの物語を持つ実在の人物」だった証拠は、海軍での経歴に関する記録のうちに見つかる。ジャージーはオーリー大尉と一緒に、3隻の異なる艦船で5年以上にわたって航海を続けた。
ナショナル・トラストによると、1751年の乗組員名簿からは、1748年12月に乗り込んだ英海軍艦「モンマス」でジャージーが二等水兵から一等水兵へ昇格したことがうかがえる。
それ以前の海軍の記録では、ジャージーの名前はオーリーの従者として名簿の2番目に記されていたが、この時は「給与帳に基づき」(未払い給与の精算を受けて)退艦する予定だった他の9人の乗組員と並んで記載されている。
「これはジャージーが英海軍から給与を受け取っていたことを示唆するとみられる。ただ、未払いになっていた給与は実際にはオーリーに支払われた可能性もある」(ブレイシェイ氏)
ナショナル・トラストによると、ボストン・ジャージー、あるいはジョージ・ウォーカーの行方をたどる最後の手がかりは、1753年8月に英海軍の別の艦船「デトフォード」から退艦した時の記録だ。場所はおそらくメノルカ島のマオン港だったとみられる。
「多くの変更」研究者はX線スキャン、放射線を用いて絵の具の層を透視する赤外線反射撮影、素材表面の特性を評価する表面顕微鏡検査、絵の具サンプルの分析など肖像画に対する科学調査を通じて、レイノルズの技法の特徴を見極める作業も行った。
ナショナル・トラストによれば、少年の描写は正確なものではない可能性が高い。
ナショナル・トラストによると、調査の結果、オーリーの頭部は本格的に描かれる前に下描きが行われていたのに対し、ジャージーの頭部は下描きがなかったことが判明。これはジャージーがモデルとして座って描かれたわけではなかったことを示唆する。おそらく、従属的な立場の者とみなされたのだろう。
レノルズは当初、装飾的な自然の背景として緑豊かな枝をスケッチしていた。だがナショナル・トラストによると、後に考えを変え、無地の茶色の背景に置き換えることを選んだ。
シアマン氏は、絵の当初の背景やレノルズによる変更点を確認できたのは「本当に驚くべきことだ」と語る。
レノルズは「2人が接する部分に相当多くの変更を加えており」、当初のジャージーは「赤い布を手にしていた」というのがシアマン氏の説明だ。
シアマン氏は「これは研究の始まりに過ぎない」とコメント。研究者はこの先、ボストン・ジャージー、あるいはジョージ・ウォーカーについてさらなる事実を解明したい考えだと言い添えた。
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原文タイトル: Who was the enslaved Black child depicted in famous 18th-century portrait? Researchers can now tell his story(抄訳)
