高野山・奥の院の表参道にある「武田信玄・勝頼墓所」(写真:tonkoAFLO/イメージマート)


 2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長にスポットライトが当てられ、そのユニークな視点で話題を呼んでいる。天下人となる秀吉(演:池松壮亮)を、秀長(演:仲野太賀)は右腕としていかに支えたのだろうか。第17回「小谷落城」では、信長が浅井・朝倉攻めを再開。進退窮まった浅井長政は小谷城に籠城することに……。今回放送の見どころについて、『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』の著者・真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)

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SNSで賛否両論!第17回「小谷落城」が描いた激動の1年と「3人の死」

 5月3日に放送された『豊臣兄弟!』第17回「小谷落城」が、SNSを中心に大きな議論を巻き起こしている。

 この回は、元亀3(1572)年末から天正元(1573)年にかけての激動期を、わずか1話で一気に駆け抜ける構成だった。

「三方ヶ原の戦い」「足利義昭の追放」「朝倉氏の滅亡」、そして「浅井氏の滅亡」と歴史の大転換点がこれでもかと詰め込まれている。

 物議を醸した最大の理由は、その中に登場する「3人の死に方」にある。

 武田信玄(演:高嶋政伸)、朝倉義景(演:鶴見辰吾)、浅井長政(演:中島歩)と、いずれも実在した戦国武将の最期が、それぞれ大胆な独自解釈で描かれることとなった。

 SNSでは「史実と違いすぎる」「新解釈すぎる」という声が相次ぐ一方、「号泣回」「衝撃回」と感動する視聴者の声も広がった。

 ドラマはどのように描き、史実はどうだったのか──。3人それぞれを見ていこう。

わずか9分でスピード退場、武田信玄を襲った「餅」の衝撃と『甲陽軍鑑』の記録

 今回の放送では、冒頭から武田信玄が登場。屋敷の庭で子どもたちと楽しそうに餅つきをしながら、信玄は「そう慌てるでない。喉に詰まらせぬよう、気を付けるのじゃぞ」と笑顔で言い聞かせる場面から始まった。

 川の氾濫を防ぐ巨大な堤防「信玄堤」を造り、水害から領民の田畑と命を守った信玄。「人は城、人は石垣、人は堀」という言葉に表れるように、家臣や領民を大切にした。

 子どもたちを見守る信玄の姿は、いかにも領民思いの信玄らしいが、この場面がその後の展開への「フラグ」だったことに、視聴者は後から気付くことになる。

 ドラマでは、将軍・足利義昭(演:尾上右近)自ら信玄のもとへ赴き、信長討伐を直訴する。これを受けた信玄は軍を起こし、三方ヶ原で徳川家康(演:松下洸平)を撃破する。

 信長包囲網の盟主として、いよいよ天下を動かす存在として登場した……かと思われた矢先、陣中に地元の百姓から「心づくし」として握り飯が届く。ところが先に食べた家臣が血を吐いて倒れ、毒入りだったことが発覚する。

 辛くも命拾いした信玄は「天はわしに味方しておる。この戦、我らの勝ちじゃ」と確信を深めた。しかし翌日、信玄は横たわったまま息絶えてしまう。家臣たちは呆然としながら、こうつぶやいた。

「御屋形様(おやかたさま)は毒を恐れ、自らついた餅ならば大事あるまいと……」
「ならばまさか、餅を喉に詰まらせて死んだというのか」

 第17回の冒頭に登場してから、わずか約9分後の退場である。早すぎる展開にSNSでも驚きの声が上がったが、問題視されたのはその死に方だ。

 信玄は天正元(1573)年、西上作戦の途上、三河・野田城を攻め落とした後、陣中で病状が急激に悪化。甲斐への帰還を余儀なくされたが、撤退途中の信濃・駒場の地で帰らぬ人となる。

 死因についてはいくつかの説がある。武田氏の戦略・戦術を記した軍学書『甲陽軍鑑』によると、当時の侍医は「6年前から膈(かく)を患っていた」と記録していたというから、長期にわたる消化器系の疾患だった可能性が高い。食道がん、または胃がんとする説が有力視されている。

 そのほかに肺結核説もあれば、さらに近年では山梨県に流行した「日本住血吸虫症(寄生虫感染症)」を真の死因とする新説も提唱されている。「毒殺説」も一部で語られてきたものの、定説にはなっていない。

「信玄が餅をのどに詰まらせて亡くなる」というのは、信玄が非常食としたという逸話から生まれた「信玄餅」(起源については諸説あり)からイメージを膨らませたのだろうか。

 あるいは、「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 座りしままに 食ふは徳川」という有名な落首(らくしゅ:作者不明の狂歌のこと)がある。「餅」が何かしらのキーワードとなる可能性は残されているが、現段階ではやや唐突な印象を受けた。

守られなかった「3年間の秘匿」、ドラマで描かれた山県昌景の苦闘

 信玄の臨終を巡っては、「自分の死を3年間隠せ」と命じたという逸話がよく知られている。

 息子の勝頼に対して、孫の信勝が成人して家督を継ぐまでの間、自分の死を外部に秘匿するよう命じたという。「他国の大名が自分の死を知れば、即座に領国へ攻め込んでくる」という信玄らしい冷静な判断からだろう。

 実際には、そんな遺言もむなしく、死後間もなくして他国に発覚。信玄の死というチャンスを、織田信長や徳川家康が見逃すはずもなく、2つの勢力は急速に拡大していくことになる。

 ドラマのような急死だと、そんな命令を下す暇もないため、放送では武田家の重臣で「武田四名臣」の一人、山県昌景(やまがた まさかげ)が遺体を発見した家臣をすぐさま殺してまで、信玄の死を隠蔽。「まだ御屋形様には生きていてもらわねばならんのじゃ」とつぶやいている。

 しかし、勝頼にまで信玄の死を隠すのは、さすがに無理があるだろう。また、信玄が「自らの死の際にしても武田氏の行く末を考えて最後の命令を下した」という名将ぶりも霞んでしまう展開だったように思う。

史実の朝倉義景が景鏡に遺した「恨み節」と裏切り者の「悲惨な末路」

 次に問題視されたのが、朝倉義景の最期である。義景は、三方ヶ原で信玄に敗れた家康を横目に、援軍として北近江へ出陣している。

 だがドラマの中での義景は、優柔不断で身勝手な人物として描かれており、「わしは戦など嫌いじゃ」と漏らしながら動かず、最終的には一乗谷に火を放って退却しようとする。

 撤退の途中、越前・賢松寺で従弟の朝倉景鏡(かげあきら/演:池内万作)と対峙した義景は、まだ住民が残っているにもかかわらず「一乗谷に火を放て。織田に奪われるくらいなら、この手で滅ぼしてくれる」と言い放った。

 すると、景鏡はおもむろに背後から義景に近づき、一太刀で首を斬り落として、こうつぶやいた。

「お許しくだされ……殿の首級(しゅきゅう)と引き換えに、皆の命を救いまする」

 実際にはどうだったのか。『朝倉始末記』によれば、信長の軍に敗れた義景は越前へ敗走した。景鏡は義景に「大野に退くのがよいと思います」と進言し、義景を大野市の賢松寺へ連れ込んだ。

 ところが、そこで景鏡は自軍をもって賢松寺を完全に包囲。嫡男の愛王丸を失った義景は、逃げ場を失って自害した。つまり、景鏡は自ら刀を振るったわけではなく、主君を包囲して追い詰め、自害させた……というのが従来の見方である。

『朝倉始末記』では、義景が景鏡にこんな恨み節を残している。

「憎い景鏡の反逆なり。今死すとも悪霊悪鬼となって、3年のうちに父子とも殺してやる」

『朝倉始末記』は朝倉氏の興亡を記した軍記物語で、事実の記録ではないが、景鏡の裏切りが、後世でどのようにとらえられていたかが分かるだろう。

 その後の景鏡はどうなったかというと、信長の配下となったものの、天正2(1574)年、越前一向一揆に巻き込まれて命を落とす。朝倉一族の裏切り者に同情する者はなく、孤立無援のまま果てたといわれている。

 ドラマでは「民のためにやむなく織田方についた」という同情的な動機が与えられた景鏡だったが、実際には裏切り者らしい悲惨な末路をたどった。

一乗谷朝倉氏遺跡の唐門(写真:beauty_box/イメージマート)


「市が夫を介錯する」衝撃の展開、浅井長政の自刃を巡る史実

 裏切り者といえば、信長から離反した浅井長政の最期も、一部の視聴者から不満の声が寄せられることになった。

 ドラマでは、小一郎と秀吉は小谷城に乗り込み、長政にお市と三姉妹を逃がすよう説得しようとする。

 しかし、長政は「織田信長と戦い、あと一歩というところまで追い詰めたことを、わしは誇りにしておる」を語り、和睦を拒否。別れの場として相撲勝負を兄弟に挑み、2人を圧倒して「勝った……わしは勝ったんじゃ」と叫んだ。かつて信長に相撲で完膚なきまで負かされた屈辱を、最後に晴らすかたちとなった。

 その後、長政はお市に三姉妹を託して「そなたらしく、強く生きてくれ」と別れを告げ、自刃しようとする。

 いったんはその場を離れた市だったが、考え直したようだ。小一郎から刀を借りると、市は苦しむ長政のもとにいき、自ら介錯するという衝撃的な展開となった。

 実際には、天正元(1573)年9月1日、浅井長政は小谷城本丸近くの赤尾屋敷に追い詰められ、重臣の赤尾清綱、弟の浅井政元らとともに自刃したとされている。享年29という若すぎる死だった。

 お市と三姉妹は、その前に織田方へ引き渡されており、長政の最期に立ち会ったという記録は残っていない。今回の「長政の介錯」は確かにドラマティックではあるが、言うまでもなく史料上は確認できず、かなり大胆な創作といえる。

 これからのち、市は柴田勝家のもとに嫁ぐも、秀吉と勝家が対立。秀吉軍に追い詰められて、勝家は居城の越前北ノ庄城にて、妻の市とともに自害を果たす。

 もしかしたら、市が自身の最期を迎えるときに、長政の介錯を務めたことが、重要な意味を持つのかもしれない。ドラマの展開を見守りたい。

「万福丸」の過酷すぎる運命、関ヶ原に散った浅井の血統と信長の苛烈

 長政の自刃の後、信長の仕置きは苛烈なものとなる。

『信長公記』には、天正2(1574)年の正月、信長が内輪の宴席において、義景・久政・長政の頭蓋骨を漆塗りにして白木の台に飾り、大名たちに披露したと記されている。

 ただし、頭骨を杯として酒を飲んだというのは後世に尾ひれがついた話で、現在では「髑髏杯(どくろはい)」は作り話とされている。

 さらに悲惨だったのが、長政の嫡男で、当時10歳前後だった万福丸の運命だ。ドラマでは、秀吉の口から「くまなく行方を捜したんじゃが、どこにもおられませんでした」と市に説明するシーンがあった。

 だが、実際には城外へ逃がされていた万福丸が、敦賀付近で捕らえられ、美濃国不破郡関ヶ原付近で磔に処される。浅井家の血統を断つための信長による処置だったという。

 その一方で、長政と市との間に生まれた3人の娘である茶々・初・江は生き延びて、戦国乱世の世をわたっていくことになる。とりわけ秀吉と深くかかわる茶々は、キーパーソンとなるだろう。成長した茶々が、秀長とどんな絡みをするのか、楽しみである。

 次回「羽柴兄弟!」では、秀吉は織田家家老に昇格。北近江を拝領すると、領地に長浜城を築いて城持ち大名へ。小一郎は城下の統治を任されることになる。

【参考文献】
『甲陽軍鑑』(佐藤正英校注・訳、ちくま学芸文庫)
『朝倉始末記 日本合戦騒動叢書 4』(藤居正規著、勉誠社)
『現代語訳 信長公記』(太田牛一著、中川太古訳、新人物文庫)
『現代語訳 三河物語』(大久保彦左衛門、小林賢章訳、ちくま学芸文庫)
『史料大成多聞院日記〈全5巻〉』(竹内理三編、臨川書店)
『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(河内将芳著、戎光祥出版)
『豊臣秀長 シリーズ・織豊大名の研究』(柴裕之編、戎光祥出版)
『豊臣秀長のすべて』(新人物往来社編、新人物往来社)
『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』(真山知幸著、日本能率協会マネジメントセンター)

筆者:真山 知幸