「就職しても役員にはなれない」…三井財閥が総領家の“三井一族”を徹底的に冷遇した“深すぎる背景”
戦後、GHQによる財閥解体を経て、三菱の岩崎家や住友家の人々は自グループの役員として復帰を果たしていった。しかし、三井財閥の総領家である三井一族だけは事情が違った。彼らは三井系企業に就職できても、決して役員には昇進できなかったのだ。
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なぜ、三井グループの専門経営者たちは“ご主人方”である三井家を徹底的に遠ざけようとしたのか?
経営史学者・歴史家の菊地浩之氏による『財閥と閨閥 10大財閥の婚姻戦略』(角川新書)の一部を抜粋して紹介する。

三井本館と高層ビル(東京都中央区日本橋) ©AFLO
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財閥家族の戦後
第二次世界大戦が終結し、財閥解体で三井家や住友家、三菱の岩崎家などの財閥家族は「公職追放」(戦時中の軍や政財界の主要人物を公職から追放すること)で役員の辞任を余儀なくされた――と、ここまでは比較的よく知られている話である。では、その後、財閥家族はどうなったのか。
1950年代中盤に公職追放が解除され、三井一族が役員復帰する道筋がついた。後述するように、三菱の岩崎家等では関連の深い会社の役員に復帰している。ところが、三井の場合はそう簡単にいかなかった。
戦後、三井グループの再結集に尽力し、三井不動産社長を務めた江戸英雄によれば、三井でも「十一家のご主人方を関係の深い各社で引き取り、お世話する案(たとえば三井不動産は三井総領家)を提案したが、各社幹部から強い反対があり、これまた実現をみなかった。わずかに後年、総領家のご主人を三井不動産の名誉相談役とする案だけが実現をみた。
(中略)商号・商標護持に成功したのを機会に、昭和二九年(一九五四)末になって、その使用料を支払うとの案が浮上した。『この使用料を十一家にあげてはどうか』ということになり、長老の向井氏と万代順四郎氏が各社の幹部を歴訪し、ようやく実現の運びとなった。これが今日まで続いていて、唯一の生活財源となっている三井家もある。三菱グループは岩崎家が二軒、住友家は一軒で、いずれも適切な対策でご心配のない実情であることと比べて、多年の繁栄の歴史を顧みるにつけ、感慨に堪えないのである」(『三井と歩んだ七〇年』)。
役員復帰を大反対した三井一族アレルギーは戦前の態度が起因していた。
一族の中でも総領家(北家)には、日本を代表する財閥の当主という覚悟があったが、分家筋にはそういった意識がない。10代・三井八郎右衛門高棟は三井合名理事長の団琢磨と連携して、分家が放埒な態度をとらないように抑えていた。
一族からのプレッシャー
ところが、高棟が引退し、団が暗殺されると、「団氏亡きあと、団氏と同年である先代八郎右衞門氏の長男、三井高公氏が社長に就任された。しかし、先代三井八郎右衞門氏が団氏とのコンビで三井十一家を抑えていただけに、その引退のあとを受けた高公氏の苦労は多かった。十一家のご主人の若手のなかには俊敏な方々が多く、これまで沈黙を守ってきた反動もあって、その取り扱いに手を焼かれた。また本来、三井家は家憲によって十一家は一体であり、総領家の当主が社長として全体を統轄する建前が連綿と続いていたにもかかわらず、時局が大きく動き、下剋上が一般的になっていた世情も反映して、若い高公社長の手に負えなくなった」(『三井と歩んだ七〇年』)
また、団の後任の池田成彬にいわせれば、「私が〔三井〕合名にいってはじめてわかったのだが、あすこの理事長の仕事というものは、三井家のまとめ役です」。「三井は十一家であるのですが、持株の数は違うけれども、その十一家にはやかましい人もあり、口を出す人があって、そのまとめ役というものは一通りではない」。「合名にいってから、私の時間なり、エナージーなりの七、八割まではその方に使い、あとの二、三割だけが本当の合名の仕事に向けられた」(『財界回顧』)。
三菱財閥は当主みずからが経営全般を取り仕切り、住友財閥は当主が専門経営者に全面委任していたが、三井財閥は専門経営者が経営を担っているとはいえ、大株主・三井一族からのプレッシャーが半端ではなかった。しかも、十一家が銘々に発言するので、とにかく大変だったらしい。また、十一家が三井財閥の直系会社の役員に分担して就いていたため、一社に複数の三井一族がおり、各社の派閥争いの遠因になったという。
就職しても役員になれない
では、子ども世代はどうだったのか。たとえば、終戦時の三井総領家の当主・三井八郎右衛門高公には四人の息子がおり、当然のようにそれぞれ三井系企業に就職していた(長男は戦前に早世)。
・次男・三井高実(1927生まれ) 三井船舶 → 北泉学園理事長
・三男・三井公乗(1928生まれ) 三井銀行 → オランダ銀行顧問
・四男・三井之乗(1931生まれ) 三井物産勤務
ところが、かれらはいずれも役員に昇進しなかった。これも後述するのだが、三菱の岩崎家、住友家はいずれも取締役・常務クラスに昇進するのがお約束だった。古河家や大倉家では財閥直系企業(一部上場企業)の社長に就任したケースもある。戦前の専門経営者の恩讐が戦後も続いていたのだ。
なお、就職しても役員になれない事例は、総領家の北家だけではない。「三井十一家」の戦後の当主はいずれも三井財閥直系会社の役員になっていない。直系会社に就職してその関連会社に転出して役員になったり、傍系会社に就職して役員になった事例は下記の通り。
・松坂家10代・三井高周(〜2010)三井物産→三井石油開発監査役
・五丁目家三代・三井照夫(1940生まれ)三井信託銀行→オリエンタルランド常務
・本村町家四代・三井高尚(1943生まれ)トーメン監査役
ちなみに、高公は平成まで生きながらえた。相続対策から1986年に孫の三井永乗(之乗の子。1972生まれ。2009年に八郎右衛門を襲名)を養子に迎えたのだが、相続税を工面することができず、屋敷の一部を競売に掛けて物納した。それを競り落としたのは三菱地所だという。これも三菱・住友だったら、グループ企業が何とかしたに違いない。
躰よく利用される三井家
三井グループの専門経営者は三井一族を遠ざけ、縁を切ろうとした。しかし、使える時には使うのである。
戦後、日本企業においては、海外からの技術導入が盛んであったが、技術供与を受けるに当たって、三井グループ会社であることは大きなアピール・ポイントになった。たとえば、東洋レーヨン(現・東レ)が米デュポン社と契約を交わした際、社長・田代茂樹はわざわざ三井家の当主を宴席に呼び、東レが三井財閥の系譜を引く企業であるとアピールした。
三井八郎右衛門(高公)の述懐によると「戦後も三井という名前については、諸外国、特にアメリカでは高く評価されてはいたが、反面、日本経済に対する認識の一つとして、財閥解体、集中排除法などで企業は弱小細分化され、また、三井グループも縦横の繫りがなくなり信頼置けないのではないかとの見方もありました。偶々、アメリカのデュポン社と契約の際、滋賀工場見学の機会に京都の岡崎の『つるや』で私に同席を求められ、席上で『三井グループは健在である。その証左には三井の名を冠しない東洋レーヨンのためにすら、三井家の当主が出席されている』と〔田代社長が〕強調」(『田代茂樹 遺稿 追悼』)していたという。つまり、三井家の当主は躰よく利用されたのである。
現在の三井物産と似て非なる「三井物産」
『東大紳士録 会社編 昭和30年度版』によれば、三井高遂と三井高篤が三井物産の嘱託に就いている。『東大紳士録』なので、東京大学OBしか掲載されていない。だから、この二人以外の三井一族も三井物産の嘱託に雇傭されていた可能性が高い。「十一家のご主人方を関係の深い各社で引き取り、お世話する案」が猛反対でたち消えたのにもかかわらず、なぜか。
実はこの「三井物産」。戦前の、いや現在の三井物産とも似て非なるものなのである。
第二次世界大戦で敗戦を喫した日本では、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策で財閥解体、過度経済力集中排除法により高シェアの独占企業が解体された。具体的には、日本製鉄が四社、三菱重工業・王子製紙が3社に分割された。しかし、そうは言っても3、4社である。三井物産は百数十社に、三菱商事は100社以上に解体させられた。しかも、その事業再開には制約が課せられた。
そのうちの一つが「この覚書の日付以前10年の間に、役員・顧問・在内外支店支配人または部長であった者が集合して新たな会社をつくることを禁止。また、同一会社にこれらの人びとの2人以上が雇用されることを禁止」。また、「これら役職員以外でも、100名以上が同一会社に雇用されることを禁止」という厳しいものであった。
三菱商事は将来の再統合を見据えて部・課単位に「新会社」を発足させ、占領政策が緩みはじめると、互いに合併を重ね、1952年に3社に統合。光和実業が三菱商事と改称して、1954年に3社を吸収合併し、「三菱商事の大合同」を成功させた。
筆者が起業して、新設した会社に「三菱商事」と命名しようとしても、それは受け容れられない。既に「三菱商事」という商号が登録されているからである。三菱商事が解体された時、旧総務部職員が設立した「新会社」光和実業が、三菱商事という商号を管理していたから、大合同にあたってスンナリと三菱商事を名乗ることができたのである。
一方、三井物産も同じ頃に、第一物産と室町物産という二つの「新会社」に集約されつつあった。両社は大合同にあたって、条件が有利になるように虚々実々の駆け引きを繰り広げた。ここで面倒なことに、「三井物産」の商号を預けられた「新会社」の日東倉庫建物が商号復帰し、1953年に室町物産と合併して三井物産を名乗ってしまったのである。
そこで、第一物産は対抗策として1954年に三井木材工業を合併して「新三井物産」に社名変更すると発表したが、グループ各社からの圧力で社名変更を断念した。こうして、三井物産の大合同はこじれにこじれ、三井物産(旧・室町物産)が業績不振に陥り、弱気になってやっと合併協議が煮詰まり、1959年2月に第一物産と合併。三井物産の大合同となった。三菱商事に遅れること5年、この間、三菱商事は着々と業績を伸ばし、以来、三井物産は三菱商事の後塵を拝することになった。迷走劇は高くついたのである。
さて、1955年当時の三井物産とは、大合同に向けて条件闘争していた旧・室町物産のことである。第一物産が総合商社としての陣容をほぼ整えていたのに対し、三井物産(旧・室町物産)の実態は金属専門商社に過ぎず、条件的には不利だった。そうしたことから、少々汚い手を使っても三井物産という社名を手に入れ、三井一族を非常勤の嘱託として採用して本流であることを証明したかったのだろう。
でも、三井物産の商号を守っていたのは三井家だった
戦後、三菱商事が米国で商号登録しようとしたところ、第三者がすでに「MITSUBISHI-SHOJI」「MITSUBISHI-TRADE」という商号を登録していたため、これらの商号を名乗ることができず、「MITSUBISHI.CORPORATION」で登記したという。
では、三井の場合はどうなっていたのか。実は三井家が商号を保持していた。
南家の三井高陽によれば、「三井家は連合軍総司令部の命令で持株を取り上げられ、役職から追放されたのであるが『みつい』の名は何とか三井家として保持したいという考えで、伝統ある先祖からの名を濫りに勝手に使われてはこまるということで、これは三井高修さん、三井弁蔵さんの奥さん栄子さん等が努力され、商号保存の法律的な処置をとったらどうかという事になって、このお二人が米国の弁護士に商号保全の手続きをされた。(中略)商号保全は外国における『みつい』の名称を押えたので、これでアメリカでもどこでも、三井家の承諾なしに使えないようになったのであるが、しかし、三井家としては毎年同弁護士に対して商号保全料を支払わなければならない。(中略)三井物産など外国で『みつい』の名を使わなければ多年の信用上困るということで、(中略、三井金属鉱業社長・佐藤久喜が三井物産に掛け合って)漸く三井商号保全料で三井家立替分を三井物産から貰って来られ、これを立替えて居られた三井家の主人に御返し致し、ここではじめて三井商号の外国にての自由使用ということになった」(『佐藤久喜』)。
三井家に支払うくらいなら、商標は使わない
先述した通り、江戸英雄が尽力して三井商号と「丸に井桁三の字」商標の使用料を各社から徴収し、三井各家に支払うこととした。
ところが、三井グループ企業の多くは意外に「丸に井桁三の字」商標を使っていない。
各社のホームページを見ると、「丸に井桁三の字」を大々的に掲げているのは二社だけ(2026年現在。2005年の調査では三井倉庫だけだった)。三井広報委員会自体が使っていないのだから、あとは推して知るべしといったところであろう。
大正海上火災保険が三井海上火災保険(現・三井住友海上火災保険)に社名変更した際、「『三井』の商号を使用する場合には、使用するしないにかかわらず、かならず『丸に井桁三』のマークを作成し、三井商号商標保全会に届け出て、承認を得ることになっていた。当社もその手続きをおこなったが、実際には社章として『丸に井桁三』は使用せず、新たなシンボルマークを使用することにした」(『三井海上火災保険株式会社七十五年史』)。
つまり、「三井」を冠する三井グループ企業は、原則として「丸に井桁三の字」商標を持っているのだが、それを社章として使うか使わないかは各社に任せている。合理的な三井グループ企業のことだから、商標使用料をケチって使わないことが多いのだろう。
ちなみに、三菱石油(現・ENEOSホールディングス)は合併によって、日石三菱、新日本石油と社名を変えていったが、三菱商号とスリーダイヤ商標を捨てることで数億円の使用料が浮いたと新聞で報じられた。つまり、商号・商標使用料は数千万円から数億円単位もかかるということだ。スリーダイヤ商標にはそれだけの価値があるが、「丸に井桁三の字」商標はそこまでの価値がないということか。
〈「結婚できなきゃ生きていけない」三菱財閥の御曹司が“とある絶世の美女”に貢いだ規格外の結婚費用の内情《十数億円という試算も…》〉へ続く
(菊地 浩之/Webオリジナル(外部転載))
